第13話 紺色の空の話 中編

 一方、サナはトボトボと家にかえってきた。

 母親のジムニーがある。母親とセリカが帰ってきたのだ。

「ただいま」

 サナは玄関のドアを開け、中に入った。

「あ、お帰り。サナ。お店いってたの?」

 台所には、母とそれからぬいぐるみのようにデフォルメされた二足歩行のキツネが数匹いた。このぬいぐるみのようなキツネたちは、母が術で作り出しているものだ。

「ただいま」

 サナは小さな声でいった。さっきからずっと、コンのことを考えている。コンの真意を知ろうと考えている。なのに、答えは出ない。

「どしたの、サナ。元気ないねけど……」

「ううん。大丈夫」

「部屋でセリカちゃんが待ってるわ。いってあげて」

 テナの言葉をさえぎって、母はいった。

 サナは小さくうなずくと、台所を出ていった。

「ごはん、すぐもうすぐできるから」

 母の優しい声が聞こえた。

 二階にある自室に入ると、セリカがいた。暗い表情をしている。

「ごめん、勝手に入っちゃって、おじゃましてます。おばさんがこの部屋で待ってるようにいったから……」

 サナはベットに腰掛ける。

「いいよ。ゆっくりしてってくれ。それより大変だったな」

 セリカは首を横に振る。

「ヒトミさん、もしかしたら死んじゃうかもしれないって。もちろん、そうなったらお腹の中の赤ちゃんも死んじゃうって」

 セリカはうつむき、独り言のように語る。

「お母さんが死んじゃったときはね、死んじゃうかもなんて思ってなかったんだ。急に体調を崩して、入院することは何度もあった。でも、いっつもお母さんは帰ってきた。何日か、何週間か入院して『ただいま』って帰ってきたの」

「うん」

 コンは小さく相づちをうった。

「だからあの日も、どうせたいしたことないだろう、って思ってた。家で漫画を読みながら、入院することになったら、私がご飯をつくったり、洗濯ものをかたずけたり、家を掃除したりしなきゃいけないのが大変だなって考えてた。ちょっと面倒くさいなって思ってた」

 セリカは早口で一気にいったあと、ゆっくりとその一言を口にした。

「でも、帰ってこなかった」

「セリカ……」

「サナちゃん、ヒトって、突然、簡単に死ぬんだよ。死んだらもう、戻ってこられないんだよ。なのにね、さっき病院で、ヒトミさんも、お腹の赤ちゃんも、このまま死んじゃえば、またお父さんと二人で暮せるのにって、考えちゃった」

 部屋の中に、沈黙が流れる。

「ご飯できたよー」

 一階から、母の声がした。


 その頃、コンも夕食を完成させた。

 蕎麦といなり寿司。コンが生前、最後につくった料理と同じ。

「お待たせ」

 コンはヒトミの前のテーブルに、料理を並べる。

「ねえ、コン。私のこと、怖い?」

 おもむろに、ヒトミがいった。

 コンが黙っていると、ヒトミはさらに続ける。

「さっきから、私と話すとき、声も手も震えてる」

 コンは意を決したように、いった。

「怖い。怖いで。だって、いっぱい怒られて、いっぱい叩かれて、蹴られて……」

 ヒトミは立ち上がると、コンを抱きしめた。

「ずっと頑張ってくれてたのよね。あなたは悪くないの。なにも悪くないいのよ。私が悪かった。私が怒ったことは全部、コン、あなたは悪くない」

「ホンマに、そう思ってんの?」

「うん。本当」

 理屈では否定できても、感情の中に染み込んでいた、「私が悪いことをしたから、ママは怒るんだ」という気持ち。それが、ゆっくりととけていく。

 ヒトミは抱きしめる腕に力を入れた。

「怖かったの。あなたの命に責任を持つのが」

「……怖かった?」

「コン、あなたを産んだのは、十七歳だった」

 コンがヒトミの過去を聞くのは、これがはじめてだった。

「私は、両親と仲が悪かった。ある日大喧嘩して、家出して、そこで出会った男のヒトを好きになって、同棲して、妊娠して、病院で出産した。入院中、これから幸せになれるって思った。あなたを抱きながら、私のお母さんとは違う、優しいお母さんになろうって思った」

