2019年 梅雨

「格闘技、です」


 目の前のパソコンに、患者のカウンセリング記録を書打ち込んでいる若い女医の手が止まった。


 弱弱しく痩せこけた目の前の男の、好きな物が予想もしない回答だったのだろう。背を丸め、首が前に出た姿勢のうつむき加減の男が、人と人との殴り合いが好きだと言う。目を丸くした女医は、念を押して聞き返した。


「格闘技って、ボクシングとか、空手とか?」

「ええ、昔は少林寺拳法をやっていて、少しですが空手もやりました。今は何もしてないですが」


 こうなることはわかっている。だいたいの人は、趣味を聞いたときは目の前の女医と同じ反応をする。世間の考える格闘技が好きな人間のイメージからは、到底かけ離れているように思えるから。どんな人物が、どんなものを好きになっても構わない。けれど、どの物にもイメージはついて回る。


 お菓子作りが好きな人は優しく穏やかな人。

 サッカーが好きな人は爽やかで明るい人。

 格闘技となると、どうしても暴力的な人間というイメージがついて回る。


 誰になんて思われようが、好きな物は好きだと言える人が大半だろうが、鬱というのは周りからの視線が怖くなるようで、そのことで頭を抱えていた。今、こうして目の前に女医のイメージを崩してしまったことが、恥ずかしいような、申し訳ないような気がした。


 女医は、再びパソコンに目を向けて、質問を続ける。


「なぜ、格闘技を?」


 一瞬、その質問の意味がわからず、考え込んでしまった。そして、その質問がどうして格闘技が好きなのかということを理解すると、自分自身の頭の回転がいかに遅いかが身に染みた。


 だから自分は仕事が続かないのだ、仕事が出来ないのだと、周りからバカにされてしまうのだと、自責の念が頭の中でうごめいていく。


「物心ついた時にはもうすでに、好きでした。テレビでもよく試合を見ましたし」

「試合って、ボクシング?」

「いえ、MMAを」


 その聞きなれないアルファベット三文字に、女医は眉をひそめる。「それはなんですか?」と聞き返された時、尊は再び自分のことを責めていた。鬱という病気が、いかに恐ろしいかを、このカウンセリングで理解出来た。


「総合格闘技です。ミックスド、マーシャル、アーツ」


 聞きなれない言葉に、女医は再び顔をしかめる。おそらく、格闘技の試合の一つも見たことのない人種なのだろう。医者という職業に就くために、途方もない努力をしてきた彼女にとって、格闘技の知識というものは必要がなかったのだろう。


「人を、殴りたいとか、殺してやりたいという気持ちになったりしますか?」

「とんでもない、格闘技は今は見るだけです」


 嘘だった。酒を飲むと、人を殴りたくなるのは変わらない。むしろ、あの会社を辞めてから、しらふであっても誰かを殴ってみたいという思いが、どんどんと増していった。この問いに対して、素直に答えることによって、自分の状況がうまく回らないことを尊は知っている。相手が、いじりのようなただ相手を傷つけて笑いをとるだけのコミュニケーションでなく、治療であることだということを知っていても。長きに渡って蓄積されたレッテルというものの恐ろしさも、身に染みて理解した。


「では、もう格闘技はやらないのですか?」

「・・・ええ」


 言葉が出ず、俯く。首が痛い。背が丸まって姿勢が悪くなると、いつもそうなる。女医の顔を見ることは出来ず、ただじっとパソコンを打ち込む手元を見ていた。


「鬱は、とにかく休むことです。そして、好きなものによく触れること」


 はっきりと、ゆっくりと話す女医の言葉に耳を傾ける。精神科に通う人間には、きっとこういう話し方がいいのだろうと思っていて、話の内容をほとんど聞き取れていなかった。けれど、とにかく休めということだけはわかった。これからという時間は、十分休める。それは、何か心が躍るようにも思えたが、何をやってもこの心の中にある、灰色に曇った雲のようなものが晴れることはない。会社を辞めてから一か月ほど寝たきりだったが、それで何が変わったかと言うと、何も変わっていない。


「どれくらい、休むべきでしょうか」

「治るまで、と言いたいけれど、生活もありますからね。働くにしても、半年は何もしないほうがいいと思います」


 ため息をつく。しばらくの沈黙があり、ふと女医のデスクの前に置かれてある小さなペンギンの人形が置かれていることに気がついた。どうやらどこかの水族館のお土産のようで、デフォルメされたペンギンの下には黒い台座があり、こちらから見えないが水族館の名前が刻まれているだろうと思った。


