第9話 神様に会った話 後編

 予定通り、その日の夕食はコンがつくった。

 台所にコンの歌声が響く。

 

 丸竹夷二押御池まるたけえびすに おしおいけ

 姉三六角蛸錦あねっさんろっかく たこにしき

 四綾仏高松万五条しあやぶったか まつまんごじょう

 雪駄せったちゃらちゃら魚の棚うお たな

 六条三哲ろくじょうさんてつ通りすぎ

 七条ひっちょう越えれば八九条はっくじょう

 十条東寺じゅうじょうとうじでとどめさす


「ねえ、コンさん」

 台所には、いつの間にか夫婦の実子である男の子がきていた。

「手伝えることない?」

 不愛想にいわれたそれは、コンにとっては予想外の言葉だった。

 昨日、男の子はずっと不機嫌そうだった。それは、コンのことを不快に思っているからだと思っていたけど、違うらしい。少し安心した。

 少し考えて、洗い物を頼むことにした。

 コンが調理する横で、男の子は調理器具や食器を洗う。

 漂白剤の匂いがした。

「普通の洗剤だけでいいで」

 コンは自分の手元を見たまま、つまり、男の子の方を見ないでいった。


 テーブルの上に、天ぷら蕎麦といなり寿司が並ぶ。

「コンちゃんはね、お料理がとっても上手なんやで」

 妻はおっとりとっした口調でいった。

 コンははにかみながら「そうでも……」といった。口ではそういっても、料理が上手い自覚はあったし、今日のは特に自信作だった。

「俺、食べたくないんやけど」

 突然、男の子がそういった。

「蕎麦嫌いやったか?」

 夫がいうと、男の子は首を横に振った。

「これ、漂白剤の匂いがする」

 コンは慌てて自分の分の蕎麦の匂いをかいだ。いたって普通の出汁の匂いだ。

「そんなはずないんやけど……」

 コンは男の子の横までいき、匂いをかぐ。確かに、男の子の蕎麦からは、出汁の匂いに混ざって、漂白剤の臭いがした。

「なんで……」

 夫婦も男の子の蕎麦の臭いをかぐ。

「確かに、漂白剤や……」

 夫婦はコンを見た。漂白剤を入れたのは誰か、状況を考えて誰の可能性が高いか。

「私じゃ……」

 コンは後ずる。

 男の子は一瞬、口元に笑みを浮かべた。だけど、コンにはそれを指摘することができなかった。

「キツネのお化けめ、ボクを殺そうとしたんだな!」

 男の子の言葉の意味が、コンには一瞬、理解できなかった。しかし、すぐに嫌な予感がして、食器棚のガラスにうつる自分の顔を見た。

 頬の大きな火傷の跡、左目も火傷の後遺症で白く濁っている。そしてなにより、コンという名前。

「キツネのお化けって、私?」

 その瞬間、蕎麦の入った丼鉢が飛んできて、コンの顔面に直撃した。

「そうだよ、お前以外に誰がいるんだよ。このバケモノめ」

 続いて、いなり寿司が乗った陶器の皿が飛んできて、コンの額にあたった。男の子が投げつけたものだった。

 痛かった。熱かった。額から血が流れ出るのを感じた。

 コンは夫婦に一人ずつ、順番に目をむけた。男の子を非難してくれると思った。叱ってくれると思った。

 しかし、夫は「いくらなんでも、食べ物に漂白剤をいれるのはやりすぎだ」といい、妻は「人を殺そうとするなんて……」とつぶやく。

 コンは視線を足下にむけた。丼鉢と、皿と、そして蕎麦といなり寿司がグチャグチャになって散乱していた。

「ひどい……」

 コンの目から、涙が流れた。

「泣いたフリしたら許してもらえると思うなよ。この殺人犯」

 男の子は、床に散らばっていたもの、コンがつくった料理だったのもを足で踏みつけた。

 喜んでほしかっただけなのに。喜んでもらえると思ったのに。

「出てけ、お前の家なんてどこにもないんよ。だから、母親に虐待されたんだよ。気持ち悪いバケモノが」

 男の子はコンに飛びかかった。

 コンはとっさのことで受け身がとれず、後ろに仰向け。頭を打った。クラクラする。

