第8話 神様に会った話 前編

 ある病院に、一人の幼い少女が運び込まれた。少女の名前は、コン、といった。

 コンの左の頬には、大きな火傷があった。火傷は、左の眼球にまで達していた。

 付き添ってきた母親によると、こけて、火がついたガルコンロに突っ込んだらしい。

 しかし、診察した医師はコンの全身に殴られたり、蹴られたりしたような痣があるのを見つけた。

 元々、虐待があるのでは、と児童相談所の職員は頻繁にコンの家を訪れていた。

 そして、この一件が決め手となり、母子家庭だった為、コンは児童養護施設に保護されることとなった。

 そのときコンは「ママと離れたくない」と泣いていた。


 京都、稲荷大社の近くにある児童養護施設にコンがやって来たのは四歳のときだった。

 当初は環境の変化に戸惑い、些細なことで涙を流していたが、次第に施設内に自らの居場所を見出し、気を緩めることのできる場所となっていった。

 噂程度に聞いた話では、母親はどこかへ引っ越し、連絡がとれなくなったらしい。


 そして、九年の月日はあっという間に過ぎ去り、コンは中学生となっていた。

 ブレザーと、チェック柄のスカートという制服は施設の子供のお古であり、ブレザーに至っては男子用のもので、合わせが女子用とは逆になっているが、それでも、はじめて制服を着て登校したときは少し大人になったようでうれしかった。

 部活、というか同好会にも入った。料理研究会だ。

 研究会の企画で、いなり寿司を作り、大社で振舞ったこともあった。これが、思いがけず好評だった。

 特に、小学生くらいの女の子が口いっぱいに頬張りながら、嬉しそうな顔をしていたのが印象的だった。

 このとき、レシピを考えたのはコンだった。


 一学期、夏休みと過ぎ去り、二学期も終盤に差し掛かったときのことだ。施設にコンを引き取りたいという若い夫婦が現れた。

 夫婦はたまにボランティアで施設に来ていたから、コンも顔は知っていたが、それまでほとんど話したことはなかった。

 コンは施設の中では古参の部類に入る。

 将来について、明確な展望を持っていたわけではなかった。唯一の趣味は料理を作ることであり、それで誰かを幸せにできたらいいな、と思う程度だった。

 いずれにしても、義務教育を終えて自力で生活費を稼ぐようになるまでは、施設で暮らすものだと思っていて、里子になんて考えたこともなかった。

 夫婦がコンを引き取りたがっているという話を聞いたときは、なんで私なんだろう、というのが正直な感想だった。しかし、それでも普通の子供のように暮らせるかも、という希望に胸がおどった。

 それから、何度かファミレスで会って、一度水族館へいって、そして、とりあえずしばらくの間、夫婦の家で暮らすことになった。

 夫婦には一人、実子がいた。小学五年生の男の子だ。コンはこのときはじめて、その男の子に会った。男の子はずっと不機嫌そうな表情だったのが、気になった。


 夫婦の家の子になるのなら、学区が変わるから、転校しなければいけない。でも、とりあえずは今までと同じ学校に通うことになった。リュックサックを背負って電車で通学する。

 電車通学初日、私鉄の駅から準急に乗って数駅先の駅で降りる。数日間の通学のためにともらった回数券が、落とさずちゃんと手元にあるか確認しようとしたときだ、視界のすみに、その姿がうつった。

 ホームのはしっこに立つ、一人の女の子。

 コンは彼女に見覚えがあった。大社でいなり寿司を振る舞ったあの日、口いっぱいに頬張り、笑顔を浮かべていた女の子だった。

 むこうも通学途中なのか、ここから電車で数駅いったところにある私立小学校の制服を着て、学校指定の鞄を背負っている。

 コンは女の子から目が離せなくなった。

 女の子の雰囲気は、異様だった。

 周囲を見ていないことがわかる虚ろな目。

 過去にそういう現場に居合わせたことがある、というわけではない。だけど、もしかして、とコンの中に、一つの予感がよぎる。

 コンはさり気なく、女の子に近付く。

 電車が通過するとのアナウンスが流れ、赤と黄色に塗られた特急が近づいてくる。

 その瞬間、女の子の足がピクリと動いた。

 それと同時にコンは女の子の肩を掴んだ。

「おはよう。久しぶりやな」

 コンは笑顔を浮かべ、できるだけ優しい口調で声をかけた。

「その火傷……おねえさん、いなり寿司の……」

 女の子はしばらくコンの顔を見つめた後、突然泣き出した。


 ホームのベンチに女の子を座らせ、コンもその横に座った。

 ほどなくして、女の子は泣き止んだ。

「どう? 落ち着いた?」

 コンが訪ねると、女の子は小さくうなずき「ごめんなさい」といった。

「なんかイヤなことでもあったん?」

 女の子は口ごもる。コンに悩みを打ち明けるべきか、悩んでいるみたいだった。


 グゥー。


 そのとき、音がなった。女の子のお腹の音だった。

 コンは少し考えたあと、リュックサックからタッパーを取り出した。

「朝から作ったんやけど、食べる?」

 コンを引き取ろうとしている夫婦は、コンが料理上手だと聞いて、食べて見たいといった。コンはこれを快諾し、今日の夕食を作ることになった。

 せっかくなので、腕によりをかけて、最高の料理を作ろうとコンは早起きして朝から作りはじめた。これは、その副産物なのだ。

 たくさんつくったいなり寿司。つくりすぎたいなり寿司。それを、タッパーに入れて、今日の昼食にしようと考えた。

 膝の上でタッパーを開く。ぎっしりと詰まったきつね色がお目見えする。

「ごめんなさい。いらないです」

 そういいながらも、女の子の視線はずっといなり寿司にむけられている。

「お腹、すいてへんの?」

 女の子は首を横に降る。

「食べても……すぐに吐いちゃうんです。だから、ごめんなさい」

「拒食症、やっけ。そういうやつ?」

 噂程度にそういうのがあると聞いたことがある。詳しくは知らない。

「ううん。ちがうんです」

 女の子はまた首を横に振った。

「食べちゃいけないものを食べちゃって、それから、なにかを食べるたびにとても悪いことをしているような気分になって、気分が悪くなっちゃうんです」

 女の子がいう、食べちゃいけないものを食べた、というのが乾燥剤など、体に有害なものを口にした、という意味なのか、客に出すつもりだったお菓子をつまみ食いしてしまった、みたいな話なのか、はたまたどちらでもないのか、コンには判断できなかった。

