“ひと斬り彦斎”

 引き潮と共に、垂りのモウジャブネが退いていく。


 それと同時に、海岸に散らばった囚人たちの遺骸が波に飲み込まれていった。

 血が絡んだ砂が既に凍りつき始めた浜辺で、古川は呆然と立ち尽くしていた。



 霞の中から駆けてきた雄平と宜振が、凍刃を携えた男の姿を見て足を止める。

「河上彦斎……」

「ここじゃ玄明はるあきらと呼ばれているよ。しかし、土佐勤王党の剣士がふたりとは、役者を揃えたものだね」

 玄明は肩をすくめる。


 一瞬、雄平は鋭い視線を彼に向けたが、すぐに目を逸らした。宜振がかぶりを振るって、前に進むと、古川に抜き身の凍刃を突き出した。

「まぁ、いいや。今さら鬼が出ようが蛇が出ようが驚かねえさ。それより、こいつの斬れ味が落ちてるんだが……直せるか?」

「砥ぎます。道具は一式持ってきました」

 古川は両手で刀を受け取り、血脂で鈍い光を放つ刀身を袖で拭った。

「じゃあ、一旦休憩と行こうか」

 玄明が≪ライキリ≫を鞘に収めると、四人は船に向かって歩き出した。



 船内は傷を負った囚人たちのひといきれで、不穏な熱に満ちていた。

 怪我人の呻きと治療に当たるものたちの怒号から少し離れた場所に座った古川は江戸から持参した道具箱を開け、乾いた海綿のような白い石と、歪な赤の砥石を取り出す。


 古川の斜向かいで煙管を吹かしながら、胡座をかいた宜振が口を開いた。

「で……玄明、何だってこんな戦場くんだりまで出てきてんだよ。お前はもっと器用に生き残ってたと思ったんだけどなぁ」

 雄平が煙とともに吐き捨てるように言った。

「先の戦も獄舎で過ごして参加してない。脱藩もしてない……だが、敵を作りすぎた。京の奴らは皆、『お前がいる限り枕を高くして眠れない』と言っていた。大方、厄介払いされたんだろう。違うか?」


 玄明は意にも介さず笑ってみせた。

「半分は合っているね。もう半分は違うよ。確かに日本で僕をやっかむ連中は多い。だから、国以外にも伝手を持つことにしたのさ」

 沈黙の中で煙管の炎が燻る音と、古川が水に浸した白い石から滴る雫の音だけが響く。


 玄明は煙草盆を引き寄せた。

「ちょっと火を拝借……僕は形式上囚人としてこの船に乗っているけれど、懲役でやっているわけじゃない。れっきとした仕事さ。僕は世界政府の雇われ人でもあるんだよ」

 宜振が息を呑む。

「別に、目的は君たちと一緒さ。試験運用みたいなものでね。この航海で氷惨を討伐したら、世界政府の端くれくらいにはなれる」


 雄平が煙管を叩きつけるように置いた。

「女々は顔だけにせえよ、河上……あんだけ鎖国を説きよったわいが、南蛮どもに身を売りよっとか」

「時代が違うよ、ひと斬り新兵衛。昔の日本にはまだ命を賭ける価値もあったが、今は違う。沈没船だ。侍と同じで滅びる運命なんだ」


「で? 沈んでくボロ船は置いといて、お前は豪華客船に乗り込もうってか?」

 腰を浮かせた宜振を諌めるような視線を向けて、玄明は首を振った。

「日本を守る意思を捨てたわけじゃない。僕らの志を忘れたのかい? 腐った幕府を倒すことだろう。世界政府が力を持てば、未だ蔓延る死に損ないの幕府にとどめを刺すこともできる。他国と戦いたいならまず同じ土俵に上がってからさ。使えるものは何でも使わなきゃ今は生き残れないからね」


