地上最強の横綱VS力士20人

春海水亭

相撲はすべてを捧げた


その男が地獄という名の楽園を夢見るようになって、もう一年になる。

男の仕事は常に順調である。

目を瞑っても、脚を封じても、しまいには手を使わずともこなせるのではないか、

本人がそのように思うほどに男の能力は凄まじく、

そして、それは男の驕りではなく、実際周囲もそのように思っていた。

夢が始まったのは、男が目を閉じて仕事をこなした日からである。

仕事自体は順調であったが、周囲からは大顰蹙を買った。

無理もないことである、それは傍目に見ても相手へのリスペクトを欠く行いだった。

だが、そうでもしなければ男の無聊は慰められなかっただろう。

男は酒樽をひょいと持ち上げ、文字通り浴びるように酒を飲んだ。

アルコールが脳を緩めなければ、眠ることも辛い。


「おお、地獄へよう来たなぁ」

目を閉じて意識を手放してしまえば、男はそれが当然のように地獄に立っていた。

夢には夢の道理があり、それを当然のものとして受け入れるのが普通の人間である。

男は普通ならざる優秀さを持っていたが、夢においてはやはり道理に従っていた。

オーソドックスな地獄であった。

血の池があり、煮えたぎる溶岩があり、針山がある。

空も赤ければ、陸も赤い、

亡者も血で赤く染まり、当然それを苛む鬼も赤い。

「こっちじゃ、こっちじゃ」

男は鬼に連れられるままにリングへと上がった。地獄特設リングである。

ここでリングについて読者について説明させていただこう。

こうマットがあって、なんか周りに棒が4本、あとロープが2,3本。

ロープがぐるっとなってて、でそこで戦ったりする。

おわかりいただけたところで、話を再開しよう。


男は体重が無いかのように軽やかにリングロープを飛び越え、リングへと上がった。

数万の鬼観客と亡者観客が彼を見守っている。

神話の巨人であるゴリアテを思わせる巨体に、鋼鉄のような筋肉、

そしてその筋肉に直接の攻撃が届かぬようにみっしりと脂肪をつけている。

男の体重が三桁を超えていることは言うまでもないが、

着地時の衝撃は無いかのようにその動きは軽やかである。


「プロレスはいいぞ……」

男をさらに上回る巨体の鬼が、リングの反対側でストレッチをしながら笑っている。

男の肉体が神話のそれを思わせる芸術品のようであるのならば、

鬼の肉体は芸術品を粉々に粉砕する鈍器のような無骨さを持っていた。

肌は赤を超え、最早黒に近い。返り血が染み込んでいるようである。

ゴリアテの体躯を持つ男をダビデにする怪物、

それが今まさに男が対峙せんとしている鬼であった。


「さぁ、横綱さんよ……」

ずしりとリングが衝撃で揺れるようだった。鬼がリングインしたのである。

横綱――そう呼びかけられた男はただ、沈黙で以て鬼に返した。

「何してもいいぞ……ここには余計な枷も無けりゃ、

 お前が本気で戦って壊しちまうようなものもねぇ」

誰も動いてはいない、男も鬼も観客もレフェリーも。

だが、誰もが皆ずしりと揺れる音を聞いた。

男と鬼の視線が交差し、物理的な質量を伴って衝突したのである。

勿論、実際にそのようなことが起こるはずはない。

だが、誰もが皆そういうことなのだろうと納得していた。

重厚なる戦士と戦士がリングに立てば、そういうことも起こり得るだろう、と。


カォンとゴングが鳴った。ゴングとは鐘……あぁ、ベル……

そういう……なんか……なんといえばよいか……その……ねぇ。

そもそも皆様はゴングについて真剣に考えたことがあるだろうか、

確かに筆者にはゴングに関して明確なる説明を行うことは出来ない、

ゴングが鳴ったの一言で物事は済むからである。

しかし、もしもゴングを知らぬ小さい子どもがこの小説を読み、

「ゴングとは一体なんなのかしらん」と思ったまま読了し、

最後までゴングの謎を抱えることを考えれば、

筆者としてもゴングの説明を行っておきたいのである。

子どもがこんな小説読んでんじゃねぇ!勉強しろ!