「出てけ、出てけよ」

 男の子は馬乗りびになって、コンを殴る。

 コンはとっさに、男の子の体を掴むと、力一杯放り投げた。

 体格はコンの方が大きいし、重い調理器具を取り扱う分、筋力もある。

 男の子は床に転がる。すかさず、コンは上からこれを押さえつけた。

「私が嫌いならそれでいい! 私の料理が嫌なら食べんでいい! そやけど、そやけどなママのことなんにも知らんクセに! ママは、ママは……」

「イタイ、イタイよー」

 男の子は大きな声で泣き叫ぶ声で、ふと、コンは冷静になった。

「……ごめん」

 男の子を抑える手の力を弱める。

「おかあさーん。イタイよ、イタイよー! はやく助けて、殺される!」

 しかし、男の子は泣き叫びつづける。

 次の瞬間、コンはふっとばされる。妻が体当たりしたのだ。

 顔を上げると、夫婦が二人とも、男の子に抱きつき、繰り返し、繰り返し名前を呼んでいた。

 胸の辺りが熱かった。

 見ると、包丁が刺さって、血が出ていた。さっき、料理をつくっている間、コンが握っていた包丁だった。

 驚くほど冷静に、状況が理解できた。あの妻が、包丁でコンを刺したのだと。

 熱くて、熱くて、たまらなかった。

「かわいそうだね、痛かったね」

 夫婦からのその言葉は、コンではなく男の子にむけられたものだった。

 呼吸が荒くなって、視界がかすむ。

 嫌だ。

 死にたくない。

 その一心で、生き延びる方法を考えようとするのに、頭がボーッとして、なにもおもいつかない。

 徐々に、胸の熱さが和らいでいった。いや、全身の感覚が失われていくのだ。

 死にたくない。

 どうにか生きられないだろうか。

 自分のつくった料理で、みんなを幸せにしたい。そう想っていたのに。

 やがて、目の前が真っ白になった。

 最後に見えたのは、我が子を愛おしそうになでる夫婦の姿だった。

 あの子は、愛されているんだな。

 じゃなかったら、刺されることもないか。

 私も……。


 気がつくとコンは、どこかの山の中にいた。

 歩道もなく、木々が生い茂る薄暗い山の中に、たくさんの警察官がいた。鑑識さん、だっけ? 刑事ドラマで見たような服の人たちが、あわただしく動きまわっている。

 ある一区画が、ブルーシートで目隠しされていた。

 コンが自分の体を確かめる。どこも痛くない。休みの日によく着ているお気に入りの服は、汚れもシワもない。

 まるで状況がわからない。

 あの家で包丁で刺されてから、今この瞬間まで記憶が繋がらない。

「おっはー。もしくはグッモーニン。お目覚めの気分はどう?」

 後ろから、やけにハイテンションな声がした。女性の声だった。

 振り替えると、高校生くらいの少女がそこにいた。

 派手な色に染めた髪、派手な化粧、寒い時期なのに肌の露出が多い服。そんな感じだった。

「えっと……」

 ここがなにかの事件の現場なら、少女は明らかに場違いな雰囲気なのに(まあ、コンもヒトのことはいえないが)、警察官たちはまるでその事を気にしていないようだった。まるで、姿が見えていないかのように。

「せーかい。ピンポン、ピンポーン。私たちの姿は、周りには見えていませーん」

 少女は突然、大声でそういった。コンはなにもいっていないのに。

「私はウカノミタマ。稲荷神、とか、お稲荷さんっていったらわかりやすいかな? 豊穣と穀物の神様なのだ、えっへん」

「えっと、ウカノ……」

「ウカちゃんって、気軽に呼んでくれたらいいよ」

「私、一体……それに神様って……」

 ウカと名乗った少女は、短く息を吐くと、意を決したようにいった。

「コンちゃん、あなたはね、死んでしまったの。包丁で刺されて殺されたの。遺体は土に埋められて、魂も一緒に眠りについた。でも、事件はすぐに公けになり、遺体も掘り出された。見にいく?」