 声を聞きながら、コンはヒトミの体に顔をうずめた。

「でも、あのヒトは私が入院している間に失踪した。お金も、仕事も、頼れるヒトも亡くなった」

 語りながら、ヒトミはコンの肩に顔をうずめた。

「本当だったら、まだ高校生なのに、学校へいって、友達と遊んで、家に帰ると両親が面倒を見てもらえる年のはずなのに……なんでこんなものを背負わなきゃいけないんだろうって、思うようになった」

「お母さん、コンさんはお母さんを選べないんですよ。なのに、それなのに、こんなものなんて……」

 声をあげたのは、イクだった。

「そうね。理不尽なことよね。勝手に産んで、それを降りかかってきた不幸みたいにいうんだもの。でも、当時の私は確かにそう思っていた」

「お母さん……謝って。コンさんに謝って!」

 イクが、叫んだ。

「ごめんね。コン。私から渡さなければならない幸せを、なに一つ渡せなくて。あなたの命に、責任を持てなくてごめんなさい」

 コンはヒトミの体に顔をうずめながら、首を横に振った。

「いいで。もう、いいねんで。だから、だからさ、ごはんにしよ。冷めちゃうし」

 コンの声は、優しかった。

「うん。そうね」

 コンとヒトミ、それからイクは席についた。

「いただきます」

 ヒトミは、箸を手に取ると、丁寧にいなり寿司を口に運んだ。

「これ、稲荷大社で配ったやつ?」

 コンは、驚きを表情に表した。

「ママ、知ってるの」

「うん。新聞記事であなたが死んだって知ってから、あなたのこと、調べられるだけ調べたの」

 そして、ヒトミはこういった。

「おいしいよ。コン」

 そのときのヒトミの表情は軟らかい笑顔だった。

「うん」

 ヒトミは笑顔でいった。


 一方、サナとセリカは、部屋を出て一階にある広間に来た。

 テーブルの上には、夕食――シチューハンバーグが並べられていた。もちろん、セリカの分も用意されている。

「これ、こんな短時間でつくったんですか?」

 セリカは驚きの表情を浮かべている。確かに、常識的に考えれば病院から帰ってきてからの短時間でつくれる献立ではない。

「うん。テナも手伝ってくれたしね。セリカちゃん、シチューハンバーグが好物だって聞いたからさ」

 母は得意げな表情を浮かべている。口にはしていないが、神獣としての様々な術を駆使して、短時間で料理を仕上げたのだ。

 サナとその家族、そしてセリカは席につく。

 サナの前には、シチューハンバーグがなかった。少量の白米と、同じく少量のサラダだけが配膳されている。

「サナちゃん、それで足りるの?」

 セリカの問いに、サナはうなずく。

「うん。私、お肉とか食べられないから」

 サナは小さな声でいった。

 セリカは首をかしげる。昔はそんなことなかったのに、と。

「さ、食べましょ」

 サナの母が、パンと手を叩いた。

「いただきます」

 セリカは手を合わせると、スプーンを手に取った。

 一口目。

 セリカは「おいしい」といった。

 二口目。

 無言で口を動かす。

 三口目。

 無言。

 四口目。

 セリカの目から、涙が落ちた。

「セリカ、どうしたんだ」

 サナが声をかける。

「ヒトミさん、シチューハンバーグつくってくれてた。料理が下手で、あんまり美味しくないんだけど、私が好きだから、つくってくれてた」

 セリカは残っていたハンバーグを一気に口に入れる。

「どうしよう、ヒトミさん、死んじゃったらどうしよう。どうしよう」

 セリカは口をいっぱいにしたまま、ワンワン泣いた。皿の中に、大粒の涙が落ちた。


 夕食後、薄く積もった雪に足跡を残しながら、サナはまた『和食処 若櫻』にやってきた。

 傘を持たずに来たので、髪の毛の上に雪が降る。

 コンを信じるといったもののやっぱりなにかせざるにはいられない。

 入り口のドアノブに手をかけた。金属製のドアノブは冷え切って、冷たかった。

 そのとき、店内から声が聞こえた。コンの声だった。

『それでな、タマちゃん――タマキちゃんっていう友達がいてんけどな……』

 それは、サナが今までに聞いたことがないくらい、楽しそうなコンの声だった。

 サナは、ドアノブを握ったまま動けなくなった。このままこの扉を開けることは、コンの幸せを壊してしまう気がした。