 水族館で働くためにはどうしたらいいのだろうか。水族館で働く人は、どういった経緯で就職したのだろう。また、このペンギンの人形を作っている会社は、一体どんな会社なのだろうか。そこで働く人は、ペンギンの人形を作ることに誇りを持っているのだろうか。


 そういえば、前に働いていた会社で、ロン毛の上司は編集の仕事に誇りを持っていると、自慢げに言っていた。誰もが見たらすぐに捨てるであろう、ショッピングモールのチラシの編集に、命を懸ける音楽好きの週末サーファー。ふっと鼻で笑ったことを、女医は見逃さない。「なにか?」と問われたが、すぐに「すみません」と言い切る前に、女医の話が再び始まった。


「薬を出します。ぼーっとしたり、眠くなることもあるかもしれませんが、欠かさず飲むように。くれぐれも、安静に。」


 身体が動かなくなって、どうしようもなくなった時、母に連絡をした。仕事を辞めたこと、身体が動かなくなったことを伝えると、すぐにアパートの前まで来てくれた。それから、病院の手配、アパートの解約手続き、その他のことも全て母親がやってくれた。まさか、30歳手前になろうとしている最中、あらゆることをやってもらわないといけなくとは思わなかった。実家に帰ってからも、何度も泣いた。自分の情けなさに、胸が痛んだ。


 家に帰ってから、療養生活が始まった。治療法は簡単、ただ休むこと。そして、好きな物に触れること。


 好きな物に触れること、と女医は言ったが、試合を見る気にはなかなかなれなかった。それでも、眠れない夜に試合を見ていると、気がついた時には眠りについていることがよく合った為、夜は試合をいくつか見た。海外のストリートファイトや、インディー団体の試合なども見るが、結局のところ、中学生の頃に見ていた試合ばかりに目がいった。


 夜は、いつも静かに時間が過ぎていく。


 春が過ぎて、外は雨が多くなった。梅雨。一番嫌いな時期。

 

 外は雨が降っているかもしれないと思いながら。布団の中で、薄手のタオルケットで身体を包み、スマートフォンを手にして総合格闘技の試合を見ていた。


 十五歳の頃、今の歳になるくらいには、すでにリングに上がっていると思っていた。自分の想像とかけ離れた自分、その存在が重く伸し掛かる。考えれば考えるほど、答えは遠のいていくような感覚。いつまでこの気持ちを抱えたまま、生きて行けばいいのか。


 まるでBGMのように流れたは終わる試合の数々。今見ている試合は、名前の知らない外国人同士の試合は凡戦で、一向に仕掛けない。つまらない試合だった。


 違う動画を見ようと、関連動画の欄をスクロールしているうちに、何か異様な動画が目に止まる。


 それは、他の動画と明らかに違うタイトルとサムネイルの動画だった。おそらく日付と思われる数字の羅列と、ローマ字で書かれたYokohamaという地名。サムネイルは地面とも、暗がりとも見える画像だった。普段ならそのままスクロールしてしまう所だが、見ている試合のつまらなさに、何の気もなくその動画を再生した。


 しばらくの間、ガサガサというノイズと、素早く揺れる画面が続く。そして、下画面がやっと映し出された時、そこには六角形の金網のリングがあった。格闘技だ。


 関係者が個人的にカメラで撮影したものらしい。レフリーと、金髪の赤いスパッツの男と、坊主頭の青いスパッツの男。3人だけがその金網の中にいた。レフリーが合図をすると、二人はすぐに距離を縮め、お互いに構えた。試合が始まった。


 赤いスパッツの男は、拳を低く構えて、小刻みに飛び跳ねるような動きを見せる。おそらく、伝統空手がバックボーンだろう。一方、青いスパッツの男は、拳は構えているものの、ゴングが鳴った時にさっと両手を上にあげてから構えていた。柔道、その動きに一瞬でバックボーンがわかった。青いスパッツの男の動きを見て、ふと、基道のことを思い出した。基道も、あんな風に構えていた。


 流し見するくらいの気持ちだったのに、その動画に釘付けになる。

 すぐさま組み合ったと思ったら、青いスパッツの男は相手の足を刈った。払い腰、やはり柔道だ。この試合、空手をバックボーンにしていると思われる赤いスパッツの男には不利に思えた。ファーストコンタクトで寝かされてしまっている。これは、すぐに試合が決まるかもしれない。


 サイドポジションを取り、上からコツコツと拳を振り下ろす。嫌がる赤スパッツが立ち上がろうとする所を、すかさず腕を取り、腕ひしぎ十字固めに移行する。


 決まるか、いや、決まらない。腕を取られたまま立ち上がり、逆にサイドポジションに入ろうとするが、それも青スパッツは逃さない。次は、足を取る。膝十字。鼻からこの試合で青スパッツは寝技で一本取るつもりのようだった。