「でも、お腹すいてるんやろ? 食べんと元気出えへんで」

 女の子はゆっくりといなり寿司に手を伸ばす。でも、まだ迷っているようで、その手は途中でとまる。

「無理せんと、しんどかったら残しても、吐いてもいいからな」

 女の子は小さくうなずき、ゆっくりと、いなり寿司を食べはじめた。

「おいしい……おいしいです」

 女の子はゆっくりと、時間をかけていなり寿司を一個だけ食べた。

「……もう、生きたくないんです」

 食べ終えた女の子は、ゆっくりと口を開いた。

「イジメられてるとか?」

 女の子は首を振って否定する。

「みんな仲良し、ではないですけど、私はイジメられていないです」

 女の子は言葉を切った。準急電車が到着し、ドアが開くと多くの人が降りてくる。電車が発車し、ヒトの波が去った。

「ここで電車に飛び込んだら、生まれ変われるかなって、ふと思ったんです。死者の国にいって、ヨモツオオカミ様に叱られちゃうけど、でも、このまま生き続けるよりはマシなんじゃないかって、思っちゃったんです」

 コンは「そっか」といいながら、膝の上のタッパーを片付ける。

「じゃあ、今日は休んじゃえ。家、この近く? 送っていくで」

「でも……」

「別に毎日いかんでもええやん。私からも、お父さんとお母さんにゆうとくで」

 女の子は小さくうなずいた。さっきより、ずっと明るい表情になっていた。

「でも、お父さんとお母さんじゃないんだ。離れて暮らしているから」

 コンは笑顔を浮かべた。

「じゃあ、私と一緒やな」

 女の子は驚きの表情でコンを見た。 


 駅を出て、山の方向へ歩いていく。大社へ続く道だ。

「元々鳥取に住んでたんです。でも、勉強のために、こっちに下宿してて……」

「鳥取……左やっけ」

「右です。左は島根」

「あ、ごめん。でも小学校のうちから下宿って大変ちゃう?」

「私を預かってくれてるヒトたちは、とってもいいヒトたちなんす。お姉さんも下宿しているんですか?」

「ううん。次の交差点、曲がったところに『もみじの家』ってあんの知ってる? 児童養護施設」

「はい」

「うん。そこが、私の家。色々あって、ママがどこいるかわからんようになったから。でも、里親になってくれるかもしれへんヒトが見つかったから、昨日からそっちで暮らしてんねん」

「……ごめんなさい」

「謝らんでいいで。なんにも悪い気することなかったし」

 そんな会話をしているうちに、ある一軒の住宅の前に来ていた。大社のすぐそばにある家だった。

「ここが、わたしの家です」

 女の子は玄関のドアの前まであるいていく。しかし、女の子がドアを開けるよりも先に内側から開いた。

 出てきたのは、優しそうな女性だった。

「おかえり。忘れ物?」

 女性は優しい口調でいった。

「ううん、あの……」

 女の子はうつむき、口ごもる。

 コンは笑顔を浮かべて女性に事のあらましを話した。

 女性は驚いたような表情を浮かべ、そして少し悲しそうな表情になり、女の子を抱きしめた。

「ごめん。なんにもしてあげられへんで、ごめんな……」

 女の子は女性の体に、顔をうずめた。

「よかった」

 コンはそっと、その場を立ち去った。


 わかっていたことだけど、学校には遅刻した。

 コンが教室に入ったのは、朝のホームルームが終わり、一時限目の最中だった。

 簡単に謝罪をして自分の席についた。

「珍しいっていうか、はじめてちゃう? コンが遅刻すんの」

 後ろの席のタマキが小さな声で話しかけてきた。小学校のときからの仲良しだ。タマちゃんって呼んでいる。

「うん。たまにはな」

 コンは小さな声でかえした。


 休み時間、職員室に呼び出された。もちろん、今朝の遅刻についてだ。

 コンは適当に作った理由を説明した。確か、間違って特急列車に乗ってしまい、降りなければいけない駅をいき過ぎてしまった、みたいなことをいったと思う。軽く注意を受けただけで、怒られなかった。


 放課後、料理同好会を終えて“家”に帰る。

 駅まで歩いてくると、なんの気なしに今朝の女の子の姿を探した。もちろん、見つからない。

 幸せになれるといいな。そう思うと、微かに笑みが浮かんだ。


 “家”に戻ってくると、コンの母親になるはずのヒト。夫婦の妻の方は、わざとらしい笑顔を浮かべていた。

「学校から連絡あったけど、今日遅刻したんやって」

「あ、はい」

「コンちゃんは施設で育ったから、学校で馴染めへんかもしれんけど、これからはみんなと一緒やからな、心配いらんしな」

 コンには、このヒトがなにをいっているのかよくわからなかった。遅刻したのは小学校から数えても今日がはじめてだし、中学校に入ってからは学校に馴染めていない、と感じたことはない。

 とりあえず、生返事をしておいた。

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