林床の茸

「後で向こうからおいで」


 彼はリヤカーを引ける迂回路を指した。さゆは出来るだけ幼くふくれっ面を作る。


「オジサンより木登りうまいし」

「足場悪いから子供は駄目」

「もう大人料金だもん」


 斜面をあらために行く三人は苦笑気味に互いを見交わし、程なく年長の馬場ばばが口を開いた。


駒野こまのさん、先お願い出来る?」

「いいですよ」

「冴ちゃんなら俺が安全網セーフティネット、お前がヘルプで行けるだろ」


 途端、冴の瞳が煌めく。

 駒野は石垣をのぼり始めた。続いた彼は若さに反して苦労する。

 冴が助走を取りかけた時、彼の両腕が伸び、あおぐと笑顔がうなずいた。木を扱い慣れていたんだ手。冴は躊躇ためらいを隠し、手を乗せる。熱が伝わる間もなく、彼の指は袖をさかのぼって二の腕に食い込んだ。

 靴底で岩をとらえ、片足が地を蹴ると肩を引かれる。痛みと浮遊感の中、冴の足が天端てんばかすった。彼女ごと彼は白粉花オシロイバナに倒れ込む。棘七節トゲナナフシが目の前を逃げた。


「重っ」


 彼はやぶまみれ破顔した。子供っぽい仕返しをしなければ、と思いながら冴の時が止まる。瞬間、


ずるい、俺も!」


 ひろが目敏く駆け寄った。冴は促されて緑陰にまぎれ、彼は下に応じながら目一杯、腕を上げる。


「来年ね」

「なんで!」

「小学生だから」


 彼は握った七竈ナナカマドに自身を引き寄せ、拓を残す。

 冴は傾斜を目の当たりに前を仰いだ。立ち塞がる林床りんしょう根上ねあがりが抱き、樹冠じゅかんから零れた光にシノブ玉苔タマゴケつやめく。根をよじ登ると彼がなだれた黒土を踏んでいた。上方で駒野はカシの元に屈み、何かを指差ゆびさす。

 彼は格闘してクズを差し下し、それを冴は両手で握った。斜面に乗ると落葉に水が沁み、その下で空気含む土がほどける。靴の流れる先に馬場の足が待っていた。冴はクヌギかかとをかけ、幹へ飛び付く。視界に現れた鬼瘤オニフスベに一瞬、心臓が縮んだ。

 冴は蜥蜴トカゲに倣う様に上を目指した。時に蚯蚓ミミズが鼻先をうねりくすぐる。

 混んでいるだろう林冠りんかんの落とす暗がりに、ふと蒸せる臭気が混じった。


「栗がまだ咲いてるな」


 馬場は首のタオルを口元にもたげる。


「私、これ平気」


 汗だくで得意気な彼女の頭を馬場は軽くでた。濡れながら大地と抱き合う冴が目線を上げると、勾配の次第に緩み行く先、辛うじて法肩のりかたの笹藪が見える。

 手足をつくと土は沈んで圧をいなし、時折とがりが皮膚を刺した。

 それを繰り返す内、不意に別の青臭さが滑り降りて来る。


「何か地面からにおう」

「茸が多いから鼈茸すっぽんだけかな」


 彼は冴の隣に屈んで指差した。

 木片と枝葉を集積した辺りに沢山の血潮茸チシオタケが出ていた。大小整わない愛らしい傘がもろく朽ちかけの木を家とし、みどり鞘苔サヤゴケを庭とする。冴が腹這えば、集う兄弟に似た七本と目が合った気がした。


「ひとよだけみたいだね」


 思わず冴は彼を顧みた。うっすらと汗をかいた横顔は柔和に、しかし、熱を帯びてそれを見ている。冴が起き上がり、顔を並べても注意は逸れない。


「ひとだけ?」

「うん。ガレの」


 浮かされがちに呟いた後、彼はやっと振り返る。そこでキョトンと自分を見る冴に気付き、彼は目を見開いた。


「エミール・ガレのひとよだけ、知らない? 本当?」


 彼は困った様に微笑む。

 冴はそれが無性に哀しかった。


「オジサンみたく長生きしてないし」


 冴はわざとらしく顔をそっぽ向けた。傷心を体奥に沈めようと試みれば、熱さが胸から下腹へと落ちる。それを抑え込み、冴はまた歩き出した。


――ひとだけ……一夜だけ……ひとだけ……


 一夜ひとよの茸だろうことを察しながら、冴の思考は霧に沈む。一晩で萎む花、一夜いちや限りの茸。冴には巡り合うことさえ難しい。

 只、想像は切なさを掻き立てた。何と出会う一夜だろう。何と出会わない一夜だろう。

 花も茸も騙せない暗さを抜け、仮初かりそめの大人の地から冴は出た。




 テニスボールの音がする。バーベキュー広場での昼食時間、家族や大人同士集うのから外れ、冴は思案し尽くした木陰に腰を下ろす。

 彼は手帳をりながら歩いていた。きっと自分に気付かない、そう思うと、彼が最も近付く瞬間も冴は知りたくなかった。その刹那から彼は遠退く。彼を視界に捉えたいと選んだ場所で彼女は弁当に焦点を結び続けた。

 その時。

 淡いモスグリーンが閃く。


「これ」


 振り仰げば、ほころぶ彼がいて、手に絵葉書を持っていた。

 緑の揺らぎと対峙する茸。風と枯葉と枯れ草に巻かれ、足元には腐葉土が分厚く積もる。半透明な仄かな色で闇に映し出されるその情景は、瑪瑙メノウに彫金を施した様に冴には見えた。


『ひとよタケ文花瓶 エミール・ガレ』


 これは地をう小さきものが林床さえ見上げた先にある茸と林冠だ。

 直感的に信じた自分を疑うことさえ忘れ、冴は写真に見入る。


「好き?」


 彼の問いに冴は頷いた。




 ◇


 朝礼後、冴は図書室へと駆けた。ドアの前で呼吸を整え、挨拶と共にそれを開ける。行き過ぎ様、返却籠に視線もやらず『夏の夜の夢』と『初恋』を入れた。

 本棚が几帳面に林立する薄暗がり。美術本が並ぶ一画で立ち止まり、冴はガレの名を背表紙に見出す。化粧箱だけを棚に置き、頁をめくった。

 不思議なガラスが次々と現れ、その手が止まる。

 冴は左右を窺うと、頁を掲げて唇に寄せた。唇は紙の感触を味わう代わり、埃っぽい匂いを吸い込む。胸の高鳴りを冴は飲み下した。





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ひとよだけ 小余綾香 @koyurugi

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