第一章

『平家物語』巻十「海道下」

 ……相坂山を打越えて、勢田の唐橋からはし、駒もとゞろに踏みならし、雲雀あがれる野路のじの里、志賀のうら浪はるかけて、霞にくもる鏡山、比良ひらの高根を北にして、伊吹のだけもちかづきぬ。心をとむとしなけれ共、あれて中々やさしきは、不破の関屋の板びさし、いかに鳴海の塩干潟、涙に袖はしをれつゝ、彼在原ありわらのなにがしの、「から衣きつゝなれにし」とながめけん、三河の国八橋にもなりぬれば、蛛手くもでに物をと哀也。浜名の橋をわたりたまへば、松の梢に風さへて、入江にさわぐ浪の音、さらでもたびは物うきに、心を尽すゆふまぐれ、池田の宿にもつきたまひぬ。彼宿の長者、ゆやがむすめ、侍従がもとに其夜は宿せられけり。

(梶原正昭・山下宏明校注『平家物語 四』岩波文庫、一九九九年、五二頁 ※引用に際し一部の文字を改め、ルビは少数にとどめた。)



『旅の雲』

 山神と海神の定めにより、人狗には出会うべくして出会う者がいる。

 これは政綱が私に話してくれたことだが、政綱自身はその定めとやらを信受していないらしい。思うに、それを聞いた私が、「私との出会いは山神の計らいなのではないか」と言ったのが気に食わなかったのであろう。不機嫌そうに、「如何にも天狗の考えそうなことだ」と言っていた。私の所為で旅に問題が起きるものと、彼は本気で考えているのだろうか。それこそ浅慮というべきものだ。

 そこで私は重ねて尋ねてみた。「では誰との出会いであれば、天狗の言うところの〝定め〟が存在すると信じられるのか」と。政綱は、何か言ったようだったが、その言葉は短くて、私には聞き取れなかった。

(『旅の雲 全現代語訳』三二頁)






 第一章


 遠江国池田宿は、関東でも有数の大河たる天竜川の西岸にあり、いつも旅人で賑わう宿である。同じ遠江の橋本宿が遊女の迎える宿として著名だが、この池田宿も同じように旅愁を慰める町場として通っている。

 栗毛の馬を曳いた人狗が一人、その池田宿の入口に当たる木戸を潜った。人狗は、一見山伏のような出で立ちをしている。人狗はそれに加えて太刀をいているが、山伏にもそういう者が珍しくはない。違いといえば、人狗は腹当に篭手・脛当を着した軽武装で、袈裟や数珠の類を身に着けていない点に求められる。

 両者の最大の違いは、人狗が天狗の直弟子である点だ。天狗から山に連れ去られる事件は世に数々伝わっているが、その内で解放されることなく山に消えた者が成長し人狗となる。神隠しに遭ったまま帰らなかった者は、異界の住人になったと考えられる世のこと、人狗も〝あの世の者〟と認識されている。

 天狗は、猛火を起こす、突風を吹かせるといった力を持っているが、人狗はそれ等の一部を授けられた異能の持ち主だ。その証は、彼等の猛禽のような目に顕れている。力を身につけ山を発った人狗は、諸国を放浪して人界に交わり、里人の依頼で怪異に対峙するのを生業としている。長身で、総髪を無造作に束ねたこの紀政綱きのまさつなは、愛宕山の天狗に育てられた人狗である。

 海道の宿に暮らす人々は人狗を見慣れており、特に騒ぐわけではないが、やはりその姿には目が向くらしい。政綱は自身に向けられる幾つもの視線を感じた。こういった視線の送り主には色々な者が居る。好奇心から見つめる者、人狗を恐れる者、蔑んでいる者、或いは敬意を抱く者。

 人界に家なし土地なしの政綱は、こうした連中が頼み事をしてくれるのを期待して、この池田宿にやって来た。人狗に限らず、旅職人も山伏も、それを目当てに旅を続けている。しかし今日は期待外れだった。政綱に駆け寄り、山伏や歩き巫女では応じかねる厄介な問題について相談する者は、一人も居なかった。

 晩春の陽気が誘う心地良い眠気に惹かれた白い犬が、木戸口に近い町屋の前で昼寝をしている。その家は通りに面して戸を開き、草履やら笠やらの旅道具を売り出していた。家主は呆けた表情で頬杖をついている。何とものんびりした雰囲気だ。

 このまま宿を通り抜けて、海道を更に東へ、遠江国府のある見付みつけ宿まで進もうかとも考えたが、今日の池田宿に漂う空気には、人狗の冒険心を優しく包む穏やかさがあった。こんな風に感じるのは、犬と商家の主の間抜け面を見た所為に違いないが、気の削がれた政綱は池田宿に一泊することを決めた。

