金が全ての問題を引き起こす

 10月30日(金) 晴


 やれやれ、やっと明日は休み。この4日間は長かったな。

 火曜日に「あたし争奪30万円大勝負」が始まって以後、アパートやファミレス近辺からあいつの気配は一切なくなった。一歩も外出せず取引に没頭しているらしい。嫌なヤツから解放されて晴れ晴れとした気持ちで毎日を送れる、と思ったのにうんざりする日々が続いている。メールが頻繁に送られてくるのだ。


 火曜日、あいつと兄の3者会談を終えて帰宅したあたしはさっそくフリーメールのアドレスを入手した。あいつだけに送信しあいつからしか受信しない専用のアドレスだ。2週間後には当然削除する予定。


『差出人:あたし。件名:アドレス通知。本文:なし』

「ほれ、喜べ」


 送信した。送信して数十秒で返信が来た。早すぎるだろ。


『差出人:世界で一番君が好き。件名:お姉さんのパンツ何色?』


 即行で削除した。本文は見てないから知らん。って言うか、あたしが最初に就職したコールセンターで「パンツ何色?」って訊いてきた男、まさかこいつだったんじゃないだろうな。「ウンコ色です」って返信したくなったけどやめた。あいつが喜ぶだけだし。


 それからは毎日数十分おきにメールが送られてくる。迷惑メールに指定してあるので特に問題はないのだが、


「あの男がおまえとの繋がりを求めている以上、まったく返信しないのはよくない。無視されていると思ってアパートや店周辺の徘徊を再開させるかもしれんからな。朝と夜の2回でいいから適当にメールしてやれ」


 と兄からアドバイスがあったのでメールの件名だけ見て適当に返信している。それが面倒なんだよなあ。しかもメールの中にはちょくちょく気になる件名が混じっていることがある。


 10月28日『件名:今日は千円儲けちゃった』

 10月29日『件名:すっごい! 5千円ゲット!』

 10月30日『件名:今週はトータル3万円の利益!』


「これって、ヤバくね」


 さすがに焦ったわ。1か月で1万しか稼げないヤツがたった3日で3万も稼いでいるんだもん。このペースのままなら30万は絶対無理だけど、何が起きるかわからないのが投資の世界。

 で、兄に相談した。明日、兄は大勝負誓約書の署名捺印のためにあいつと会うことになっている。その時にあたしの要望も取り上げてもらうことにしたんだ。さて、どうなるか。



 10月31日(土) 晴


 大勝負はそのまま続行決定。なんだか不安だなあ。あいつが妙に自信たっぷりなんだよね。

 今日は久しぶりにあいつを見た。会ったじゃなくて見た、ね。それも2回。1回目はファミレス。兄に頼んで食事をしながら話してもらうことにしたんだ。兄のネクタイに盗聴器を仕込み、あたしはバックヤードの休憩室でふたりの会話を盗み聞き。


「あらあら、こんな所にいないで一緒にお喋りすればいいじゃない」


 と店長に言われたけど、それが嫌だからこんな所にいるんだよ。イヤホンからあいつの鼻歌が聞こえてくる。かなり上機嫌みたいだな。


「ふんふん。それで誓約書はここで書くの?」

「いや、それは別の場所だ。ここへ呼んだのは最終確認のためだ。実は昨日彼女から申し出があってな」

「へえ、どんな?」

「まだ3万しか稼げていないのだろう。このままでは君の負けは確実。彼女とは永久に手を切ることになる。それでは気の毒だということで、もし今のうちに勝負を降りれば、メールでのやりとりくらいは続けてもいいと彼女から申し出があったのだ」

「ええっ! お姉さんがボクのためにそんなことを! 感激っ!」


 おまえのためじゃねえよ。あたしのためだよ。万が一おまえが勝っちまったら恋人にならなきゃいけないんだぞ。おまえみたいなパンツ何色とか、ランチにゴキブリとか、ピンポンダッシュとか、30万は莫大な借金とかいうヘンタイ非常識男の恋人になるくらいなら、メールでやりとりする程度の知り合いでいたほうが気が楽なんだよ。あたしだってあんたの負けは信じている。だけど人生一寸先は闇だからな。用心するに越したことはない。


「どうだ。恋人は諦めて知り合いで我慢するのもひとつの手だぞ。負ければ知り合いですらなくなるんだからな」

「申し出はありがたいけど勝負は降りない。大丈夫。絶対30万稼いでみせるから」

「本当にいいんだな。後悔しても知らんぞ」

「後悔なんかしないもん」


 兄からメールが来た。


『やはり意思は固いようだ。勝負は続行する。以上』

「ダメか」


 あたしはため息をついて店の外に出た。窓からチラっと店内をのぞくとあいつはニコニコ顔でランチを食べている。


「くそっ、人の気も知らないで」


 駐輪場にとめてあるあいつの自転車を蹴り倒してから雑居ビル2階の喫茶店へ向かう。ここで最後の意思確認及び手続きをするのだ。これ以上ふたりの話を聞いてもしょうがないけど、ひょっとしてあいつの気が変わるかもしれないからね。

 しばらくすると兄とあいつがやって来た。あたしは店の奥の目立たない場所でイヤホンに集中する。


「これが『彼女争奪30万円大勝負』の誓約書だ。2通用意した。それぞれ各自が署名捺印して保管する。罰則規定も設けた。もし勝負に負けたにもかかわらず彼女につきまとうような行為をすれば罰金100万円を支払うこと。いいな」

