2019年 春

 酒を飲むと、人を殴りたくなった。


 酒やおつまみをテーブルに運んでいるアルバイトの彼でもいい。注文が遅いと文句を言う真っ赤な顔をした中年の先輩社員でもいい。目の前でサーフィンと好きな音楽について熱弁する上司なら、なおさらいい。


 薄暗くて汚い居酒屋だった。飲み会と言えば、会社から一番近いここに決まっている。たばこの煙が充満している店内は、90年代に流行った歌が流れ、店員の威勢のいい声と、酔っ払いの笑い声でいっぱいだった。


「こいつはバカでさぁ。ここに転職するまでずっとフリーターだったの。それでも、今はそれなりに広告制作会社でやってんだから。君みたいな新卒だって大丈夫だ。」


 さっきまでサーフィンの話をしていた長髪の上司は、隣に座るリクルートスーツを着た若い女に言った。周りの社員にも聞こえるように、彼は大声で言った。隣の若い女は、常に笑顔でいる。そして、「そうなんですね!」と大げさななリアクションを取ってみせる。その態度に、この新卒の女も殴れたらどれだけ清々しいかと思った。頭の中であの笑顔に拳を放つことを想像する。殴られた時も、この女はへらへら笑っているのではと考えて、鼻で笑ってしまった。


「え、桜木君って前フリーターだったの?」


 小太りの女社員が言う。本当はフリーターではなく、職を転々としているだけで、アルバイトだった時はほんの少しだったが、それをこの場で言うことは、楽しい時間を台無しにしてしまうと思い、ぐっとこらえた。


 「今いくつだっけ?確かアラサーだったよね。」

 「見た目若いのに、案外いってるんだね。」


今まで個々に話していた面々が、急に一つになる。長髪の上司はやにやと笑っている。誰かをいじっている時、彼はとても嬉しそうだった。


 やることは新卒の女と変わらない。ニコニコと笑うこと。こういう時は、これに限る。適当に返事をし、適当にやり過ごす。


「でもこいつ凄いんだよ。ほら、お前、あれやってんだろ。言ってやれよ」

「あ、ええ、あ、飲み物何にします?」

「話そらすなよ、お前、学生の頃何やってたかみんなに言ってやれよ」


長髪の上司はご機嫌だ。他者をいじることによって、自分が笑いを提供できていると思っているようだった。そうすることが、笑いとなり、この場をよりよい場所に出来ると思っている。社員達を労う為、社員達の親睦をより深める為に。

頭をかきながら、へこへこと頭を下げて申し訳なさそうに言った。


「少林寺拳法です」


 テーブルを囲む人々が、どっと声を出して笑った。長髪の上司は手を叩いて大笑いだ。隣の新卒の女も、上品に口物を隠して笑っている。

ロン毛の上司と、隣に座った先輩社員の男が、ブルース・リーの真似をして、アチョアチョいいながらパンチをしてみたり、チョップをしてみたりする。周りは大いに笑っている。隣の先輩社員が頭に軽くチョップをしてみせると、再び大きな笑いが起こった。パワハラだと周りが囃し立てる。こいつはいいの、大丈夫だから、とおどけて見せた。


 笑顔を絶やさないまま、手にしたジョッキを口に持っていき、中に残っていたビールを一気に飲み干す。ジョッキをテーブルに戻す時、取り皿の端にぶつかってしまい、がしゃんと大きな音が鳴る。その音をかき消すほど、長髪の上司や周りの人達は笑っていた。


 居酒屋の入り口ががらりと空いて、会社に残って仕事をしていた数人が遅れて入って来た。乾杯し直すぞ!と長髪の上司が言う。後ろに置いたままだったタッチパネルのメニューを手にして、遅れて来た人の飲み物を頼む。乾杯では必ずビール。この会社のいくつもあるルールの一つ。


「よく見ておけよ。『そん』先輩が飲み会での作法ってのを今日は教えてくれるからな。今日は新人は楽しんで飲むこと。いいな。」


 たかしっすよ。と、小さな声で突っ込んでみたが、それに対しては笑っているのは長髪の上司の隣にいる新卒の女だけだった。上司の陰に隠れて、クスクス笑っている。


 再び、頭の中その女を殴ることを考えてみた。何度も何度も、無抵抗なこの女の顔目掛けて、拳を振り下ろす。血が流れる。顔が腫れ上がる。助けをこう声も次第になくなり、動かなくなる。レフリーはいない。想像の中では、いつだって私の都合のいいようになる。想像の中だけは。


 乾杯の掛け声と共に、グラスが合わさる。話はまた、それぞれ仕事の話などに変わっていく。長髪の上司は、再び隣の新卒の女と話をしている。波がどうたら、韻がどうたら、それを笑顔で聞き続ける新卒の女。