 政綱は馬の口を取り、宿を東西に貫く海道を東に向けて歩く。突き固められた路面は横幅四間程で、両側に掘られた側溝が町屋との間を区切っている。町屋は道の両側に並び立ち、東西に細長い町場を形成していた。概して宿というのはこうした作られ方をしている。その細長い町の中には、鍛冶、番匠、檜物師、塗師等々の職人達も生活しており、旅人にも便宜を図ってくれる。勿論、無料というわけではないが。

 懐具合と相談しながら、政綱は今夜の旅宿を物色している。大きな旅館であれば待遇も良いし快適に夜を過ごせるが、当然のことで料金は安くない。宿で最も高級な旅館は寺院だが、所縁のない政綱が宿を請える相手ではないし、そのつもりもなかった。そういう場所は貴顕の宿泊する場所と決まっているし、そもそも天狗の弟子を温かく迎えてくれる僧侶など、滅多にお目にかかれない。

 これは旅人の常で、政綱の懐は寂しい。寸尺の土地も持たず、何らの得分とくぶん権をも持ち合わせぬ人狗は、自力で路銀を手に入れるしかない。山伏には方々に檀家がいるが、人狗にそんな者は居ないのだ。いよいよ文無しとなれば、育った愛宕山に帰ることも考えるのだが、選択肢としてあまり魅力的とは言えなかった。それは木の葉天狗の所為だ。山に居る下っ端の天狗達は、人狗の失敗と聞いて大喜びするだろう。その連中の性質の悪さは、話を理解出来ないことではない。端から聞く気がないことである。

 穏かな陽気に反して木枯らしの吹く懐を探り、深い溜息を漏らす政綱の目に、見覚えのある男が映った。浅黒い肌、目が大きく顎がしっかりとした顔立ち。鼻下と顎に生えた髭を切り揃え、小綺麗な紺色の筒袖に袴を着ている。背丈は政綱より短いが、身幅はこの男の方が優る。男も政綱に気が付いた。

 顔に似合った大きな手を挙げて歩み寄って来る。

「おい政綱!怪鳥殺しの政綱か!いやいや、偶然だなぁ!」

 男は武冬と言う名だ。京都の土倉(金融業者)に勤めており、政綱とは数年来の友人である。だが、土倉と言うのは表向きの事で、武冬には裏の顔がある。政綱はそれには干渉せず、単なる友人として付き合ってきた。

 彼との出会いは京都ではなく、今回のような東海道の旅路でのことだった。行程に狂いが生じて闇路を歩む武冬とその仲間を、飢えて見境を失くした怪鳥の群れが襲っていたのだが、偶々近くで野宿していた政綱が手を貸して追い払ったのだ。それ以来、武冬の仲間内では〝怪鳥殺しの政綱〟で通っている。しかし政綱は、あまりこの渾名を気に入ってはいなかった。「どうにも、強そうには聞こえん」というのが理由だ。

「あぁ、確かに京には寄ったが、誰も尋ねずに発った」

「勿体ない事をする奴だ。どうせ手元不如意だろう?話してくれさえすれば、お前なら利子を付けずに用立てもするのに」

 政綱は京都で猫又ねこまたを退治した報酬として、五十ぴきの銭を手に入れていたが、それもしばらく前のことだ。手元には殆ど残ってはいなかった。

「気持ちだけは受け取っておこう」

「借銭など珍しくもないご時勢だぞ。御家人にも客は多い。そんなに借しを作るのが嫌か?」

「人狗は大方そんなものだ」

「まぁ良いわ。来い政綱」

 男と政綱は並んで歩き出した。東西を貫く大通りに面した町屋の並びは、所々で南北に切れ込んだ小路が作られている。小路の両側も溝が掘られていることは大通りと同じだ。二人は町の北側、つまり左手側の小路に入った。小路を歩くと、大通りに面した町屋の裏側が見える。幾つも井戸が掘られており、洗い物をする人の姿があった。小路の先に広がる町場には、大きな家がちらほらと交じっている。

「お前、今着いた所だろう?わしらも昨日着いたところでな、もう二、三日は逗留するつもりだ」

「一人ではないのか?」

「うむ、仲間が他に三人、康光と久友、それから一人は新参の次郎だ。まだまだ子どもだがな。それと、御料人様よ」

「ほう。麻乃まのが一緒なのか」

 麻乃というのは、武冬の働く土倉の女主の名だ。厳密に言うと、武冬は彼自身が「御料人様」と呼ぶ麻乃に、仕えているわけではなかった。「御料人様」というと貴人の子女を想像するが、麻乃は公家の生まれでも、将軍家の生まれでもない。それでも武冬が「御料人様」と呼ぶのは、麻乃がいつまでも変わらず、若く美しいからだという。

