冬の鮫、参

 煙を上げて沈む船も、交戦する囚人たちも、砕け散る黒い波も、全ての光景が瞬く間に後ろへ流れていく。



 古川の前に立つ雄平の着物が風に煽られて激しくはためくのだけが変わらず瞳に映った。

 雄平が頭上に剣を構える。モウジャブネが喉奥を振るせた。

 猿叫と咆哮がぶつかり合い、音の波が全てを霞ませる。


 そして、船が暗闇に呑まれた。

 黒に包まれた視界が青に塗り替えられる。

 古川は目を見開いた。


 朝日が夜闇を払うように、モウジャブネの口蓋を突き刺し、引き切った刀が振り下ろされる。

 船は勢いを失わず直進し、両断された氷惨の死骸を突破した。


 青い断面を見せて両側から崩れ落ちるモウジャブネの肉の中で、赤い核が煌めく。

「殺ったのか……」

 古川が呟いた。

「応、やった」

 雄平が下ろした刀のひっ先が船板を叩く。頭部とともに斬り落とされた一本の触腕が彼と古川の間に落下して、船上で俎上の魚のように一度跳ねた 。


 歓声すら上がらない。

 蒸気を噴き上げて海に沈んでいく氷惨の断末魔と、荒れる海風が響く中、囚人たちは呆然と空を見上げていた。

 彼らの上に垂りのモウジャブネの血が降り注ぎ、青い天蓋のように空を染めた。



「殺った……氷惨を本当に倒したぞ……」

 古川の声に歓喜がにじむ。雄平は口元をわずかに吊り上げて首肯を返した。

 古川らを乗せた救命艇が少し離れた場所で停止する。

 振り返ると、囚人たちの船が集って海に放り出された仲間たちを引き上げていた。

 その内の一艘に乗る宜振と玄明が無言で頷く。


「補陀落船に戻りましょう」

 古川が緩やかに揺れる艇を抑えながら言った。

「とりあえずあそこの小島に着けて漕ぎ手が来るのを待ちませんか」

「島なんぞここにはなかぞ」

 雄平が眉をひそめる。

「ほら、そこに……」

 古川が指した先に小島が海面からわずかに頭を出し、負傷した船員たちが引潮を待っていた。

 雄平の目が鋭く細められる。

「あれは島ではなか」



 そのとき、突如海が巨大な白壁になってそそり立った。

 咆哮とともに海が割れる。波間の小島が山脈のように隆起し、囚人たちを振り落とした。


 島だと思われていたそれが海中から姿を現わす。闇を映して鈍く光る鎧のような外殻から膨大な水が流れ落ちる。

 島原の海岸で見た鉄の牛が天を貫く巨躯でそびえていた。

「栄光個体……」

 古川の唇が無意識に言葉を紡いだとき、巨大な氷惨が足を震わせた。


 轟音とともに一瞬で波が渦巻き、船が錐揉みされる。

 古川は船端を握りしめた。櫂も漕ぎ手もない救命艇は波に弄ばれるだけだった。仮にそのふたつがあったとしても、嘶くだけで船を横転させる魔物から逃れる術は浮かばない。


 嵐の渦中と化した海で吹雪と囚人たちの悲鳴が響く。

 凍刃を携えたまま立っていた雄平が倒れこんだ。

「雄平さん!」

 駆け寄った古川に極寒の波が襲いかかる。

 荒れ狂う水の幕の向こうに栄光個体の赤い目が爛々と光った。


「古川……」

 雄平が腕で上体を支えながら身を起こした。

「これから見ることを、誰にも言わんと誓えるか」

 古川に向けられた両の瞳は荒れる波と同じ色で淀んでいる。

「自信がないか」

 船がひしぎ、栄光個体が凍る海を裂いてゆっくりと旋回する。

「それなら、俺もお前もここで死ぬだけだ」

 氷と波の粒に頬を打ち付ける。

「誰にも言いません」

 古川は強張った表情で声を振り絞った。


 雄平は無言で立ち上がると、刀を置き、ふらつきながら船の真ん中で再び屈み込んだ。