 玄明は煙管の先で古川を指した。

「それより、彼と協力するってことは、昔のしがらみなんぞとうに折り合いをつけたものだと思っていたけれど……違うのかい?」

「自分、ですか?」

「古川といえば、順当に行けば新撰組に刀を卸すはずだった刀匠だろう? 鬼の副長、土方歳三にさ」

 ふたりのひと斬りの視線が古川に注がれた。

 緊張が鋼の硬度を持って突き刺さる。古川は石を手放して、両手の拳を膝の上で握りしめた。

「新撰組はもうありません。土方副長は五稜郭防衛戦で氷惨に討たれて死んだ。自分はただの……凍刃職人です」


「そうかよ……」

 宜振がそう呟いて立ち上がると、無言で船の奥へ歩み去った。雄平はその背と古川を見比べると、煙がたなびく煙管を携えて、宜振の後を追った。


 古川は手の平の汗をぬぐい、再び石を手に取る。

 水を吸って動物の肝のような軟らかさを持った白い石が、刀についた血膿を吸って桜色に染まった。

「ごめんよ、とっくに知っているかと思ったんだ」

 古川は答えなかった。玄明が煙草盆の隅で煙管を叩く。

「君は……いいのかい? 今まで新撰組の敵だった彼らとともに乗船して」

「刀匠は、刀を打つのが仕事ですから」

 玄明は少女のような顔で微笑んだ。


「君には時代に左右されない芯があるんだね。そういう奴は折れない。少し羨ましいかな。僕はもう折れたようなものだからね。奴らは……どうかな」

 玄明はそう言って立つと、雄平たちの向かった方へ消えていった。



 ひとり残された古川は輝きを取り戻した凍刃を握りしめた。

 刃に反射する自分の顔は、血とあかぎれで赤く汚れている。頬の汚れを拭った手の甲を見つめると、赤い吹雪の中で立つ、かつての英雄の姿が浮かんだ。

 首切り人の家系に生まれながら、侍として生きるムラマサが。

 ひとときも忘れたことはないはずだったが、どこか幼い響きのある声が、霧がかかったように霞んで思い出しにくくなっていた。


 刀身に映る顔がふたつに増えて、古川は振り返った。

「そん砥石はないな?」

 古川の手元を覗き込んだ雄平が呟く。

「これは赤吹雪から取れた鉱物です。白い方は氷惨の臓物を乾燥させたもので、これを梵天代わりに汚れを取ってから研ぐんです」

「そうか」


 雄平は古川の真後ろに座り、何も言わずに手入れを眺めていた。

 父が健在の頃、庭先によく訪れていた野良猫が、食卓から魚を盗んで叱られた後、父の後ろにまんじりともせず座っていたのを思い出す。

「手入れにも氷惨を使うのか」

 雄平が独りごとのように言った。

「もっと採る必要があるな」


「手入れが終わりました」

 古川が刀を置くと、雄平がそれを手に取った。

「良か腕じゃ」

「父に比べたらまだまだです」

「おはんの父は知らん、おはんの話じゃ」

 雄平は凍刃を返すと、船外へ続く梯子を顎で指した。

「終わったのなら、渡しに行かねば」


 甲板には昨夜の惨劇の爪痕が残っていた。

 湾曲した手すりや抉れてささくれ立った床板には、血の混じった霜が針のように尖っている。


 冷えた風に吹かれながら、宜振は暗い海を眺めていた。古川は歩み寄って、鞘に収めた刀を差し出す。

「凍刃の手入れが終わりました。貴方が持つべきです」

 宜振は曖昧に頷くと言葉を探すように俯いた。雄平がその背中を強く小突く。

「わいにあるのは剣だけじゃ。そいだけ考えとったらよか」

 宜振が溜息をついた。

「はいはい、わかったよ……馬鹿が悩んでもしょうがねえや」

 刀を受け取った宜振を眺めて、玄明が苦笑する。

「雄平、君は本当に言葉が足りないね」

 雄平が無表情に首を傾げた。


「まあ、いいさ。話し損ねていた本題に入ろうか」

 向き直った玄明の黒髪を、赤い吹雪の絡んだ風が煽る。

「単刀直入に言おう。この補陀落船隊は世界政府が目をつけている。だから、僕も参加しているんだ。見極めの期間は、五日間」

 玄明が手の平を広げて突きつけた。

「五日で世界政府の船が島原を訪れる。目的は貨物の運搬だ。この意味がわかるかい?」


 古川が逡巡してから言った。

「五日以内に氷惨を討伐し、鉱石を回収すれば、世界政府に認められ、囚人たちは枷を解かれるかもしれない。ただ、鉱石を採掘できなかった場合は、運搬する荷物が存在しないから、船には乗れない。そういうことですか」

「理解が早いね」

 玄明は鷹揚に頷いた。宜振が表情を曇らせて眉をひそめる。

「五日かよ……」

「そうじゃなきゃ、僕たちは死出の船旅のまま終わりさ」


「そんなことが本題か」

 雄平が表情を変えずに腕を組んだ。

「そんなことって、お前なぁ……」

「いいか。迎えの船が来る。ということは、今乗ってきたこの船は捨ててもいい。そうじゃろうが」

 玄明が面白がるように片方の眉を吊り上げた。

「モウジャブネを討てるかもしれんぞ」


 船底からは囚人たちの呻き声が這い上がっていた。

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