「行くぜ横綱ァ!」

「……来い」

男が初めて口を開いたのは、ただ癖がついていたからに過ぎない。

神聖なる土俵で交わすものは言葉ではなく、ただ積み上げた技術のみ。

だが、ここは土俵ではない――リングだ。

それを認識するのに少々時間がかかってしまっていただけのことだ。


男は呼ばれるとおりに力士の最高峰である横綱であった。

それも、歴史上最強の横綱である。

一日も休まず、一度の敗北も、一度引き分けることすら無かった。

しかし、それだけの成績を上げながら彼は全力というものを出したことがない。

相手を壊さぬように、繊細なる芸術品を扱うように、優しく、優しく倒してきた。

だから、彼は敵を求めていた。全力を出せる敵を。壊れぬ敵を。己を満たす敵を。


「はは……」

張り手ではない、男は固めた拳で思い切り鬼を殴りつけた。

鬼はだらだらと血を流しながら、それでも笑っている。

お返しとばかりに、鬼は前蹴りを放った。

男は槍で刺されたことはない。

だが、槍で突く衝撃とはこのようなものではないか。

分厚い脂肪を突き抜け、鋼鉄の筋肉を超え、その衝撃は内蔵をも痛めつける。

「……これは」

男が痛みというものを味わったのは、この瞬間が初めてだった。

だが、鬼はそれで手を休めるわけではない。

男もまた、痛みをゆっくりと味わう気はない。

このリングに鏡はない、だが男には今の自分の表情がはっきりとわかった。


「お前には地獄が似合っているよ」

鬼の瞳には細い目をより細めて笑う男が映っている。


だが、これは始まりに過ぎない。

ここからが本番――と、続けようとしたところで、男は目を覚ます。

そして、男は気づくのだ。

目を覚ました自分が手を伸ばしていることに。

存在しない楽園を求めて、いもしない最愛の敵に、最良の二発目を。


無様であった。ただただ、無様であった。

伸ばした手は空を切り、何も掴まなかった。



横綱が片足で目を閉じ、猫騙しだけで勝利した日の翌日のことであった。

最早、横綱の勝利に落胆すら覚えられる日のことである。

「……引退しようと思う」

ぼそりと控室で横綱が言った。小さいが、太い声だった。

「なんだって……?」

タニマチが聞き返した。聞こえぬ声ではなく、理解できぬ言葉でもない。

ただ、間違いであってくれという祈りを込めての言葉だった。

タニマチとは力士にとってのスポンサーや、プロモーター、

タオルを投げ込む人等の総合職を意味する役職である。

「引退するよ、今日の勝利を……俺は人生最後の勝利とする」

「馬鹿な!前人未踏の1万勝!年収300億!国民栄誉賞!名誉大将軍!

 それら全てを捨て去るというのかい!?

 いや……何よりも!君に捨てられた相撲界はどうなる!?客は!?」

「……もう、いいんだ」

横綱は笑って返した。虚無のような笑いだった。

笑いが仮面であるというのならば、

その透けた仮面は本心を何一つとして隠せてはいなかった。


「引退して、田舎でのんびりと暮らすよ……もう戦いはこりごりだ」

「嘘だ……!」

「おいおい……知ってるだろ、俺は強すぎる……」

「違う!アンタ死ぬつもりだろ!!」

「死ぬだって?よしてくれよ、俺はただのんびり生きたいだけさ」

「嘘を言うな!」

横綱に比べれば虫のように虚弱な体躯である。

横綱が手で振り払えば、それだけで消し飛んでしまうだろう。

そのタニマチが自身の中の勇気というものを振り絞り、

行かせぬとでも言うかのように控室の扉の前に立った。


「何の真似だ、タニマチ?」

「……不戦敗だ」

「不戦敗だって?」

「ここは通さねぇ……アンタを死なせねぇ……

 アンタは自分を殺せるけれど、人を殺せる人間じゃねぇからな……

 俺を殺してまで、アンタはここを通ることは出来ねぇ……!」

「おいおい、引退するってだけで大げさだろ」

「違う……!」

タニマチの目から、ぼろぼろと涙が溢れていた。

全身が震えているのは己より遥かに強い者に立ち向かう恐怖からではない。


「ずっと……ずっと皆わかっていたんだ!アンタと比べりゃ弱すぎることに!

 アンタと互角どころか……ダメージすら与えてやれない不甲斐なさに!