「そうだ。今でこそ表向きは土倉の女主人だが、あの方はやはり巫女だ。旅こそ人生だと思っておられるんだろうな」

「ふうむ……」

 武冬の言う通り、麻乃は本来が巫女である。巫女といっても神社に従属した巫女ではなく、所謂歩き巫女、より市井に馴染んだ漂泊の巫女である。誰が呼び始めたものかは知らないが、麻乃には〝恒月こうげつの君〟という、どことなく雅やかな渾名がついている。それに似た渾名の巫女を政綱は知っている。麻乃とその巫女とは姉妹などではなかったが、二人とも美しく、優れた巫女だ。

「折角わしに会ったのだから、御料人様にも会って行ったらどうだ?急ぐ旅でもあるまい?」

 確かにその通りだった。人狗政綱の旅には目的があったが、行く当てのない旅でもあった。もしかすると麻乃に会うことで、目的地が定まるかもしれない。望みは薄いが、政綱は武冬の招きに応じることにした。

「そうしよう。暫く顔を見ていないからな。息災か?」

「御料人様か?あぁ、それはもう。加うるに相変わらず娘のようにお若くて、お美しい」

「そうか、相変わらずか」

「不思議なお方だ。ずっとあのままでいらっしゃるような気さえする」

 実際のところ、麻乃の本当の年齢は誰も知らなかった。ただ、本人の話を信じるならば、政綱よりは若いという程度のことは明かされている。因みにそれは武冬の知らないことで、政綱だけがこっそり耳打ちされたことであった。

「そうなるかもしれんぞ。老いてゆくのは俺達ばかりかもな?」

 政綱は愛馬の首を撫でながら言った。武冬は鼻で笑った。

「お前も長生きだろう。人狗は仙界育ち。その所為で五百年は生きると聞いたことがあるが?」

「五百年は言い過ぎだな。それから仙界ではなくて――」

「〝天狗の庭〟だったか?前に教えてくれたな。まぁ、わしらにしてみればどちらも同じようなものだ」

「いかにも。どちらも〝あの世〟で、俺は〝あの世の者〟だ」

「あぁ、そしてわしらの友人だよ、お前は」

 武冬達は政綱を友人だと言ってくれる。〝魔王〟だなどと言われる天狗の弟子であることから、人狗を冷遇する者も珍しくない世の中だが、彼等は一貫して好意的に接してくれていた。武冬達の不憫な出来事をきっかけとした付き合いではあったが、政綱にとっては良い出会い方をしたと言える。これで裏の顔がなければ、きっと彼等は天寿を全うするだろうと思えたはずだ。その別の一面がある所為で、政綱は時々彼等の行く末を案じることがある。一方で、そのお蔭で助けられることもないわけではなかった。それ故、政綱はその方面には干渉しないことにしている。

「着いたぞ。あれがわしらの泊まっておる旅館だ」

 垣根を廻らせて周囲と隔てられたその大きな建物は、小路に入った時から正面に見えていた。そこが武冬達の宿泊場所らしい。母屋はそれほど大きくもないが、敷地内に幾つか別棟が建っているのが見える。中々繁盛しているに相違ない。思うに、この池田宿に住む遊女達のお蔭を蒙っているのではなかろうか。何も春をひさぐのだけが遊女ではない。政綱もそれに慰められたことはあったが、それ以外の諸芸にも通暁しているのが遊女だ。池田宿にはそうした遊女達の長者が暮しているのであった。

「立派な所ではないか?俺には少し…――」

「ぐちぐち言うな。せっかくの恐ろしい顔が台無しだぞ?」

「褒めるつもりで言ったのなら、全く嬉しくはないぞ」

「強そうだと言ったのだよ。なぁに、銭のことなら心配いらん。客人に恥をかかせるようなわしらではない。これまでもそうしてきただろう?」

「そうだったな」

「これは貸しでも何でもない。僅かばかりのもてなしよ。さ、参ろう」

 政綱から栗毛馬のくつわをひったくった武冬は、さっさと旅館に向かい、厩番の男にそれを預けてしまった。ついでに少し志を握らせる辺り、抜け目がないと言える。政綱はその様子を感心して見ていた。

「政綱、何をしておるんだ。早く来い」

「あぁ…」

 こうして、焦れた武冬に手招かれるまま、政綱は望外に立派な旅寝の床を確保したのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

(旧)人狗草紙 ―恒月子守唄― 尾東拓山 @doyo_zenmon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