鬼の泣く声

 将棋を縁側で指しているうちに、近所のもの好きがいつの間にか集まってわいわいと騒いでいる、指すたびに楽隠居のお爺さんがにやりと笑うそのプレッシャーがたまらない、そのような風景は娯楽の多様化、家の構造の変化などでめっきり見なくなってしまった。今や将棋人口は減り続け、ニュースでも天才の出現か、AIと棋士の比較でしか報道はされないのだ。地方紙でも詰将棋のコーナーはいつの間にかなくなってしまった。しかしそれは将棋の魅力が衰えたわけではない。AIと棋士との戦いに技術的な進化を楽しむ面があったとしても、そこに人と人のドラマはないのだ。村山聖、小池重明、大山康晴、升田幸三、羽生善治、藤井聡太など棋士のエピソードは挙げればきりがないが、彼らの背景や人生、哲学が盤面でぶつかり合う興奮と楽しみ、そして凄みは依然健在である。

 本作『大江戸将棋家物語』では、江戸時代の棋士である伊藤印達とその弟である伊藤宗看らを中心人物として、時に鬼気迫り、時に愛憎激しく、そして大切な人への優しさが描かれている。物語の前半の、五十七番勝負の果てに一五歳の印達を待ち受ける運命は悲しくも美しい。初めて読む方には十二話の「空蝉」まで一気に読むことを薦めたい。そして次話で一人の鬼の誕生を味わってほしいのだ。私にはその産声が将棋への憎しみと家族への愛情が混じった悲痛な泣き声と聞こえた。
 そして中盤からは弟たちの活躍が続く。宗看や看寿は現代でも有名であり、『将棋無双』・『将棋図巧』などはご存知の方も多いと思う。詰将棋を始め、碁盤の上に展開する小さな宇宙の、その真理ともいうべき道筋を「美しい」と表現する彼らの、鬼と称するべき異常さを私たちは固唾を飲んで読み進めるのだ。また、個人的には彼らに比して努力の人である宗寿、看恕に共感している。天才である兄と弟に挟まれながら、自らの道を歩いていく二人に私たちは感情移入し、彼らの視点で鬼を眺めることができるからだ。
 最後に、作中に出てきた「赤穂浪士になりたかった」という言葉が印象に残っている。大切なものを奪われた子供は、その仇を取るために人から鬼となった。長い時間をかけて鬼が再び涙を流す時、人に戻るのであろうか。
 詰むや詰まざるや、盤面だけでなく棋士の行く道もまた選択と後悔の連続であり、私たちはそこにドラマを見出すのだ。