冬の鮫、壱

 船底に隠してある避難用の救命艇を全て出せ。

 白く霞む甲板の上で、雄平はそう言った。



 対する役人と囚人たちは疑念を込めて彼を睨んでいたが、吹き荒ぶ寒波に身を震わせているせいで、萎縮しているようにも見えた。


「世界政府から買い下げた船だ。欧州の船は鉄の筏を必ず積んである。違うか」

「何処ぞの海で巨人の名の船が沈み、輸送中の金持ちたちが大勢死んだ。それから、世界政府は乗客分の救命艇は必ず載せるよう義務づけられているね」

 役人に代わって、玄明はるあきらが引き継ぐ。

 古川は寒さに震える身体を押さえつけながらそれを見ていた。


「それを使ってどうなる。脱走は死罪に当たる。第一、この氷海は筏で渡れるようなものではないぞ」

 白い顔をした役人が低い声で言った。

「逃げん、氷惨を討つ」

 囚人たちのざわめきと、船底に当たって砕ける波の音が混ざる。


「氷惨がどうやってひとを見つけ、襲うのかはわからん。だが、モウジャブネは昨日の夜明け、この船を襲い、日が差す頃帰っていった。島原に着いて船が減速したのもそのときだ」

 雄平は甲板に置かれたカンテラを取り上げて、歩み出す。

「光、熱、動き……そのどれかで人間を見つけて襲撃しているということでしょうか」

 古川の声に雄平が首肯を返す。

「もしくはそれの全部か、だ」

「だいたいの生きモンはそうやって狩りをしてるしな」

 宜振よしふるが呟いた。


「それで、筏でどうするってんだ……」

 囚人の掠れた声が響く。雄平は船の端で歩みを止め、黒く波打つ海にカンテラの明かりを映して言った。

「筏を海に並べ、それぞれで火を焚き、氷惨を誘き寄せる。大砲は効かん。だから、真ん中に火薬を置き、真下の角から爆破する」

「待ってください。それでは、核が潰れます。凍刃の素材を獲ることができません」

 思わず声を上げた古川を見て、雄平は口元だけ歪めるような笑みを浮かべた。

「おいらが獲るのはあのフカとイカの合いの子ではなかぞ。栄光個体じゃろうが」


 役人が沈鬱に首を振る。

「お前たちは死罪を免除されに来た。ここで死罪を受けるためではない、そうだろう。いざというとき逃げる船がなければどうする」

「どのみちあんな筏じゃ江戸まで逃げられっこねえよ」

 自嘲するような宜振の言葉を遮るように雄平が言った。

「あと五日で世界政府が来る」

 玄明が息を呑んだ。囚人たちからも驚きの声が上がる。


「氷惨を殺し、死体を取りに来た世界政府の船に乗り、俺たちは江戸に戻る。そういう約束だな」

 玄明と役人が目配せを交わし、曖昧に目を逸らした。否定がないことが何よりの証左だった。


「五日持ち堪えれば本当に迎えが来るってのか」

 囚人のひとりが前に進み出た。雪焼けした肌と太い腕が、防寒用の着物の下から迫り出した男だった。

「持ち堪えるだけではどうにもならん。氷惨の死体がなければ船には乗れん」

 男が震えを打ち消すように何度も頷いた。

「わかった……俺は乗るぜ。どのみち何もなしで江戸に帰ったらまた罪人に戻るだけだ。手前ぇらもそうだろ!」

 男の声に背後の囚人が湧き上がる。皆、男と同じ赤銅色の肌をした者たちだった。振り上げた固そうな腕に、彼らは漁師だったのだろうと古川は思う。


 役人のひとりが喧騒を見つめてから、深く息をついて言った。

「船内から救命艇を運び出せ。火薬の準備をする者と、筏を配置する者に分れろ」



 冷え切った船上に、熱気が薄く立ち込めていた。

「世界政府との盟約は仕事が終わってからだっていうのに……今バラすのは反則だよ」

 雄平の背に向かって、玄明が咎めた。

「順序が逆になっただけだ」

「金を払ってから商品を持ってくのは買い物だけど、支払いの前に持ち出したら詐欺か強盗だ」

 雄平は振り返り、少し黙ってから事も無げに言った。

「後払いじゃ」

 玄明は「言うだけ無駄か」と肩を竦めると囚人たちの群れに入っていった。



 ***


 島原の黒い海に穴が空き、赤い血潮が滲み出したように、各々の救命艇が掲げる灯りが水面に反射する。


「要はイカ釣り漁か」

 宜振は歯を見せて笑い、漕ぎ手が待つ艇に乗り込んだ。



 外輪蒸気船の補陀落船で沖まで進み、十二艘の救命艇を円を描くように配置する。

 それぞれに漕ぎ手が一名と、銃を携えた交戦用の囚人が二名乗り込み、モウジャブネを誘導する。

 救命艇の方陣の中央に火薬だけを積んだ筏があり、打ち込んだ閃光弾で火薬を引火させ、誘い込んだモウジャブネを爆破する。

 凍刃を持った雄平、宜振、玄明がその死体にとどめを刺す。

 それが作戦だった。



 閃光弾を打ち込む役目になった古川は、玄明とともに艇に乗り込んだ。

 漕ぎ手は最初に作戦に同意を示した、屈強な男だった。

 久保と名乗ったその男は、古川の予想通り漁師だった。

「後は、垂りのモウジャブネの核が、本当に触腕の根元にあればいいのですが……」

 古川が独りごとのように呟くと、後ろで凍刃を鞘から抜き差ししていた玄明が答える。

「氷惨の研究はまだどこでも進んでいないからねぇ……まぁ、イカの頭は脚の付け根にあるものさ」



 苦笑した古川を見て、櫂も握った久保がかぶりを振るう。

「刀匠さん。自分はまともだって面してるが、あんたも大概だぜ」

 古川は小さく目を見開いた。

「あの薩摩訛りの話を聞いて、みんな上手くいくか自分は死なねえか、そればっかり考えてた。なのに、あんたは氷惨が吹っ飛んだら鉱石が採れない? この船で氷惨を倒した後ことなんか考えてたのはあんただけだ」