 でも、ヒトミを元の体に戻さなければ。それは、ヒトを守る神獣としての使命であり、セリカの望んだことであり、イクのためであり、セリカが望んだことである。

 サナは、腕に力を入れた。

 でも、扉を開けられなかった。あと一歩が、思いきれなかった。

 コンの顔、イクの顔、セリカの顔。みんなの顔や声が、頭の中でグルグル回る。

 何度も扉を開けようとして、だけどためらってしまって、開けることができない。

 どれほど長い間、ドアノブを握ったまま立ちすくんでいただろうか。

「サナ」

 後ろから、声がした。

 母が、傘をさしてそこに立っていた。

「寒くない? 風邪ひくよ」

 母はそっと、サナの頭に積もった雪を払い落とし傘をかけた。

「お母さん、私、どうしたらいいの? 生きられる命を守りたい、セリカの願いを叶えてあげたい、イクには生きてほしい、コンを悲しませたくない。また選ばなきゃいけないの? 全部は無理なの?」

 サナは吐き出すようにいった。

「コンちゃんはなんていったの?」

「私を信じてって」

「じゃあ、信じてあげよ。サナの大切な、お友達でしょ? 今、サナがやるべきことが

あるはずよ」

「やるべきこと?」

「もう一人の大切なお友達、そばにいてあげて」

 サナは、小さくうなずいた。


 小学校に上る前、サナとセリカは毎日のように家を行き来していた。夜、泊まりにいくことも頻繁にあった。でも、サナが京都から帰ってきてからははじめてだ。

「久しぶりだね」

 セリカはいった。

 一つのベットで、二人背中合わせで寝る。ちっちゃい頃から使っているベット。いつの間にか、二人で寝るには窮屈に感じるようになっていた。

「ねえ、サナちゃん。サナちゃんは、おキツネさんなんだね」

 真っ暗な部屋、セリカの声がした。

 サナはドキッと心臓が跳ねた。思わず胸に手をあてる。

「ずっと前、二人で昼寝してたときに、私だけ先に目を覚まして、見たの。サナちゃんの頭から、三角の耳が出てるの」

 サナは思わず、頭に手をあてた。今は、耳は出ていない。でも、それが答え合わせだった。

「私のこと、恐くないのか? 人間じゃないだぞ」

「うん。びっくりしたけど、恐くはないよ。あの耳、可愛かった」

 セリカは体のむきを変えて、サナのほうをむく。

「サナちゃんが、京都にいってたのって、稲荷大社だよね」

「うん。私は、私たちの家系は、神様に仕える神獣だから」

「なんかすごいな。サナちゃん」

 サナは寝そべったまま、首を横に振った。

「ううん。結局、帰ってきちゃった。私は、人間の中では暮らせなかった」

 サナの手を、セリカは手探りで握った。

「私は、サナちゃんが帰ってきてくれて、嬉しいな。今、そばにいてくれて嬉しいな」

 屋根に積もった雪が、滑り落ちる音が聞こえた。

「なあ、セリカ。幽霊が見えるって本当か?」

「うん。お父さんはね、よくお母さんがそばで見守ってくれてるっていうの。何回も何回もウソいわないでって、叫びそうになった。ううん。今日、叫んじゃった」

「ごめん、私のせいなんだ」

「サナちゃん?」

「神獣は神様に仕えてるけど、自身も神様に近い存在なんだ。素質のあるヒトが、小さいうちから私たちと一緒にいると、刺激を受けて、特殊な能力が目覚めることがあるんだ。幽霊が見えたり、未来予知ができたり」

 サナは最後に「邪魔なら、封印することもできるぞ」と付け足した。

「ううん。このままにして。サナちゃんがいてくれた、証拠だから」

 サナはちょっと笑った。

「もうすぐ、私がどこかへいっちゃうみたいないい方だな」

 セリカは、サナの手を強く握りなおした。

「私が家出して、サナちゃんの家に来たのはね、ここしか来られる場所がなかったからなんだよ。サナちゃんしか、頼れるヒトがいなかったからなんだよ。だから、お願い。今はここにいて」

 サナはセリカの手を振りほどくと、体のむきを変え、セリカの方をむいた。

「いいよ。セリカ」

 サナはセリカの手を握った。今度はサナの方から握った。

「いい夢が見られる術」

「そんなのあるの?」

「ないよ。いってみただけ。神獣の夢は、なにかの暗示や未来予知のことが多いんだ。だから、幸せな夢が見られますように」

 二人は、ゆっくりと眠りに落ちていった。

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