第三話 淡く輝く


 

 風見が日直日誌を書き終わるのを待っていたというのに、俺は一人で帰ることになった。下足室でコマザワ先輩に出会したのが理由だ。先輩は気遣わしげに俺を見てくれたが、勝手に寄り道する予定があることにされ、風見に追い払われてしまった。

 お前は友情をとらない男だよな。知ってた。明日は詫びに唐揚げを奢らせよう。

「……あ、そういえば」

 ふと足を止めた。あれからしばらく経つが、確かタンポポの彼女がいたのはこの辺りではなかったか。カバンを抱えながらしゃがんで低木の隙間を覗いてみる。位置が違ったのか、そこには何も咲いていなかった。

(何やってんだ、俺)

 馬鹿馬鹿しい。花があったとしてどうするんだ。思わず自嘲してからサッサと膝を伸ばす。すると、いつの間にか傍に立っていたらしい誰かと目が合った。あ、と思った。

「タンポポの人」

 そう言ったのは同時だ。お互いにぽかんとしてしまう。たぶん、座り込む俺を不思議に思って見ていたのだろう。我に返ったのは俺の方が早かった。

「それ俺のこと?」

 あの日タンポポの話をされたのは俺の方で、まさか俺をそんな風に呼ぶとは思いもしなかった。やっぱりちょっと面白い子だ。

 彼女も思わず発言したのか、ハッと口元を手で覆った。そのまま一気に焦りだす。

「あの、えっと、わた、わたわた私、その。……えっと」

 何か言おうとして唇を開いては、閉じる。その繰り返し。音になりきらない声が吐息と一緒に消えていく。黙ってその様子を見つめていたら、彼女の大きな瞳がじんわりと潤っていった。それが涙だと認識するのに数秒かかった気がする。

 俺は咄嗟とっさに「大丈夫だから」と口にした。それからもう一度、今度はちゃんと考えながら、噛み締めるように伝えた。

「大丈夫。ゆっくりでいいから、喋って」

「は、い」

 必死で、一生懸命言葉にしようとしているんだろう。俺を見上げる目がそれを訴えてくる。まとまらなくて、混乱して泣きそうになるくらいなら、待つから。

(ちゃんと待ってる。だから、そんな不安でいっぱいの顔するなよ。……笑ってくれよ)

 笑顔が見たい。そうか、記憶に残ったのは言葉じゃないんだ。季節外れのくせして堂々と咲いた、あの花みたいな笑顔の方だった。

 すぅ、はぁ。すぅ、はぁ。なだらかな胸を上下させて彼女が息を整える。俺は静かに見守った。

「あの、私、いつも突飛とっぴって言われてて」

「うん」

 知ってる。何なら今もそうだ。

「頭の中では、繋がってるんですけど」

「うん」

 そうなんだろうなとは思ってた。

「だからこの間も、思わず口に出してから、えっと、知らない人に意味わからないこと言っちゃったって、慌てて」

「あは、うん」

 ちょっと笑ってしまった。真剣な本人には悪いけど、言葉よりも顔を見ている方が感情がわかる。それが可笑しくて、何となく楽しかった。

「……嬉しかったんです。突然の、意味のない報告だったのに。優しく答えてくれて嬉しかったんですよ、私」

 段々と落ち着いてきたのか、彼女の言葉もスムーズになりつつあった。でも優しいだなんて勘違いだ。俺はただ同意しただけ。嬉しそうな君を見て、頬が緩んだだけなんだから。

(……まあ喜んでくれたなら、それでいいか)

 先輩としては少しくらい格好つけておきたいのも確かだ。せっかく良い印象を持ってもらっているんだ、わざわざ訂正したくはなかった。そんな内心には気付かない様子で彼女が続ける。

「またお話ししたいなと、思ってたんですけど。その、お見かけしてもなんて声をかけていいかわからなくて、それにこれ以上、変な子だと思われるのも、困ってしまいますし」

「変な子なんて思ってないよ」

 そんな、そんな……と呟きながら彼女が指をもじもじさせる。照れるとそういうリアクションをするのか。そして彼女の方も俺を度々認識していたようで、俺まで照れ臭い。

「……あっ。私、その……坂本さかもとです。一年生です。赤色だったから、上級生さんであってますか?」

 あの日に付けていた赤い腕章のことだろう。なんだか今さらのような、今だからのような自己紹介。ようやく知れた名前を心の中で噛み締めた。サカモトさん。

 こっそり胸元に視線を落とすと、名札に“坂本結紀”とあった。ユキか、ユウキか、それ以外か。名前の読み方まではわからない。

「あってるよ。二年の三森です、三森貴司みもりたかし

 言いながら自分の名札を彼女に向けて軽く引っ張る。それをまじまじ見ると、坂本さんは俺に向かって優しく目を細めた。その表情がすごく、可愛かった。

「ミモリ、三森せんぱい。……えへへ」

 不意に風見との会話を思い出す。違う、これは恋なんて大袈裟なものじゃない。だというのに、名前を呼ばれただけでジンと温かさが感じられた。

 伝えてみようか。俺も、君と話してみたかったって。君と同じ気持ちだって。君はあの時みたいに少し驚いてから、笑ってくれるだろうか。

(さすがに君のことばかり考えていた……とは、言えないな)

 恥ずかしい本音は隠すと決めて、俺は彼女に切り出す言葉を探すことにした。その間も手離しがたい温もりが胸に押し寄せる。

 彼女の笑顔を想うだけで、君を彩る春の黄色が、俺の中に淡く輝くみたいだ。そんな乙女じみたことを考えながら、俺は口を開いた。



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色付く胸に、綻ぶは君 藤咲 沙久 @saku_fujisaki

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