「いいよ。だってボク負けないもん。じゃあサインしてハンコ押すね」


 すげえ自信だな。その図太さだけは尊敬するわ。


「OK.次にこちらは生命保険の申込書と告知書、口座振替依頼書だ。記入してくれ」

「へっ?」


 へっ? あいつと一緒にあたしまで疑問符を発してしまったじゃないの。兄は何をしようとしているんだ。


「君は民間の生命保険には未加入のようだね。加入しておいたほうがいい。保険の掛け金は所得税及び住民税控除の対象だ。節税になる」

「えっ、でも死なないとお金もらえないんでしょう」

「そうだ。しかし人間は必ず死ぬ。死なない人間などいない。つまり金は必ずもらえるということだ」

「はあ、でも」

「それにこの契約には特約も付けておいた。事故または疾病によって入院した場合、入院1日目から保険金がもらえる。君は自転車に乗っているのだろう。普通の人間より事故に遭遇する可能性が高い。加入しておきたまえ」

「あ、はい。じゃあ30万円で」

「悪いが死亡保険金は50万にしてくれ。それより少ないと営業手当が付かんのだ」


 アニキィー! こんな所で営業かよ。そう言えば兄の会社は生命保険も扱っているんだった。毎年表彰されている成績優秀営業マンはヤルことが違うね。あたしも就職したその日に無理やり加入させられたっけ。


「書けたよ。これでいい?」

「はい結構。毎月の保険料は15日に口座から引き落とされるのだが、初回保険料は現金で振り込んでおいてくれ。これで手続きは完了だ。オレの会社は審査が早いので来週中には保険証書が届くだろう。では頑張って30万円稼いでくれたまえ」

「うん、ガンバル!」


 あいつはコーヒーを飲み干すと意気揚々と帰って行った。足音が聞こえなくなったのを確認して兄のテーブルに座る。


「兄貴、本当に大丈夫なんだろうな。どうにも嫌な予感しかしないんだが」

「うむ。実はオレも少し自信がなくなってきた。99%の確率が90%くらいになっている」


 不吉な言葉だな。だがもう引き返すことはできない。あいつの運のなさを信じるしかないな。



 11月6日(金) 曇


 あああ、最悪だよ。今週は恐怖で体が震えっ放しだよ。こんなことになるなんてなあ。金だ。金が悪いんだ。もし世の中に金がなければ、どれほどの事件や揉め事や不幸がなくなることだろう。金は諸悪の根源、本当にそう思う。


「ああ、またメールが来た」


 そう、今週はずっとこのメールに苦しめられた。見なければいいのにどうしても気になって見てしまう。


 11月1日『件名:やったあ! 2万円ゲット!』

 11月2日『件名:うそでしょ! 10分で3千円!』

 11月3日『件名:楽勝楽勝! 本日の儲け4万2千円!』

 11月4日『件名:語呂合わせ? 54321円利益確定』

 11月5日『件名:すごい! 1回の取引で3万円稼いじゃった』


 こういったメールが送られるてくると、もう居ても立ってもいられなくなってしまうんだよなあ。

 もちろん投資に関するメールは1日に数本しかなくて、中には、

 11月3日『件名:ボクのパンツはウンコ色じゃないよ』

 みたいな、

「やっぱりおまえがあの時のコールセンターの迷惑客だったんだな。このヘンタイめ!」

 って大声を上げるメールもあったワケだけど、とにかく事態は大変な方向へ進んでいることだけは間違いないようだ。


 そして今、受信したばかりのメール。

『件名:これまの利益26万2945円。勝利目前。うふうふ』

「ああ、なんてこった」


 あたしは頭を抱えた。絶望しかない。困ったときの兄頼み。メール送信。しばらくして返信メール着信。


『そうか。それは由々しき事態だな。こうなったら諦めて恋人になるしかあるまい。もしやあの男、トンデモない才能を埋もれさせていたのではないだろうか。それがおまえに会うことで開花したのだ。おまえならあいつをまともな社会人に戻せるかもしれん。おまえももう30才。この先良縁に巡り合う可能性はゼロに近い。あの男が最後のチャンスかもしれないぞ。これも神の御意思と諦め、運命を素直に受け入れてはいかがかな。以上』


「アニキィー!」


 ここに来て見捨てるのかよ。そりゃあんまりだぜ。兄を信じて付いてきたのにひどすぎるじゃねえか。あいつの恋人になれって? あいつを真っ当な社会人にしろって? 冗談じゃねえよ。どうしてあたしの人生をあんなヘンタイに捧げなくちゃいけないんだよ。


「恋人になるくらいなら死んだ方がマシ。あいつを殺してあたしも死んでやる」


 と言いたいところだが、それでは自分の人生をあいつに捧げているのと同じだ。はあ~、この世には神も仏もいないのか。いや、いるからこそ大きな試練を人間に与えるのか。


「神様、あたしの願いを聞いてください。仏様、あたしをお救いください」


 その夜あたしは初めて神仏に心底からの祈りを捧げた。まさに苦しいときだけの神頼み。ううん、助けてくれるのなら悪魔でも構わない。誰でもいいから助けて!

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