 久保は櫂を離して冷えた手を擦り合わせた。



 何か返そうと口を開きかけたとき、天鵞絨を広げたような黒い水面に映る、赤い光が歪んで砕けた。

「氷惨、襲来! 氷惨、襲来! 臨戦体制に移れ!」


 補陀落船から役人の割れるような怒声が響く。


 次いで、大砲の音が鳴り響いたのと、海面を割って現れた巨大な触腕が風を切ったのはほぼ同時だった。



 海にかかる霧を切り刻むように荒れ狂う触腕が、水飛沫を上げる。


 櫂を握ったまま、硬直した男の目の前に、蔓のような氷惨の腕が迫った。

「久保さん、伏せてください!」

 古川は弾を装填し、肩に銃底を押し当てて、引き金を引いた。慌てて伏せた男の真上を白い影が掠める。

 絶えず響く砲撃の音にかき消され、弾が発射されたかすらもわからない。

 もう一発、とかじかむ手で銃を搔き抱いたとき、肉と鋼のぶつかり合う激しい音がした。


 抜刀した玄明が、真後ろから押し寄せた触手を振り返りもせず薙ぎ払う。

「船を進めろ!」

 玄明の声に弾かれて、久保が艇の上を這って櫂に縋った。



 海上はすでに混戦になっている。

 吹雪と砲撃の煙が混ざり合い、夜空と海の黒の間を不穏な白が、怒号と悲鳴を染み込ませながら広がっていた。


「逃げるな! 中央まで誘導するんだ! 方陣が崩れて逃げられたら無駄骨だぞ!」

 娘のような顔を強張らせ、太い声で怒鳴る玄明は、真上から叩き降ろされた氷惨の腕を凍刃で受け止めて押し返す。

「中央つったって、この分じゃあどこが沖かも何も見えねえよぉ!」


 叫んだ久保の肩越しに、別の船に乗った雄平が触手の先を切り落とすのが見える。

 その近くで、船の先端に立った宜振が海に転落しかけた囚人の片腕を掴みながら、氷惨の襲撃を凌いでいた。


「見えた! 久保さん、二時の方向に進んでください!」

 出遅れた船に絡みつこうとするモウジャブネに狙いを定めながら、古川が声を上げる。

 発射と同時に艇が旋回し、古川は銃を抱えたまま後ろに転んだ。


 触腕と氷の刃のような波を躱しながら、船が進んでいく。

 霧の中でそれぞれの救命艇が灯した光が、妖魔の目のように赤く尾を引いた。


「刀匠さん、まだかよ! あんまり近づくと発破のとき巻き込まれるぞ!」

 久保の背後で閃光弾を込めながら、古川は震える喉で息を吐く。

「もう少しです、もう少し近づかないと届かない」


 刀身のひっ先に似たモウジャブネの頭が、黒い波の間から覗いていた。その後ろに、溺れかけているように激しく揺れる無人の救命艇が詰んだ火薬の山が冷たくそびえていた。


 古川が小さく息を呑んだとき、玄明の手が肩を掴んだ。

「ここからなら撃てるだろう。久保、船を停めてくれ」

「馬鹿言え、格好の的だ!」

「僕がいる。ひと斬り彦斎が」

 海を反射して雫のように揺れる玄明の瞳が、鋭く細められた。古川は答える代わりに閃光弾を詰めた小銃を構える。


 頭上に影が落ち、巨大な槌が振り下ろされるような風音が鳴る。

 玄明は屈み込むように腰を落とすと、不安定な艇の上を一気に駆け抜け、刀を振り上げた。


 空中に氷惨の腕が舞い、熱い血潮が時雨のように降り注ぐ。

 古川は引き金を引いた。


 しゅる、と帯紐を解くような音とともに光の軌道が海上を走る。

 砲撃も悲鳴も搔き消す轟音が響き渡り、火薬の山が爆ぜた。


 霧を赤く染めた火炎が、囚人たちの驚異の表情を照らし出す。

 垂りのモウジャブネの身体が砕け散った。


 周囲が再び闇に包まれ、氷惨が散らした血が海面にぶつかり、花火を水で消すような音と湯気を立てる。


「やったのか……」

 呆然と久保が呟いた。

「あぁ、やったみたいだ」

 玄明がわずかに紅潮した顔で頷いた。


 静かな海上に安堵の声が漏れ出す。

「殺ったぞ、見たか。あのイカ野郎––––」

 歓声を上げた囚人の乗った船が、小枝のように真っ二つに折れる。

 悲鳴が上がる暇もなく、艇の真ん中を抉り抜いた触手が、囚人ごと氷海に救命艇を引きずり込んだ。


 咆哮が空を震わす。

 腕二本を残したモウジャブネが、白い蒸気を立ち上らせながら怒りの雄叫びを上げた。

 海が荒れ狂う。


 悶えるように海の上でのたうつ氷惨の鼻面が赤く輝いていた。

「雪鉱石……」

 古川の指から小銃が滑り落ちた。

「モウジャブネの核は脚じゃない……頭にあったんだ……」

 島原の海は再び、砲撃と悲鳴の響きに包まれた。

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