 何かがこみ上げてくる。胸のあたり、ギュッと締め付けられるような感覚。


 基道なのか。この男はかつての友人、村城基道なのか。


 画質は荒く、ほとんど選手の顔は認識できない。けれど、彼は寝技が好きだった。相手が空手をバックボーンにしているというならば、寝技に持ち込んで勝ちにいこうとするのはおかしくない。だが、相手も寝技の対策はしっかりしているようで、膝十字もきまらず、相手に足を抜かされてしまった。立ち上がり、今度はお互いのパンチのラッシュが始まる。


 そのパンチがしばらく続くと、嫌がった赤スパッツがまたクリンチに出た。チャンスだ、また倒しに行ける。そう思った矢先、青スパッツはすぐさま足を掛けて倒した。けれども、技が決まらない。脇固め、腕がらみ、あと一歩と言う所で相手がその技を掻い潜ってくる。


 一見、青スパッツの方が有利に思えた試合だったが、その寝技の攻防が終わり、再び立ち上がったところで、状況は変わった。


 立ち上がってすぐ、今度は赤スパッツがタックルに出る、それをうまく切って、倒されまいとした時、赤いスパッツの男の放った左の突きが顔面を捉えた。


 軽い打撃に見えた。けれど、その一発で、あきらかに動きが変わった。後ろによろめく青スパッツ、すかさず首相撲に入ると、腹部にヒザ、そしてワンツーと放つ。


 決まった。何とか立とうと踏ん張るが、足がもたついてうまく立てないように見える。そして、後方に倒れたと思った矢先、赤スパッツは追撃に入る。寝技に入ろうと足を取っているが、ただ取っているだけだ。


 動きが明らかに悪くなった。その後は足を抜かれ、上から叩かれる。レフリーの止めるのが遅く思えた、もう止めるべきだ。


「もとみち!逃げろ!」


 画面の中、セコンドからの声が聞こえた。もとみち、基道だ、やはりこの男は、あの大晦日、一緒に試合を見に行ったかつての友人だ。


 叩かれ続ける基道、そして、彼は次第に動かなくなった。

 それを見て、レフリーは試合を止めた。遅すぎる、なんて無能なレフリーなんだと、スマホを持つ手が震えた。セコンドもセコンドだ、なぜタオルを投げない?あの状況で逃げても、何もならないではないか。憤りを感じながら、じっとの試合を見続ける。


 試合が終わり、勝利が確定したことに興奮してリング上を駆け回る赤スパッツ、駆け寄るセコンド、基道は再び立ち上がろうとしていたが、うまく立つことが出来ない。画面がまた、砂嵐のように揺らめき、そして動画が終わった。


 動画が終わって、音声が途切れた時、外から雨の音がするのが分かった。雨が降っている。6月の雨、じめじめとした湿った空気に降る雨。


 彼は、格闘家になっていた。まだ確定はしていないが、「もとみち」という名前は珍しい。風貌からも、体格は違えど、かつての彼を彷彿とさせる佇まいだった。


 スマートフォンを握る手が、べたついた。その手を布団で拭い、再び動画を再生し直す。勝てた試合だった。とても悔やまれる試合だった。その悔しさは、どこか懐かし痛みで、その痛みは胸をギュッと締め付ける。痛みに心地よさなどない。けれど、その懐かしい胸の苦しみは、中学生の頃に格闘技の試合を見た時の「なにか」に似ていた。好きな選手が負けてしまった、応援していた選手に声が届かなかった。あの時の、あの感覚。


 尊は布団から跳び起きた。そして、机に向かい、ノートパソコンを開く。ほとんど中には何も入っていないパソコンはすぐに立ち上がり、インターネットを開くのも簡単だった。


 検索バーに「村城基道 横浜 総合格闘技」と打ち込む。いくつかの検索結果が出て来た。横浜の総合格闘技のジムについてはいくつか出てくる、けれども、人名らしき物は見当たらない。


 そんな中、たった一ページだけ、その全てのワードに当てはまるサイトを見つける。そこには、関西で行われたマイナー総合格闘技イベントのレビュー記事だった。十年前のその記事、その第二試合の試合結果の所に、引の名前はあった。


▼第二試合 バンタム級MMAルール(61.0kg)マッチ 5分5R

〇山本十児(大阪)

TKO 1R 1分20秒

●村城基道(横浜)


