男に去られた女に残されたもの

 11月9日(月) 晴


 今日のあいつはいつもと違った。仕事の合間もちょくちょくあいつからのメールを見ていたんだけど、これまでとは少し雰囲気が変わってるんだよね。何て言うのかなあ、悲壮感が漂っている、そんな感じ。


『件名:どうして円安なの。ここは円高でしょ』

『件名:そろそろのはずなんだけど』

『件名:変だなあ変だなあ』


 こんなのが次々に送られてくる。


「これは、ひょっとして投資がうまくいってないんじゃないのか」


 ちょっと嬉しくなった。人の不幸は蜜の味って言うけどホントそれ。

 しかも今日はあいつのメールのほとんどが投資に関することで、それ以外のこと、例えば、

『件名:またハンカチ貸して。シコシコするから』

 みたいな、

「やっぱりあのハンカチでR18な行為に耽ってたんかあ。このヘンタイめ!」

 って大声を上げそうになるメールは数えるほどしかなかった。


「そうだよね。そんな簡単に儲かったら投資家は全員金持ちになれるもんね」


 先週から闇に閉ざされていたあたしの未来に、ほんの少しだけど光明が差し込んできたような気がした。勤務を終えてひと風呂浴びてチューハイを飲みながら、あたしは今、次々に送られてくるメールを眺めている。愉快だ。あいつのメールを見るのがこんなに楽しいのは初めてだな。


『件名:うえーん、また失敗(大泣)』

『件名:どうしよう。もう損切なんかできない』

『件名:あう、あうあう』

『件名:しゃぶしゃぶ食べたい』

『件名:お願い、お金貸して。30万円貸して』

『件名:30万円が無理なら3百円でもいいから貸して!』

『件名:うぎゃああ、やめてええ、助けてえ!』


「これが断末魔ってヤツか。哀れすぎる」


 さすがに後半は居た堪れなくなってきた。そもそも30万貸してってどういうことだよ。借金を肩代わりしている相手に借金申し込むって、あいつ、完全に理性を失っているな。まあそれくらい悲惨な状況に追い込まれているんだろう。30万の期限は明日の19時35分。残り24時間を切っている。この様子なら稼ぎ出すのは不可能っぽい。よかった。寝よ。



 11月10日(火) 晴


 終わった。全てが終わった。「あたし争奪30万円大勝負」はあたしの勝利だ。


「何、このメール」


 今日は休み。思いっ切り朝寝坊して洗顔してコーヒー飲んでスマホをチェックしたらあいつからこんなメールが届いていた。


『件名:早いけど終了。10時ごろそっちに行くからよろしく』


 時計を見る。9時10分前。寝過ぎだ。兄にメールする。


『そうか。ならオレもそっちに行こう。以上』


 今日は勝負の決着の日。兄はこの日のためにわざわざ年休を入れてくれたので一日フリーだ。


「まさかあいつ30万稼いだんじゃないだろうな」


 約束の時刻までまだ10時間以上ある。それなのにこちらに来るということは、これ以上の取引は無意味だということだ。それはつまり目的を達成したことを意味しているのではないか。

 あたしは目の前が真っ暗になった。昨晩の悲壮感漂うメールは何だったんだ。あたしを油断させるためのウソだったのか。くそっ、件名だけでなく本文も見ておけばよかった。


「あああ、天は我を見放したか!」


 八甲田山を彷徨さまよっている気分だ。やがて兄が来た。楽天家の兄もさすがに暗い顔をしている。あたしと同じことを考えているのだろう。


「すまん、まさかこんなことになるとは」

「いいよ。あたしのために頑張ってくれた結果だもん。兄貴を責めるつもりはないよ」

「結婚式の御祝儀は相場の倍にするから許してくれ」


 飛躍し過ぎだ! 誰も結婚するなんて言ってないだろう。恋人でいいんだろう。冗談じゃないぜ。


 ピンポーン。


 チャイムだ。ドアを開けるとあいつが立っていた。中へ入れる気はないので外に出る。


「30万、稼げたのか?」


 兄が尋ねるとあいつはにっこり笑った。


「ううん。一文無しになっちゃった」


 いやあ、腰が抜けるって経験を初めてしたよ。気がついたら廊下にへたり込んでいた。そして心の底から神様仏様に感謝した。あたしの願いを叶えてくれてありがとう。


「ここで立ち話もなんだな。天気もいいし近くの公園で話そう」


 あたしたち3人は公園に行くとベンチに腰掛けた。そして自販機のドリンクを飲みながらあいつの話を聞いた。


「最初は超絶好調でね、これはもう勝利は確実だと思っていたんだけど、そこで欲が出ちゃった。もっとたくさん稼いでお姉さんと歩む新しい生活の資金にしたいって思って、かなり無茶なポジションを取っちゃったの。そしたら相場がグーンってなって、アチャーと思っているうちに、ズコーなことが起きて、気がついたら口座残高がほとんど無くなってたの」


