第12話 紺色の空の話 前編
「あなたがここにいるということは、私は死んだのね」
ヒトミは落ち着いた口調でいった。
「うん、そやで。ここは、死んだヒトが来るところやから」
コンは落ち着いた口調を装った。ヒトミがあっさりと自分の死を受け入れたことが、不気味だった。
「これは罰ね」
少しの沈黙の後、ヒトミはそう切り出す。
「罰?」
イクは、首をかしげる。
「それは、私にしたことに対しての?」
コンが尋ねると、ヒトミはゆっくりとうなずいた。
「あなたを育てられなかった。あなたにあんなひどいことをしてしまった。そして、そんな過去があるのに、ヒトの母親になろうとした。やり直すことができると思ってしまったこと。その罰が、これなのね」
コンがなにかをいおうと、口を開きかけたそのときだ、店の扉が開いた。
「コン!」
やって来たのは、サナだった。
「サナちゃん……どうしたの?」
コンはつぶやく。
「セリカ……友達の知り合いが倒れたんだ。魂が、ここに来てるんじゃないかって、思って」
サナは走って来たのか、息をきらせている。
「サナちゃん、セリカちゃんのお友達やったんや」
コンがいうと、サナは驚きの表情を浮かべながら、首を縦に振って肯定する。
「コン……セリカを知ってるの?」
「うん。セリカちゃん、幽霊が見えるらしくて、前に助けてもらってん」
コンは一度深呼吸した。
「セリカちゃんのママになろうとしているヒトやったら、ここにおるで」
そして、ヒトミに視線をむける。
「そこにいる、私のママが」
サナは少し考える。
「つまり、イクはセリカのお母さんの違う妹ってことか?」
「うん。そうやで」
「コンの妹だけど、セリカの妹……」
「……うん、そやで」
サナは、どうしていいかわからなかった。それは、表情に現れていた。
「コンのお母さんも、イクも、まだ生きてる。とっても弱ってるけど、まだ間に合う。魂を、体に帰してあげよ」
「うん、そやな」
「コンのお母さんと、イクの体、ありかが分かってる。どこの病院か知ってる。体のところまで連れていこう」
「……うん」
サナの頭には、コンがヒトミを店に閉じ込めて、体に返さない可能性がよぎった。
かつて、自分を虐待していたこと。それが自らの死の遠因になったこと。復讐を、ここで果たすつもりではないか、という不安があった。
あるいはもっと単純に、子として、親と離れたくないという心理が働くのではないかという不安もあった。
「ねえ、サナちゃん。ここは、私にまかせて、サナちゃんはセリカちゃんのとこにいったげて」
コンは、サナと目を合わせないでいった。
「必ず、二人を体に返してあげるんだよ」
サナの言葉に、コンはうなずき「私を信じて」と、いった。
「わかった。コンのこと、信じるから」
サナは店を出ていった。コンを信じよう。心の中で何度もそう唱えたのに、胸の中のモヤモヤは消えなかった。
サナが出ていき、扉が閉まる。
「ねえ、ママ。さっきこれは罰だって、いったよね。じゃあ、償って」
コンは、低いトーンでいった。
コンは店の出入り口の扉まで移動すると、鍵穴に鍵を差し込み、パチリとひねる。
「コンさん、待ってください。そしたら、私は、私はどうなるんですか?」
ずっと黙っていたイクが、大きな声をあげた。
「ごめんね、イクちゃん」
コンは、そう返した。鍵穴から抜き取った鍵を、ポケットに入れる。
イクは助けを求めるようにヒトミを見た。しかし、ヒトミは黙ったままだ。
「私の想いを、果たさせて」
コンは、そういって胸に手をあてた。
「コンさんの想いって、なんなんですか?」
イクが尋ねると、コンはそれに答えずキッチンへむかった。
「晩ご飯にしよか」
九年前。
京都にある小さなアパートで、コンは母親であるヒトミと二人で暮らしていた。
室内はゴミと、洗濯物と、使用済みの食器がごちゃ混ぜになって散乱し、なにやらよくわからない不快なにおいが充満していた。
コンはそんな中で、わずかに残っている床の見える場所で、コンは日中を過ごした。
ヒトミは夜の仕事をしており、昼間はかび臭い布団にくるまって眠っていることがほとんどだった。
コンがヒトミに話しかけると、機嫌のいいときであれば、ごく普通の優しい母親として応じ、人形遊びをしたり、しりとりをして遊んだ。
一方で、機嫌の悪いときだとコンを怒鳴りつけ、殴り、蹴り飛ばした。
