第11話 親の話 子の話 後編

 ヒトミが救急搬送された病院から、ナオヒロは電話をかけ、セリカはサナの母の運転するジムニーでやってきた。

 廊下のベンチに、セリカとサナの母が並んで座る。

 診察室から、ナオヒロが出てきた。

「お父さん」

 セリカが、立ち上がった。

「お父さん、あのね……」

 ナオヒロはセリカの頭に手を置き、その言葉を遮った。

「ヒトミさんね、死んじゃうかもしれないって、お腹の赤ちゃんも一緒に」

 ナオヒロは努めて暗くなりすぎないように振舞っている。そのことが伝わってくる声だった。

「ねぇ……お父さん、結婚するの?」

 セリカはうつむいていて、顔は見えない。

「その話は、また後でゆっくりしよう」

「さっき、ヒトミさんのお腹の中の赤ちゃんって、いった。赤ちゃんのお父さんは、お父さんなの?」

 セリカは怒りを含んだ声で「こたえて」とつけ足す。

 ナオヒロは短く息を吐いた。

「うん、そうだよ」

「……赤ちゃんはね、好きなヒトとできるって、昔お母さんがいってた。そうなの?」

「うん」

「じゃあ、お父さんはヒトミさんが好きなの?」

「……うん」

「お母さんより? お母さんのことはもう、いいの?」

 ナオヒロは、その顔は、驚きと、悲しみと、戸惑いの混ざったものだった。

「セリカ……そうじゃないんだ。お母さんは今も見守ってくれてる。僕たちの幸せを願ってくれてる。僕は、ヒトミさんが新しいお母さんになってくれること、お母さんも応援してくれてるって、信じてる」

「……ウソばっかり」

 短い言葉と共に、セリカは顔を上げた。その目には、いっぱい、涙がたまっていた。

「私、知ってるんだよ、好きなだけじゃ赤ちゃんはできないって。好きじゃなくても……その、エッチなことしたら、赤ちゃんはできるっ! お母さんを使って、勝手なこといわないで」

 半ば怒鳴るような涙声の後、気まずそうに視線をそらした。

「ごめんなさい……でも、でも」

 涙を手でぬぐいながら、セリカは何度も何度も「でも」といった。

「セリカ、ちゃんと、全部説明するから、ゆっくり話す時間、必ずつくるから、だからちょっとだけ待ってくれないか」

 ナオヒロは、憂いながら優しさを含んだ声でいった。

「あの、とても厚かましいお願いだとは思うのですが、しばらくの間、セリカのことを預かっていてくれませんか?」

 サナの母にむかって、ナオヒロがいった。母は笑顔でうなずく。


 病院を出ると、すっかり日が暮れていた。

 サナの家へむかうジムニー。ハンドルを握っているのはもちろんサナの母で、助手席にはセリカが座っている。

「ごめんなさい」

 セリカは力なくいった。その目は、泣きはらして真っ赤になっていた。

「セリカちゃん、謝らなくていいよ。このぐらいのことで」

 母は、笑顔を崩さない。

「でも、子供っていうのは、知らないうちにいろんなことを覚えるもんなんだね」

 セリカには、その言葉の意味がわからなかった。

「サナはわかってんのかな? 赤ちゃんがどうやってできるのか。じきにサナも生理がくるだろうから、一度、ゆっくり話したほうがいいのかな?」

 セリカは自分の腹部に手をあてた。

「大丈夫? 生理、辛くない?」

 セリカは、驚いて、母に顔をむける。

「臭いますか? サナちゃんも、血の臭いがするって、いってたし」

「大丈夫。この程度なら、人間にはわからないはずだから」

 セリカは、ゆっくりと、慎重に尋ねる。

「おキツネさんだから、わかるってことですか? 人間より鼻がいいから」

 その途端、母は口元に笑みを浮かべた。

「やっぱり、知ってたんだ」

「ごめんなさい。誰にも、いってないです」

 セリカはうつむく。

「別にいいのよ。私たちがキツネなのは変えようのない真実だし、私はキツネですって聞いて、それを信じるかどうかは聞いたそのヒト次第だから」

 母は「だけどね」と続ける。

「セリカちゃんがサナと仲良くしてくれたら、私は嬉しいな。キツネどうこうじゃなくて、あの子の母親として」

 セリカは小さくうなずいた。

「ところで、生理がきたこと、お父さんにはいった?」

 セリカは、首を横に振る。

「学校で授業があったから知ってるつもりだったんです。生理のとき用の下着とか、いろいろ必要になるし、お小遣いだけでは足りないし、お父さんにいわなきゃ、とは思っていたです。でも……」

「いえないよね。私もそうだった」

 母はケラケラと笑う。その反応に驚き、セリカは母を見た。

「へ?」

「私もね、お母さんとは仲が良くなくてさ、はじめてきたときも隠してた。実家はお金持ちだったから、お世話係のお姉さんがいたの。そのヒトが気付いて、生理のこと全部教えてくれた」