 ウカの視線はブルーシートにむく。コンは首を横に振った。

「うん。その方がいいと思う。気持ちいい状態じゃないしね」

 ウカは再びコンに目をむけた。

「まあ、それで、遺体が見つかったことで、コンちゃんの魂も眠りから覚めて、ここにいるの。体との繋がりは完全に切れて、魂だけの存在、わかりやすくいえば、幽霊ね」

 コンは自分の手を見た。今、気がついた、微かに透けている。


 ウカに連れられて、コンは山道を下る。

「私、これからどうなるんですか?」

「悔しかも、遠く来まさず。吾は黄泉戸喫よもつへぐひしつ」

 ウカがつぶやくようにいった。それは、ウカ自身の言葉ではなく、本かなにかの引用のようだった。そして、コンにはその意味がわからなかった。

「あのね、コンちゃん、死んだヒトの魂は、死者の国の火でつくった料理を食べなければいけない。それをやって、はじめて生者の世界との縁を切ることができるの。その後は、死者の国で暮らすか、記憶を消して生まれ変わるのか、選ぶことができる」

 そのとき、登山客らしい中年の男女が前からやってくるのが見えた。コンとウカは道端によける。

 木々の間を、風が吹き抜ける。

「寒いね」

「そうだね」

 登山客たちの会話に、コンはまるで共感できなかった。寒さを感じなかった。

 すれ違うその瞬間、登山客の女性の方のポケットからハンカチが落ちた。

「あ、落としましたよ」

 コンはハンカチを拾おうとした。しかし、手はハンカチをすり抜けて、拾うことができなかった。数回試してみたけれど、結果は変わらなかった。

「ハンカチ……」

 コンの声も届かず、登山客はいってしまった。

「コンちゃんは、優しいね」

 ウカは優しい笑顔を浮かべると、ハンカチを拾い上げる。

「大丈夫。帰りに、必ずこれに気付いて、持って帰るから」

「私、死んだんですね」

 大がかりなイタズラでも、夢でもない。受け入れるしかないと、悟った。

「うん。そうだね」

 ウカは拾ったハンカチを、木の枝にくくりつけた。


 登山口にやって来た。

 そこに女の子がいた。あの朝、駅で出会い、家まで送っていったあの女の子だった。

「あの……この前は、ありがとうございました」

 女の子の言葉。それは、明らかにコンにむけられたものだった。

「私が、見えてんの?」

 女の子は小さくうなずいた。

「コンちゃん、紹介するね。この子は長尾サナちゃん。私の使いの一人よ」

 女の子――サナは小さく「よろしくおねがいします」といった。

「コンちゃん、遅くなったけど、サナちゃんを助けてくれてありがとう。それから、ごめんなさい。本当は、コンちゃんが死ないように、したかった。でも、気付いたときにはもう手遅れだった」

 ウカは、深々と頭を下げた。

「神様でもどうしようもないのなら、どうしようもないですよ。きっと、きっと……」

 コンはそれ以外の言葉が出てこなかった。

 ウカは顔を上げる。

「あのね、コンちゃん。お願いがあるの」

「お願い?」

「うん。サナちゃんの実家の近くに、死んだヒトがやってくる食堂をつくろうと思っているの。コンちゃんには、そこで料理をつくってほしいの。さっき話した、死んだヒトが生きている者の世界と縁を切るための料理を」