 後半は擬態語だらけでよくわからんが要するに投資に失敗したのだろう。まあ、自分の状況をこんな言葉でしか表現できないようなヤツだから失敗したとも言えるのだろうが。


「しかしまだ9時間以上残っている。残高はゼロではないようだし、今から頑張れば30万稼げるかもしれんだろう」


 兄貴、余計なアドバイスはやめろ。せっかく負けを認めたんだぞ。このままあたしたちの勝ちでいいじゃないか。


「うん、その可能性もゼロじゃない。でもボクもう疲れちゃったんだ。ヤル気ゼロって言うのかな。昨日からほとんど寝てないし。勝てる気がしなくて」


 ずいぶんと気弱だな。まあ全財産を失ったに等しいのだから気落ちする気持ちはわかる。


「そうか。了解した。それではただいまを以って『彼女争奪30万円大勝負』は終了する。勝者は我々、敗者は君。異存はないな」

「うん」

「ならば宣誓書に決着確認の署名捺印をしてくれ。それが済めば敗者証明書を発行する」


 こんな遊びみたいな勝負ごとにそんなものまで用意してあるのか。金融関連の営業マンは一味違うな。

 兄とあいつは粛々と事後処理を行った。やがて全ての手続きが済むと兄とあいつは握手した。


「これからも末永くお付き合いよろしく」

「あ、はい」


 勝負は終わっても兄が加入させた生命保険は続行中。つまりあいつは兄にとってのお客様だ。あたしとは縁が切れても兄とは縁が切れない。ご苦労なこった。


「ところで君はこれからどうするんだ。もう投資で生計を立てていく気はないんだろう」

「そろそろ田舎に帰ろうかなって思ってる。母ちゃんも年だしね。お見合いの相手と就職先は探してやるって言ってくれてるし」


 親ってのは有難いな。こんな情けない息子でもちゃんと面倒をみてくれるんだから。バカな子ほどカワイイって言うしな。


「お姉さんともこれでお別れだね。最後の思い出作りにこれから紅葉狩りにいかない? お弁当も作ってきたんだ。自転車ある? なかったら電車で行こうよ」

「お断りします」


 あたしはキッパリと言ってやった。これ以上こいつにはかかわりたくない。


「あんたは負けたの。つまりあたしとあんたは赤の他人。店員と客の関係どころか知り合いですらない。二度とあたしの前に姿を現さないで。メールアドレスも削除するからね」

「ふっ、手厳しいな。まあそういうことだ。悪いが諦めてくれ。代わりにオレが一緒に行ってやろうか。君は会社の顧客だからな」


 兄は完全に営業スタイルになっている。これからこいつもこいつの家族もさまざまな金融商品を兄から買わされるんだろうな。御気の毒。


「男と一緒に行くくらいならひとりで行くよ。じゃあ、お弁当だけ受け取って。ボクが作ったおにぎり」


 こいつが作ったおにぎりだと。変なモノを握り込んでないだろうな。自分の髪の毛とか。


「大丈夫だよ、髪の毛とか爪とか入れたりしてないから。エヘエヘ」


 いや、これは絶対入れてるわ。自分から白状するなんてどんだけ間抜けなんだ。


「はい、どうぞ」


 紙包みを押し付けてきた。無視して受け取らない。代わりに兄が受け取った。


「ならオレがもらっておこう。気をつけて行けよ」

「うん。じゃあさよなら」


 あいつは公園を出て行った。少し拍子抜けした。これまであんなにあたしに執着していたのに、まるで憑き物が落ちたみたいにさっぱりとした性格になっている。


「あいつ、なんだか変わったわね」

「これまで本気で勝負事に挑んだことがなかったからだろう。自分の限界に挑戦したことも、死力を尽くしたことも、力及ばず敗北したことも、彼には全てが初めての経験だった。そしてその経験が彼を変えたんだ」