「学校で授業があって、わかってたつもりだったんです。でも、本当に血がついているのを見たら、どうしよう、どうしようって思うことばっかりで、なにが普通なのかわからなくて、私、なにかの病気かな? って怖くて」

 セリカの震える声。母は「うん」と優しくうなずく。

「スマホで、自分でいろいろ調べたんです。そしたら、どうしたら赤ちゃんができるのか知って。男のヒトと女のヒトがそんなことするんだって」

 セリカはさらに続ける。

「自分も、そうやって生まれてきたことはわかってるんですでも……やっぱり、お父さんとヒトミさんがって、色々想像すると気持ち悪く感じちゃって……。そもそも、そんなこと考えるのが、とっても悪いことしてるのかな? って思ったり……」

 ジムニーは、田園の中、まばらな街灯と、遠方の民家しか灯りがない、まっすぐな道を気持ちのいいスピードで走り抜けていく。

 母は、ゆっくりと息を吐いた。

「あのね、セリカちゃん」

「はい」

「私は、エッチをしたから、四人の子供を産んだわ。セリカちゃんが思っているようなことで間違いないと思う。それをやったの」

 母はゆっくりと言葉を選びながら語る。

「セリカちゃんがいうようにヒトミさんのお腹に赤ちゃんがいるのも、セリカちゃんのお父さんとヒトミさんがエッチしたらからだし、セリカちゃん自身も、お父さんとお母さんがエッチしたから生まれてきたの」

「……はい」

「なんにも悪いことじゃないのよ。人間も、私たちキツネも、同じ。生命に備わった、新しい命を生み出す力なの。これって凄いことだと、私は思うな」

 セリカは小さくうなずく。

「だけどね、凄いことであると同時に、恐いことでもあるの。生み出すということは、責任を負うということでもあるの。命に対する責任。生まれたばかりのちっちゃな赤ちゃんが、大きく育ち一人で生きていけるように、幸せを感じられるようにするにはどうすればいいか、たとえどれほど先の見えない暗い中でも道を選び続けていかなきゃいけないの」

 母は「だからね」と言葉を繋ぐ。

「いつか、セリカちゃんも誰かとエッチして、赤ちゃんを宿す日が来るかもしれない。だけど、お願い。セリカちゃんから生まれる命を、不幸にしないで。ちゃんと責任を持って幸せにしてあげて。命の責任を負えるヒトを選んで、責任を負える時を考えて、命を生んで。それだけが、私からのお願い」

 セリカはうなずいた。でも、その表情は母の言葉を完全に理解している風ではなかった。でも、母はそれ以上はいわなかった。

 夜の闇の中に、真っ白な雪が舞い始めた。

「今シーズン最後かな?」

 母は、つぶやくと、ワイパーを動かした。

 ジムニーは、まっすぐな田園の中の道を走っていった。


『和食処 若櫻』

 店内に、コンとイクはいた。

 ナオヒロが、救急車を呼んで、ヒトミは救急搬送されていった。

 救急車に乗って、ついていくこともできた。コンとイクはそれをしなかった。ただ茫然と状況を見つめることしか出来ず、足が動かなかった。

 そして、救急車を見送ったあと、店に戻ってきたのだ。

「お母さん、大丈夫かな?」

 イクはカウンター席に座る。

「ごめん。追いかけるべきやった」

 カウンターの内側にいるコンは、洗って、乾かしていた食器を戸棚に片付ける。

 ヒトミが搬送されていくとき、「いこう」といって、救急車に飛び乗ればよかった。それで、なにが変わったかはわからない。でも、それが正しい選択だったような気がしてならない。

 でも、それを選べなかった。

 イクちゃんのため、口先ではそういいながら、本当はヒトミに近付きたくない。コンは自分の感情を自覚した。

 そのとき、店のドアが開いた。

 そこにいた人物を見た途端、言葉を失った。コンもイクもだ。

 店の扉のところに立っていたのは、ヒトミだった。


 カラン。


 ドアにつけたベルが鳴った。

「お母さん……」

 イクがつぶやく。

「あなたは、誰? ううん。わかる。私の、お腹の中の……」

 ヒトミは戸惑っている様子だった。

「お母さん、お母さん!」

 イクはヒトミに駆け寄り、腰に抱きつく。

「大丈夫。わかるわ。ちゃんとわかる。あなたが、私の子供だって」

 ヒトミはイクの髪をなでる。

「お母さん、会いたかったよ」

 イクはヒトミの体に、顔をうずめた。

 ヒトミの視線が動く。イクから、コンへ。

「コン……コンなの?」

「私が、わかんの?」

 ヒトミは、ゆっくりとうなずくと、ポケットからパスケースを取り出した。

 パスケースから灰色の紙きれを取り出した。新聞記事の切り抜きらしい。

「ずっと、ずっと持ち歩いてたの」

 コンの顔写真が載っていた。

「私が、死んだときの……」

 そう、それはコンが里親になるはずだったヒトに刺殺された、あの事件を伝える新聞記事だった。

「あなたがここにいるということは、私は死んだのね」

 ヒトミは、落ち着いた口調でいった。

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