「私で、いいんですか?」

 コンは自分の腕に自信を持っている。でも、世界一だなんて思っていない。もっと上手なヒトも、沢山いるはずだ。

「大社でいなり寿司、配ってたことあったでしょ? あれ、私も食べたんだけど、おいしかった」

 コンの脳裏に、一つの景色がうかんだ。床に散らばった食器と、料理だったもの。それを踏みつける足。それは、あの里親になるはずだった人の家での景色だった。

「ホンマですか? ホンマに、おいしいって、そう思ってくれはったんですか?」

「うん。嘘じゃないよ。コンちゃんほどの料理の腕前のヒト、なかなかいないよ。自信をもって」

 コンの目から、涙がこぼれた。死んでも泣けることに、自分でも驚いていた。

「ありがとう、ございます……ありがとう……」

 トウカはコンの頭をそっとなでた。その手の温かさを、コンは確かに感じた。

「コンちゃんは、料理で、みんなを幸せにしたかったんでしょ?」

 コンは小さくうなずいた。

「おいしいものを食べさせてくれたお礼に。サナちゃんを助けてくれたお礼に。コンちゃんの想い、必ず叶えるから。神として」

 ウカは、コンを抱きしめた。


 ウカに連れられてやってきたのは京都駅だった。

 コンはここからサナと一緒に鳥取へいき、そこで食堂をすることになるそうだ。

 特急列車が滑り込んでくる。

 サナと、それに続いてコンが乗り込む。

「あの……ありがとうございました」

 デッキから、ホームにいるウカにむけてコンは深々と頭を下げた。

「じゃあ、またときどき様子を見にいくから。元気でね」

 幽霊であるコンにむかって、元気でね、というのが不思議な気もした。

 ドアが閉まる。

 特急が発車するまで、ウカはずっとホームで手を振っていた。

 サナが、小さく手を振り返した。

 完全にホームから離れると、客室に移動した。サナは二人掛けの座席の窓側に座り、通路側は空いている。

「座らないんですか?」

 サナが不思議そうにコンを見る。

「私、座っていいんやろか?」

 コンは切符を持たずにこの列車に乗っている。幽霊だからそれでいいらしいし、駅の自動改札も素通りできた。でも、なんだか悪いことをしているような気になる。

「いいですよ。お客さん来ないと思いますから」

 コンは車内を見渡す。コン以外の乗客は、サナだけだった。

 まあ、混んできたら立てばいいか。コンはサナの横に座った。

「久しぶり、になるんかな?」

 コンがサナと駅で出会ったあの朝から数週間たっているらしいが、コンの体感では一日もたっていない。

「あのときは、ありがとうございました」

 サナはペコリと頭を下げた。

「神様のお使いやってんな」

「はい。ごめんなさい、隠してて。それに、もし私がもっとはやくウカ様にコンさんのことを話していたら、コンさんは死ななかったかもしれない……ごめんさい」

 ゴトリ、ゴトリ。列車の音が響く。

「お稲荷さんのお使いってことは、もしかして……」

 サナはコンのいいたいことを悟ったらしい。周囲にヒトがいないか見渡すと、そっと頭に手をのせた。

「はい、キツネです」

 手をよけたとき、その頭には三角形の、キツネの耳が生えていた。

「もしかして、クラスメートに秘密にしてることって……」

 サナはうなずく。それにあわせて、頭の上の耳が揺れた。

「はい、私がキツネってこと」

 もう一度、頭に手をのせ、よける。すると耳は消えていた。

「もともと、私の家は代々ウカ様に仕えるキツネの一家なんです。私はその中で、特に強い力を持って生まれたんです。きょうだいにできない術も、私には使えました」

「ようわからんけど、すごいやん。優秀なんや」

 サナは首を横に振った。

「それで、ある日、家にウカ様がいらしゃって、京都の総本宮でもっといろいろ勉強しないかって、いわれて。嬉しかった。でも、私は……今の私は、キツネに生まれたことが、嫌で嫌でたまらないんです」

 サナは服の裾を握り締めた。

「結局、元の家に戻ることになりました。私は、力を捨てて人間になりたいと、願ってしまった」

 コンはサナの頭をなでた。

「……立派なキツネになって帰ろうって決めてたんです。家族のみんなも、応援してくれてたんです。きっとみんながっかりする」

 サナの目に、涙がたまる。

「泣いていいで。私もさっき泣いてたし」

 泣きながら、サナはうなずいた。

 車内に電子音のメロディが流れる。駅名の放送前に流れる音楽だ。その曲はコンもサナもよく知っている、唱歌の『ふるさと』だ。


 こころざしをはたして

 いつの日にか帰らん

 山はあおき故郷

 水は清き故郷

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