 あまりにも早すぎる試合。その記事では試合結果だけが載せられて、あとのことはほとんど書かれていない。


 時計を見る。深夜2時。唐突すぎるかつての友人の存在を確認出来たことの喜びと、彼が格闘家になっていたことへの、嫉妬。そして、たった二つしかない彼の手がかりが語る、彼の敗北。複雑な気持ちが胸の中で交差し、パソコンを開いたまま、外に出た。いつもそう、心がざわめくと、身体を動かしたくなる。


 外は星や月の光が見えない、暗い夜だった。やはり、細かい雨が降っている。


 あてもなく歩く、この胸のざわめきはなんだ、この止めどない衝動は。


 ふと、我に返った時、鬱になって会社を辞めてから、こんなに何かに駆り立てられたことはなかったと思った。


 会いたい。会って何をするわけでもない。けれど、もう一度彼に。


 ポケットからスマートフォンを取り出す。雨は弱まったが、まだポツポツとスマートフォンの画面に雫が落ちる。それを袖で拭い、LINEのアプリを開いた。不思議なもので、LINEは知り合いかもしれない人物のアカウントが出てくる。


 おそらく連絡帳のアプリなどと連携して、アプリ内で検索してくれるのだが、このアプリが出来た当初は自分自身の生活を覗かれているような気がしてゾッとした。しかし、今日はその不気味さも好都合だった。


 一也に連絡を入れることが出来る。友達かもしれない、という欄には、いくつかの人名が羅列されており、その中にすぐに一也のアカウントを見つけることが出来た。トップ画には、女性と共にワイングラスを手にしている一也の顔が映っている。変わらないが、顔は老けた。


 連絡してどうする?彼に何を伝えればいい?引のことなど、もしかしたらもう忘れているかもしれない。もしかしたら、自分のことも。


 汗がじっとり肌を濡らす。雨と交じり、長そでのTシャツはぴったりと肌に吸い付いてくる。どうすればいい、どうしたらいい、この抑えられない衝動を。自分自身だけでは抑えることは出来ず、また歩き出しそうになる。しかし、その衝動を抑えることは、歩き回ることだけでは不可能だった。


 一也に連絡をしよう。スマホを持つ指は、一也のアカウントをフォローする為に動く、そして、通話のボタンにそっと触れた。一つ、二つとコール音がなる。普通の電話とは違う、独特なあのメロディー。そういえば、会社も大学も言っていない今、誰かに連絡をする必要がなかった。そう思うと、このスマートフォンは誰かと繋がるためでなく、ただ格闘技の試合を見るだけの代物と考えると、月々払っている料金がもったいない気もした。


 コールは続く、一向に出る気配はない。


 出るわけがない。そう思い、スマートフォンを耳から外し、通話を切った。

 雨は続いている。そろそろ戻ろう。家に帰って、また眠れない夜を過ごさなければならない。基道が格闘家になったとしても、それで何が変わるわけでもない。


 いや、もしかしたら、期待していたのかもしれない。あの頃、まだ内に情熱が沸き起こっていた頃の友人に会えたら、何かが変わるかもしれない。そんな淡い期待が、一也に連絡をさせた。


 家に着くと、しっとりと濡れたTシャツを脱いで、新しいものに着替える、頭はまだ濡れたままだったが、そのままベットにはいった。そして、再び基道の手がかりを探す。わかるのは、横浜という土地に根付いた総合格闘技のジムに所属していたことと、あの動画。尊は動画アプリを立ち上げて、基道の名前を検索バーに入れてみる。けれど、動画は出てこない。引の動いている姿を見れるのは、あの動画だけ。


 スマートフォンの上部から、通知が下りて来た。LINEからの通知、それは誰かから尊宛に連絡が来たことを表す。昼と夕方に来る、ニュース情報以外の連絡はない、だからこそ、その連絡が誰から来たものなのかすぐにわかった。


 一也からだった。文面には「どうしたの?」とだけ書かれている。何十年ぶりの、友人との連絡、自分のかつての夢を知る、基道以外の人物。返信する言葉が、出てこない。迷惑だろうか、嫌だろうか、スマートフォン越しの彼は、あの頃のように親しみを込めて話をしてくれるだろうか。


 鬱という病気の怖さがまた身に染みる。何をするのにも、怖さが付きまとう。けれど、基道という友人が、その怖さの壁を少しだけ低くしてくれたように思えた。何も出来なかった自分に、沸き起こった何か。


 雨の音を、聞いていた。そして、ゆっくりと文面を考えて、一也に返信をした。


「久しぶり、いきなりごめん。」


 その返信を送るまでに、とてつもない時間がかかった。気がつくと、外はうっすらと明るくなっていた。

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誇りの消えたそのあとも 暮石 引 @kureishi_in

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