 ずっとアンタを失望させてきた……申し訳ねぇ……申し訳ねぇよ!」

「タニマチ……」

「けど、だからって殺させてやれはしねぇ……相撲でアンタを満たせなくても……

 せめてそれ以外の何かがあれば、それで幸せになってほしいんだ……

 相撲を盛り上げてくれたアンタへの恩を相撲で返せねぇ……けど、けどよぉ……」

タニマチがあらゆるものを振り絞って、己の前に立っている。

そのことに心を動かされぬ横綱ではない。

だからこそ――そう思い、横綱はその場に正座し、深々と頭を下げた。


「ありがとう、タニマチ」

「よ、横綱……」

「タニマチ……だからこそ、俺にアンタをごまかすことは出来ない。

 俺は死ぬ、今日の戦いを最後の勝利として。

 ただ、相撲と共に駆け抜けて……相撲と一緒に死にたい」

「やめてくれぇ……俺も皆もアンタのことが大好きなんだ……」

「俺もだ、タニマチ。

 だから……相撲が嫌いにならない内に、俺は死にたいんだ」

中学生の時の純粋な笑顔を、

タニマチが初めて横綱の存在を認識した時の笑顔を浮かべたのを見た瞬間。

横綱は銃弾の放たれる勢いで壁に己の巨体をぶちかましていた。

コンクリートの壁も力士の最高峰を前にしてはプリンのように脆い。

扉の前を塞ごうとも、横綱にとっては全てが出口に過ぎない。

「あぁ……」

タニマチはその場に崩れ落ちた。

もう、彼を止めることは出来ないだろう。


「誰か!誰かアイツを助けてくれェェェェェェェッ!!!!!!!」

タニマチの叫びは、横綱には届かず。

ただただ、心に響かぬ音だけが辺りに伝わっていくようであった。



(今日が最後か)

相撲のレフェリーである行司のボディーチェックを受けながら、横綱は漠然と思う。

ゴリアテを思わせる巨体を隠すものはない、腰回りに相撲褌だけを巻いている。

しかし脂肪の間や褌に武器などを隠すことが無いよう、

行司によるボディーチェックが行われるのである。

「横綱ァー!次は何やるんだー!?」

「腕一つ動かすテクニックだけで相手を負かせたりするのかー!?」

「負けろ横綱ァー!」

観客の野次と座布団が飛ぶ。

横綱に失望の感情はない。

責任があるとするならば全て自分のせいであると思っている。

(己の強さが相撲を、力士面白処刑ショーに変えてしまった……)

横綱は両の手で己の頬を叩いた。

せめて、最後の戦いぐらいは余計なことを考えずに試合に臨もう。


「にぃーしぃー横綱ぁー!」

行司が会場中に響き渡る大声で叫び、

その手にもつ軍配という看板っぽいもので横綱を差した。

「ひがぁーしぃー……」

しかし、土俵にて対峙するはずの相手力士の姿がいない。

きょとんと行司が周囲を見回すが、やはり本来いるべき力士の姿はない。

(タニマチ……不戦勝でも俺の勝ちは勝ちだぞ……)

消化不良の思いはある。

だが、これがタニマチの策略であるとして、横綱は死ぬ気である。

その時であった。

「遅れました……」

今日戦う予定であった大関が十九名の力士を引き連れて土俵に上がったではないか。

「ごっつぁん達二十名にて、横綱を打ち負かすでごわす」

「なんだと!?」

思わず、横綱が叫ぶ。

一対二十で負けることはありえぬ。

だが、勝てぬからと言って数に頼るとは――あまりにも卑怯ではないか。

「土俵を侮辱するな……大関……」

「……お言葉ですが、横綱。土俵を侮辱しているのはアナタでごわす」

大関の言葉に十九名の力士が一斉に頷いた。

「土俵は……アナタが死ぬための自殺の名所ではないでごわす!」

「タニマチから聞いたか!?」

「ごっつぁんはただ相撲ファンの悲しむ声を聞いただけでごわす。

 大関以下が弱すぎる……せめて横綱に土ぐらいはつけろ……

 返す言葉もないでごわす……だからこそ、今日は勝ちに来たでごわす」

「……二十人で一人を相手にしてでもか?」

「いえ、一対一ですよ」

「なァッ!?」

その瞬間、行司が己の両の目を短剣で切り裂いた。

最早、その目を開き、光あふれる光景を見ることは不可能だろう。


「おっと……うっかり、己の視力を失ってしまいました。

 しかし……私は行司歴60年……目が見えなくても行司行為ギョージングは出来ます。西は横綱、東は大関。神聖なる土俵には二人の戦士がいるだけです」

「だ、そうでごわすな……つまり今日は横綱相手に何をやっても良い日でごわす」

「ハハ……それだけのことで勝てると思ったのか?」

「勝つでごわす……今日はあらゆる反則を用意してきたでごわす」

「…………」

「ごっつぁんらが実力で勝てるようになるまでは……相撲を壊してでも、

 偉大なる相撲の化身である横綱を死なせはしないでごわす」

「……ふん」


二十人の力士が、一人の横綱を囲んだ。

「はっけよい……」

(面白い……)

「のこった!」

(やってみろ!)


全てを相撲に捧げた横綱に対し、相撲もまた全てを捧げた。

空を切ったはずの横綱の手は、今この瞬間にはっきりと握られたのである。


【終わり】

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