 何が、面白かったのだろう。


 少林寺拳法。名称から中国の武術と勘違いされることもあるが、れっきとした日本武道の一つ。その問いに、何故あの場で笑いが起こったのか。

 ジャッキー・チェンとブルース・リーの違いも分からない彼らは、どこに面白みを持ったのか。もうほとんど残っていないジョッキの中をじっと見ながら考えていた。ビールは好きだった。けど、飲み会は嫌いだ。飲み干してきたビールの味など、ほとんど覚えていない。今、この空間にいることを少しでも紛らわせてくれるなら、いくらでも飲んだ。

 どうでもいい、いや、どうでもよいと考えるしかない。それに、少林寺拳法はとっくの昔に辞めてしまった。道場にも足を運んでいない。そんな自分が、笑われるのは仕方ないと、無理やりにでも思った。


 店内に流れている知らない曲が終わり、次の曲になった。その曲は、尊の聞き覚えるある曲だった。その曲は、歌手の歌いだしが始まってすぐに、軽快なピアノの演奏が続く。まだ中学校だった頃、木村拓哉が出ているドラマの曲だった。

 ほんの少し残ったビールを飲み干す。誰だったっけ、この歌手は、クリスマスになるといつもこの人の曲が流れる。この人の歌、きちんと聞いたことがないけど、嫌いじゃない。この人は・・・。


「お、ヤマタツじゃん。いいね、君もヤマタツは聞きなよ。これ上司命令だから」


 長髪の上司は、隣の新卒の女の肩に手を回していった。あ、セクハラだと周りが囃し立てる。触ってない触ってないと、また一笑い。一瞬だけ、新卒の女の顔が引きつった。


 新入社員の歓迎会はお開きになり、店を出た。まだ店の前で話し込んでいる者や、二次会の場所をどこにするか話し合っているグループもいる。もちろん、二次会に参加するグループの中心にはあの長髪の上司がいた。


 ポケットからスマートフォンを耳にあてて店を出る。電話などしていない。しているふりだけでいい。そのまま裏路地に回り込み、あとは駅まで早足で帰るだけ。あの酔いようなら、誰も気がつくことはないだろう。裏路地に流れる川に沿って、桜の木が並んでいる。街灯に照らされた桜と、月に照らされながら揺れる水面は風情があったが、周囲はかなりどぶ臭い。夜風と共に漂ってくるその異臭に、眉をひそめた。有名なアイドルの事務所があり、多くの有名人が住むと噂され、駅前はおしゃれなカフェで溢れるこの界隈を象徴するようなこの川は、桜の木が綺麗に立ち並んで、道もしっかりと舗装されている。けれど、この臭いだけはどの川よりも酷い。


 駅の方まで歩いている最中、胃の中でむかむかしていた物が気持ち悪さに変わり始める。いじられる以外は、酒を煽るしかない。誰が頼んだのかわからないビールは、知らん顔して飲んでいた。それがいけなかったらしい。駅に着いた時には、我慢しきれず、障がい者用トイレに駆け込み、吐いた。


 嘔吐は疲れる。一回一回の掃き出しで、顔中に大粒の汗が噴き出る。もう出せないという所で、便器を抱えながら吐しゃ物をただじっと見ていた。


 頭の中は、ずっと同じことを考えていた。誰かを殴ること。いや、殴ることだけではない。


 蹴る。投げる。極める。折る。絞める。


 相手は誰でもよかった。嫌いな奴なら、誰でもいい。傷つけられるなら、性別も、年齢も、職業も、関係ない。

 荒い呼吸が落ち着いた頃、トイレを流し、口を漱ぎ、何事もなかったかのようにホームに出た。熱くなった身体に、5月の風は涼しく思えた。ゴールデンウイークに差し掛かる前に行われた新入社員歓迎会。そういえばなんでこんな遅くにやるのだろうかと、ぼんやりと思っていた。仕事が忙しいことが第一の原因だが、たった一人の新入社員の為に歓迎会を遅れながらも行うということは、きっと長髪の上司が相当あの女のことを気に入っているのだろうなと思う。

ホームから見た風景。あの会社に勤めてからもう1年が過ぎようとしていたが、何一つ変わっていなかった。1年という月日は長いようで、短い。何かが変化するには十分な時間だが、変化を望まない物に対しては何も与えない時間だった。


