冬の鮫、弐

 櫂を握る久保が震える声で呟いた。

「どうする、もう火薬がねえぞ……」

「撤退するしかない。今のままじゃ氷惨を倒す術が……」

 玄明が苦渋に満ちた声で言った。



 再び開始された砲撃で、海は再び揺れ始めた。

 怒りで我を失ったモウジャブネの猛攻に次々と救命艇がひしがれる。

 身体の半分を失った氷惨の攻撃は威力も削がれているはずだが、統率を失った囚人たちはなす術なく押され、水底に引きずりこまれていった。


 計画が失敗した。もはや勝機はない。絶望が霧とともに海上に満ち、全てを霞ませていく。



「何か、何か手はないのか……」

 玄明が氷惨の攻撃を防ぐ横で立ち尽くしていた古川の脳裏に、父の姿が過ぎる。


 江戸で見た痩せ細った姿ではない。

 まだ自分の足でしっかりと立っていた父は、凍刃の素材として庭先に運ばれてきた氷惨が切り刻まれるのを、庭の土が血潮で汚れるのも構わず満足げに眺めていた。

 いいか、友弥。氷惨の皮は硬い。だが、大概の生き物と同じで口の中はそうじゃない。こうして、口に入れた刀で内から切り崩していくんだ。


「そうか」

 古川は叫んだ。

「氷惨は中からの攻撃に弱い! 海上に突き出した頭を抑えて口の中から切り刻めば勝算があります」

「氷惨の口に突っ込めって?」

 玄明が裏返った声を上げる。

「薩摩示現流剣術は鉄も断てるといいます。雄平さんなら––––」


 烟る海に視線をやると、雄平が氷惨の腕と切り結んでいた。

「雄平さん、モウジャブネに近づいて中から斬ってください!」

 補陀落ふだらく船から発射された砲弾が海に飛び込み、飛沫と轟音が声を搔き消す。雄平は古川に視線をやることもなく、触腕を凌ぐことで手一杯だった。



「近づいて伝えるか!? 氷惨に捕まらなきゃの話だが」

 久保の声に首を振り、古川は救命艇の木枠を掴んだ。

 すぐ近くに別の囚人の船が波に揺れて傾いている。


 古川は揺れる艇の床板を蹴った。

「何してるんだ、古川!」

 玄明の声を背に、海上に飛び出した古川の脚を、凍える波が亡者の腕のように捉えようとする。

 暗い海に落ちる寸前、古川は身を捻って、囚人たちが銃を撃ち続ける救命艇に飛び込んだ。


「何だ、お前!?」

 身を起こす腕が震える。目を丸くした囚人の腕に縋って古川は言った。

「氷惨はいい。雄平さんのいる船に近づいてください!」

「気でも狂ったか!」

 囚人に振り払われ、古川は床板に叩きつけられる。頭を振って、再び船を乗り越えようと脚をかけたとき、救命艇が大きく揺れた。



 海に投げ出された古川の脚を誰かが掴み、強い力で艇に引き上げる。逆さになった視界に、唇を歪めて笑う男の姿があった。

「信じらんねえな。壇ノ浦の八艘跳びか?」

「宜振さん……」

 艇に降ろした古川の乱れた襟を叩いて直しながら、宜振が凍刃を握る。氷惨の腕を払って、交わすと古川に向き直った。


「で、何してんだ。逃げてきたわけじゃなさそうだな?」

「雄平さんのところに行きたいんです。行って知らせないと。やれるかもしれない」

 宜振は少々押し黙ると、氷惨の血で濡れた腕で櫂を握る囚人の肩を叩いた。

「聞いたか! あの薩摩人のとこまで運んでほしいとよ。氷惨と戦うよりマシだろ」


 艇が旋回し、荒れる海に漕ぎ出す。

 モウジャブネの触腕が闇を切り刻むように振り回され、すぐ真横を掠めて、古川は身を竦めた。

 氷惨の腕が海面を叩くたび、吹き出した血が蒸気を上げる。



 血と霞の中で、囚人ふたりの死体が横たわる船でひとり剣を振るう雄平の姿があった。

「新兵衛、届けモンじゃあ!」

 船の先端が擦り合いそうなほど近づいたとき、宜振が古川の背中を押す。

 身体が宙に浮き、弧を描いて飛ぶ飛沫の下をすり抜けて、古川は雄平のいる艇に転がり込んだ。


ないな?」

 血糊で頬をまだらに染めた雄平が目を見開いた。

 喘ぐような呼吸を繰り返して、古川は言った。

「雄平さん、あなたの力が必要なんです。垂りのモウジャブネの口内に飛び込めば、頭の核まで斬りつけられるかもしれない。雪鉱石を採掘するときのやり方だ」

 雄平は無言で古川を見つめた。身体についた氷惨の血がすでに赤い霜に変わりつつある。

「……脚がなかぞ」

 雄平の背後に囚人たちの亡骸が重なっていた。

「自分が漕ぎます」



 救命艇が荒れる海にそっと脚を浸すように、静かに動き出した。櫂は波の重さに阻まれて鋼のように重い。

「遅い、氷惨に辿り着く前に沈められるぞ」

「わかってます! あともう少しで……」

 古川の言葉を遮るように眼前に巨大な水の壁が立ちはだかった。氷惨の触腕が水面を叩き、飛沫で視界が霞む。


 雄平が顔をしかめて凍刃に手をかけたとき、一艘の船が押し寄せる波から古川たちを庇うように飛び出した。

「そんな腕じゃ夜が明けちまうぞ!」

「久保さん!」


 首から札を下げた船乗りたちが古川たちの船に飛び乗った。雪焼けした肌が返り血で更に赤く染まって見える。

「玄明さんは?」

「あっちでモウジャブネの脚を抑えておくって別の船に乗った。きっちりとどめを刺してこいだと」


 古川の唇から白い息を笑みが漏れた。

 囚人たちの腕が櫂を繰り、氷の粒と水飛沫が飛ぶ。

 波間から現れた刀のひっ先のような氷惨の頭部が現れた瞬間、船が大きく振動した。


 怒りに荒れる触腕が水面を叩き、行く手を阻む。

 鞭のようにしなる腕が海を掻くたびに、船乗りたちの繰る櫂を奪った。

「せからしか……」

 呻いて刀に手をかけた雄平を制するように氷惨の手が船板を掠める。

「あともう少しなのに……」

 古川が唇を噛み締めた瞬間、囚人たちが視線を交わし、一斉に氷海に飛び込んだ。


 船乗りたちの赤銅色の肌が一瞬で青白く染まる。

「何してるんですか、凍死しますよ!」

 久保が震えを打ち消すように強く首を振った。

「ここで凌がなきゃ全員くたばる! 俺らが押すからこのまま突っ込め」

 唖然とする古川を横目に雄平が口元を歪めて笑った。

「よかにせどもじゃ。命には命で答えねば」

 白く関節の浮いた指が凍刃を握る。


 男たちの押す船が薄氷を切り裂いて進む。

 触腕が唸り、船に取り付く囚人たちをひとりまたひとりと血煙に変え、沈めていった。

「あと少し、あと少しなんだ……」

 古川は神も仏も思い浮かべずに祈った。


 モウジャブネの頭が海面から再び隆起する。

「今だ、船を押して離れろ!」

 雄平の怒声が響き渡る。


 囚人たちの手を離れた船は真空を飛ぶ矢のように放たれた。

 古川の眼前に、地獄の入り口のように開いた氷惨の口蓋と喉が迫っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る