 そうかもしれないな。初めて会ったときよりかなりいい顔付きになっている。まあ基本的な部分は変わっていないだろうから、どんなに変わろうとあたしは好きになれないけど。


「これからはオレの営業成績向上のために役立ってもらうとしよう」

「兄貴、相変わらずの鬼畜、いや社畜だな。それからその弁当は食べないほうがいいぞ。絶対に腹を壊す」

「言われるまでもない。オレも捨てるつもりだ」


 11月の風は冷たかったが日差しには温もりがあった。自転車を漕いで走っていくあいつの後ろ姿は小さく見えた。



 11月11日(水) 晴


 ため息しか出ないよ。どんなに嫌な相手でも二度と会えないとわかると寂しさを感じるものなんだね。

 今日、仕事が終わって店の外に出ると兄が立っていたんだ。驚いたよ。用があるときはいつもメールだし、直接会うときは事前にあたしの都合を確認してからだから。こんなふうにいきなりファミレスにやって来るなんて初めてだった。


「よう、時間はあるか」

「あるけど。いきなりどうしたんだよ兄貴。急用か」

「まあな」


 それからいつもの雑居ビル2階の喫茶店に入った。夕食は社員半額ディナーで済ませてあるのでコーヒーだけ頼んだ。兄も同じだ。


「単刀直入に言おう。あの男が亡くなった」


 冗談、と言おうとして口を閉ざした。兄は滅多に冗談を言わない。ましてや人の生死にかかわることでウソをつくような男ではない。少し体が震えた。


「どうして。昨日はあんなに元気だったのに」

「事故だ」


 それから兄は詳しく話してくれた。昨日の午後、自転車で山道を下っている途中、ハンドル操作を誤って崖下に転落したらしい。見つかったときにはすでに心肺停止状態だったそうだ。


「昨日のうちに会社に連絡があった。年休返上で警察に行った。警察が問題視したのは先月末に加入した保険だ。状況は単なる自損事故だが保険金目当ての事件、あるいは自殺の可能性があるからな」

「いや、あいつは自殺するようなヤツじゃないだろ」

「そうだ。そもそも動機がない。投資に失敗したとしてもそれは勝負に負けただけだ。借金を抱えたわけでも文無しになったわけでもない。おまえみたいなアラサー女に振られたところで痛くも痒くもない」


 くっ、ずいぶんな言い方じゃないか。まあ否定はしないが。


「保険金目当てにしても不自然だ。保険金受取人は指定しなかった。となると死亡保険金は遺産として相続されることになる。おそらく母親が全額受け取ることになるだろう。そうなると動機があるのは母親しかいないわけだが、たった50万の金のために毎月仕送りしているほど溺愛している息子の命を奪うはずがない。ということで事故として処理された。現場は長い下り道が続いた後で急に左カーブが始まる危険な場所らしい。今年に入ってから2件事故が起きている。あの男は前日徹夜で寝不足気味だった。下り道を漕がずに走っていてウトウトしてしまったのかもしれんな」

「そうか。なんだか気が重いな。半分はあたしのせいなのかな」


 不思議なものだ。あんなに嫌っていたのに今は懐かしさしか感じられない。もう少し優しくしてあげればよかったかな、そんな気持ちさえ芽生えつつある。


「気にするな。おまえに会おうと会うまいと昨日命を落とすことが彼の運命だったのだ。運命は誰にも変えられぬ。むしろおまえに会ったことで彼は最後の瞬間に鮮烈な光を放つことができた。自分の全てを賭けて勝負に挑んだのだからな。おまえに会えて彼は幸せだったと思うぞ」

「兄貴にそう言ってもらうと気が楽になるよ」

「話は以上だ。明日は彼の母親に会って死亡保険金受取の手続きをする予定だ。その保険金で新たに保険に加入してもらればオレも万々歳だ」


 さすがだな。転んでもただでは起きない。営業マンの鏡だ。

 兄はコーヒーを一気飲みすると「うむ、やはりここのコーヒーはウマイ!」と言って出ていった。スマホを取り出す。あいつからのメールが削除されずに残っている。最後のメールの送信は昨日の昼。画像が添付されている。


『件名:キレイだよ!』


 あたしは初めてあいつのメール本文を開いた。何も書いてなかった。添付された画像にもあいつの姿はなく、ただ哀しいほどに鮮やかな山々の紅葉が写されているだけだった。

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