 そして、単なる船の振動か、残った神経の痙攣か、まだわずかに脈動しているモウジャブネの触腕を拾い上げ、口を開けて噛みついた。


「何を、しているんですか!」

 思わず飛び退いた古川に構わず、雄平は氷惨の屍肉を食い千切り、餓鬼のように青い血を啜る。

 虚ろな目が瞬膜を貼り、白く変色していく。



 音の波が船を襲った。

 振り向いた古川の眼前に栄光個体が映った瞬間、雄平が卵白のような白い目を見開いた。


 雄平の羽織を鋭い剣に似た何かが突き破る。

 氷惨の攻撃ではない。

 彼の背から防寒着を裂いて突出した六本の触腕がうねり、歪な指を広げた。


 雄平が咆哮を上げる。

 それは示現流剣術の猿叫ではなく、島原の海に絶えず響き渡った氷惨の雄叫びそのものだった。

 モウジャブネの触腕に操られるように雄平が身を震わす。


 栄光個体が救命艇を狙って振り下ろした脚と六本の触手が衝突した。

 二体の化生が白波を巻き上げて組み合う。

 救命艇がひしぎ、沈み込んだ船内に海水が入り出す。


 雄平が再び吠えた。背中から生えた触腕が艇よりも巨大な脚を徐々に押し返していく。

 栄光個体が怒りとも驚愕とも取れない呻きを上げた。


 氷惨の前脚が宙に浮き、古川を乗せた小舟が反動でその影から脱した。

 着水した脚が大波を立て、潮流と合わさって救命艇が押し流される。



 蠢く触腕を背負った雄平が天を仰いだ。眼球を覆う白い膜がぐるりと周り、黒い瞳が現れる。

 雄平は虚空を見つめたまま膝をついた。その背から氷惨の腕が外れ、彼は船板に崩れ落ちた。

「雄平さん!」

 意識を失った雄平を抱きおこすと、背中を支える古川の手が生温かい液体で濡れる。開いた掌にべったりと張りついた血には青く輝く何かが混じっていた。


「雄平! 古川!」

 吹雪に掻き消されそうな声の方向を見ると、宜振と玄明を乗せた救命艇がこちらに近づいてくる。

 古川は片手を必死に振りながら、もう片方の手で雄平の肩を揺すった。


「ふたりとも、生きてるかい!」

 船を寄せた玄明が身を乗り出して叫ぶ。

「無事です。でも、雄平さんが危ないかもしれない」

 昏睡する彼の鼻と唇から青い血が流れているのに気づき、古川は気取られないように着物の袖でそれを拭った。

「こいつはどうした」

 船に飛び移った宜振が雄平の腕を肩に回しながら言った。

「栄光個体に襲われて……彼が凌いでくれましたが、逃げるとき頭と背中を強く打たれました……」

 古川は目を逸らさないよう努めながら慎重に答える。


 宜振はしばらくの間無言で彼を見下ろした。

 空を覆う闇に橙色の薄明かりが広がり、降りしきる雪の粉を光でなぞる。

 弱々しい蒸気を立てながら補陀落船が近づいていた。


 宜振は船を見やり、「まあいい」と呟いた。

「こいつの悪運は頭叩かれたくらいじゃ尽きねえだろ」

 彼は雄平を抱え上げ、船乗りたちの待つ艇に乗り込んだ。


 玄明はその背をじっと見つめてから、横顔を染め上げる船灯りに目を伏せた。

「栄光個体やその他の諸々も後回しだ。今は一体倒したことを素直に喜ぼう」

 女のような黒髪が風に揺れる。


 古川は掌に残った青い血が乾き始め、指を握るように質量を帯びるのを振り払い、細く長い溜息をついた。


 しずりのモウジャブネが流した血はすでに藍色の波に溶け込み、その痕跡すらも残らなかった。

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氷牢の鑪≪タタラ≫ 木古おうみ @kipplemaker

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