この二面性を、コンは自分に原因があると考えた。
自分の振る舞いがヒトミの希望に沿うものなら笑顔がかえってくる。少しでも振る舞いに粗相があると、鬼のような形相で罵声を浴びせてくる。そういう仕組みなんだと思い込んでいた。
コンは必死に考えた。自らの落ち度はなんなのか。なにをしなければいけなくて、なにをしてはいけないのか。
しかし、答えは出ない。
当たり前である。笑顔も怒号も、ヒトミの機嫌次第なのだから。
「悪い子」「産まなきゃよかった」
ヒトミの怒鳴り声は、コンの中で響き続けた。
いつしかコンは、自分からヒトミに話しかけないようになった。会話は常に、ヒトミに話しかけてもらうのを待つ。それが自分の身を守る、精一杯の努力だった。
できるだけヒトミを刺激しないよう、物音をたてないにようにお気に入りの着せ替え人形で遊んだ。
ヒトミは料理が苦手だと、口癖のようにいった。そして、食事はコンビニ弁当やカップラーメンが日常だった。
冷蔵庫の中や戸棚には大量の食料品が買いだめしてあり、コンもそのことを知っていたので、ヒトミが眠っているときは自分で食事を用意した。ヒトミは火を使うことを禁じていたが、コンはガスコンロの使い方を知っていたし、ヒトミが眠っている間にお湯を沸かしてカップラーメンをつくることもあった。
これを調理と呼ぶのなら、コンにとってはじめての調理はカップラーメンであった。
ある日、アパートに来客があった。
スーツ着た男女二人組だった。
二人組は家に上がり込み、かなりの長時間ヒトミとなにかを話しあっていた。コンにはその内容が理解できなかったが、二人組が時おりコンに視線をむけていたこと、話し合いの途中でヒトミが泣き出したことは覚えている。
この二人が児童相談所の職員であったと気付いたのは、ずっと後のことである。
この日から、コンの生活に大きな変化があった。
ヒトミは部屋を片付け、掃除し、そして、コンにも優しく接するようになった。
変化としてはよい変化なのだが、怒鳴らず、殴らず、蹴らず、いつも笑顔を浮かべているヒトミが、コンにはむしろ不気味だった。
変化があって数日後のことだ。
天気のいい、昼前だった。
ヒトミはいつものように、夜の仕事から帰ってくると布団で眠っていた。
空腹を感じたコンは、チラリとヒトミが眠る布団を見た。
ヒトミに話しかけてはいけない。コンが恐怖の記憶から得たものは、数日程度で消えるものではない。むしろ、ここ数日の変化で、コンは母への警戒心を強めていた。
コンは立ち上がると台所へむかった。
そして、戸棚の中からカップラーメンを取り出した。古いものらしい。パッケージがかすれている。
続いて、ヤカンに水を入れ、ガスコンロに置き、火を着けた。流し台も、ガスコンロも身長が足りず、椅子を踏み台代わりに使った。椅子は足が痛んでいるらしく、少女の動きにあわせてゆらゆらと揺れる。
今まで何度も、秘密でやって来たまもなくヤカンは湯気を吐きはじめる。
「コン、なにしてんの!」
突然、ヒトミの悲鳴のような叫び声がした。
「きゃっ!」
その声に驚き、コンの体がビクンと跳ね、その拍子に椅子が大きく揺れる。
なんとかバランスを保とうとするが、それが余計に椅子を揺らす結果となる。
椅子は倒れ、コン湯気を吐き出すヤカンに、頭から突っ込んだ。
おおよそ人間のものとは思えない、コンの叫び声がした。
「あの、コンさん?」
イクの声で、コンは我に返った。
無意識のうちに、頬の火傷の跡に手をあてていた。
目の前では、ガスコンロにかけた鍋がグツグツと湯気を吐き出している。湯の中でかつお節が泳いでいる。
夕食をつくっている途中で、昔のことを思い出していた。
コンは店内を見渡す。
ヒトミは、隅っこのテーブル席に座っている。静かだ。一言も発していない。
「ごめんな、イクちゃん。私、ママだけじゃなくて、イクちゃんも死ぬ危険に晒してる」
「謝るなら、こんなことしないで、お母さんを体に戻してあげてください」
「駄目。悪いようにはせえへんから」
「サナさんは、コンさんのこと、信じてるっていってました」
「うん。うれしいな」
「私も、信じていいですか?」
コンはおたまで鍋の中の出汁をすくうと、口に含んで味をみる。「うん」と、コンは笑顔で、うなずいた。
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