 借りていたアパートに着くと、シャワーを浴びて、ベットに横になった。まだ少し気持ちが悪い。


 暗い部屋、静かな空間、時々聞こえる車の音。

 ただ、ベットに横たわってみても、酒を飲んでいるというのに眠気は起こらなかった。


 スマートフォンを取り出して、Youtubeを立ち上げた。検索ワードに「総合格闘技」と入れて、いくつか並んだ動画達をじっくりと見た。そこには、数多くの試合や、KOシーンのみつなげ合わせた動画などがあった。どの動画もほとんど見てしまっているが、適当に一つの動画を選び、関連動画を辿っていく。すると、タイトルが全てアルファベットのまだ見ていない動画を見つけた。その試合には、かつて日本の総合格闘技のリングにもあがっていた有名選手が、無名の新人と対戦している物だった。

「ランペイジ、好きだったなぁ」

 軽快な音楽と共に入場して来る各選手。ベテランである有名選手は、十五歳の頃に聞いた、あの団体のテーマソングを入場曲にしていた。この試合だったか。一時期、日本のファン達の間で話題になっていた。と、いうことは、この試合の結果は判定で、ランペイジが負ける。

 試合が始まった。八角形のゲージの中で戦う両者。その姿を、真っ暗な室内で見ている自分の顔が、液晶の光で青白く照らされる。試合の内容は、ほとんど入ってこなかった。

 27歳。もうこんなに歳を取ってしまった。


 画面の中で試合をしている選手。少々老けたが、中学生の頃にテレビで見ていた時と、何ら変わっていない。実況解説は英語でわからない。けれど、解説なんてなくたって試合は楽しめる。ルールなんかも知らなくていい。相手を倒せばいい。単純明快。それが総合格闘技の長所だ。誰だって楽しむことが出来る。日本人の格闘技好きは力道山が生きていた頃よりも前から続いている。中学生の頃は、爆発的にその人気を博し、大晦日は豪華なマッチメイクに日本中が胸をときめかせた。その中の一人が、いまここにいる。大晦日の試合から、あの夢を誓いあってから、多くの時間は過ぎて行った。


 そういえば、あの大会の帰り道話したことを思い出した。それは、どの格闘技が一番強いかという、幼い問い。基道と一也は、交互に意見を言い合っていた。


「柔道と空手はどっちが強いんだ?」

「そりゃ寝技がある柔道だろ。空手は倒れてから何もできない。」

「実践なら、空手は強いよ、刃牙でもそう言ってた。」

「じゃあなんで空手出身の選手が成績残せないんだよ」

「だから、ルールがあるからだろ?」

「俺が格闘家になったら、空手家には負けないね。あー空手家とやりたいな。絶対負けない」


段々と落ちてくる瞼の裏に、かつての思い出を蘇らせていた。格闘技の話、強さについての話、そんなことをいつまでも話し合ったあの時は、本当にあったのすらも分からないほどの過去に思えた。


「どの格闘技でも、強い奴が勝つのさ」


 暗い部屋の中、つぶやくように言う。中学生の頃、様々な議論がされる中で、よく言っていた台詞だ。だから、少林寺拳法だって強くなれる。そう信じていた。けれど、信じきれなかった。だから、今はもう拳士ではない。


 ただの男、バカにされても言い返すことの出来ない、戦うことすら出来ない、ただの男。


 手にしたスマートフォンがするりと手から抜け落ちた。まだ試合は始まったばかりだったが、全てを見終わる前に、疲れ切った身体と、アルコールでほとんど機能していない脳みそは休みたがっていた。


「強い奴が勝つのさ」


 基道はどうしているだろう。あの夜以降、再び出会うことのなかった彼は、今何をしているだろう。同じ夢を持った彼は、夢を叶えられただろうか。格闘家になるという夢を。自分は、叶えられなかった。戦うことからも、目を背けた。


 気がつくと、夢の中だった。最近は、いつも同じ夢を見る。


 真っ白な道着を着た自分、場所はどこかの体育館で、大勢の人が見ている。目の前には、自分よりも背の低い、優男がいる。


 高校の時の記憶。少林寺拳法を辞めて、空手をやっていた頃の記憶。いつまでもぬぐい切れない、負の記憶。


 試合が始まった。すぐに、一発の正拳突きが胸を捉える。痛い、そして、そのあとは何故か、地面が目の前にせりあがってきた。それからは、白い世界。地面が刷り上がってきたわけではなく、自分が倒れたのだった。目の前の細い男が放った上段蹴りが頭に当たった。


 自分のうめき声で目が覚める。恐ろしい夢、見たくてもいつもやってくるつかの間の恐怖。けれど、一番怖いのは、夢から覚めた時。


 夢から覚めると、どうしようもなく暴れたくなった。


 かけてある布団を蹴り上げる、叫びたいのをこらえて、ベットの上でただ暴れる。しばらくの間そうしていると、荒い息のまま、ほほを伝う涙を感じた。



 それから、身体が動かなくなった。


 会社に向かうことも、冷静に何かを考えることも。うつ病と診断され、退職まではあっという間だった。遅かれ早かれこうなることは、わかっていた。

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