雪起こし

 雪に覆われた島原の地を囚人たちの足跡が抉り、黒い土が白髪を掻き分けたときに見える地肌のように覗いた。



 古川はそれに江戸に置いてきた父の姿を幻視した。

 最近は目に見えるほど老いて、槌を振るう腕も細くなった。

 後継である己を死地に送ることに反対しなかったのは、自分ではもう凍刃を打てないとどこかで気づいていたからだろう。


 それに、父の嚥下が上手くいかなくなったのは、歳のせいだけではない。噎せ返ったとき、ちゃぶ台の上に散った寒梅のような赤は、雪牙病の兆候だった。


 父はもう長くないのかもしれない。

 島原への航海で幾多の囚人が殺されるのを見て、自分の中で死が輪郭を帯びてきたのか、よりそう思うようになった。



 古川の溜息に、静かな吐息が重なった。

 顔を上げると、雄平が腰に帯びた凍刃に手を添えて、煙管をふかしていた。



 雄平は視線に気づくと、一瞬目を伏せてから、煙管の吸い口を古川に向けた。

「吸うか?」

「いえ、結構です」

 古川が固辞すると、雄平は無言で煙を吐き出した。



 俯いた横顔の口下手な青年のような雰囲気に面食らう。

 船上で剣を振るっていたときの苛烈さとは似ても似つかない。

 彼が要人の暗殺を何度も遂行できたのは、皆この姿に油断させられたからかと思うと、わずかに感じた親しみが搔き消えるような気がした。



「あの異人は……妖のようだったな」

 雄平は独り言のように呟いた。

「隙はあるが、間合いに妙な空気がある。斬っても夜霧を斬ったような感覚だけ残りそうだと思った。あんなのは初めてだ」


 古川の脳裏に、先ほど見たネモ・ピルグリムの言葉が浮かぶ。

「凍霊と言うそうですね。雪牙病を克服して特殊な能力を身につけた者だと聞いたことがあります」


「ああいう手合いが席巻するなら、侍の時代は終わりか……いや、まだ終わっとらんと思ってたのは俺だけか」

 俯いたままの雄平の瞳が陰ったような気がした。


「凍霊になった侍もいます」

 雄平がわずかに視線を上げた。

「先ほどの彼女と同じノーチラスの乗組員、センシ=ムラマサ一等氷尉は日本出身の剣士ですよ」


 返ってきたのは嘲りに似た笑いだった。

「世界政府のえのころが侍か」

 古川の腹の底に熱い何かが凝る。

「センシ=ムラマサは侍です。世界を救うために剣を取って、ひとびとを救っています」

 貴方とは違って、と言いかけて呑み込んだ。


 雄平は嘲笑を打ち消して、真意の読めない無表情に戻った。


「随分入れ込んでるんだな。昔の岡田を……宜振を思い出す。土佐勤王党に入って、右も左もわからないま瑞山について回っていた頃のあいつは馬鹿だった」


 反論しかけた古川を雄平の言葉が遮った。

「じゃっどん、ひとは神仏ではなかぞ、古川。きっさねところもある。死ぬる。そいがひとじゃ」



 古川を正面から見据えた雄平の視線には、悲嘆が含まれていた。

「あなたは、誰にも期待したことがないんですか。誰かに憧れたり、尊敬したことは?」

 雄平は短く答えた。

「ある」

「そのひとは……」

「死んだ」



 一陣の吹雪が吹き抜けて、辺りを白く染めた。


 轟音に混じって、高い響きが聞こえる。

 それが人間の悲鳴だと気づいた瞬間、雄平が素早く刀に手をかけ、音の方向に構えた。



 白く霞む幕の向こうに、巨大な黒い影がある。


 霧の中に突如現れた幻の城のようなそれは、体躯に似合わない凄まじい速度で移動していた。


「栄光個体……」


 影が巻き上げる風が刃になって宙空を舞い、肺を切り刻むような冷気に古川は口元を抑えた。


 氷海を破って進む船のように、巨大な氷惨が通った跡を歪な氷の塊が広がっていく。

 白い壁が瞬く間もなく押し寄せ、古川に押し寄せた。


 目を見張った古川の肌を鋭い霜が覆う。

 息が詰まり、氷室の奥底に閉ざされたような感覚に気が遠くなった。



 目前の白の一点を、囚人用の防寒着の薄鼠色が染めた。

 凍刃を頭上に掲げた雄平が獣のように歯を鳴らす。



 耳をつんざくような猿叫と共に、振り下ろされた刀が氷塊を叩き割った。

 軋むような音を立てて二つに割れた壁が、雄平の前で枝分かれし、砕け落ちる。



 刀を振り下ろした形のまま、雄平が古川を見た。

「行くぞ!」

 答えを待たずに駆け出した彼を、古川は身体中についた霜を拭いながら追った。



 速度を少しでも緩めると、吹雪で目の前を走る男の姿すら見失いかける。

「海岸から声がしよっとじゃ!」

 凍刃を片手に駆ける雄平の声に、古川は必死で叫んだ。


「でも、駆動型の氷惨は牛のような形で、主に陸上を移動するはずです! なぜ海の方から……」

 急に雄平が立ち止まり、その背にぶつかりそうになりながら古川も足を止めた。



 雄平の視線の先には、吹雪の中で荒れ狂う無数の触腕があった。

 上陸前に目に焼き付いたその姿は、垂りのモウジャブネだった。



「何で、潜血型が陸上に来てるんだ……」

 呟いた古川に、雄平が答える。

「よう見い、古川。こや、もう陸ではなかぞ」


 微かに霧が晴れ、視界に自分たちが先ほど集められた教会の尖塔が飛び込んでくる。

 その背後に、黒い海がうねっていた。


 古川たちは港に着いてから、その水平線が見えなくなるほど歩いて、教会まで辿り着いたはずだった。



「あん化けもん、浜を削りよった……」

 虚空を睨みつけた雄平が唸る。

「そんな馬鹿な……」



 氷惨と格闘していた囚人のひとりが、こちらに気がついて声を張り上げた。


「新兵衛! おんし、へち行っちょった!早うせんとづきとばすぞぉ!」


 凍刃で触腕を防いだ宜振の声に弾かれた雄平が、混乱の中へ飛び込んでいった。



 呆然と眺めていた古川の背を囚人のひとりが叩く。


「何してんだ! 刀匠でも銃ぐらい使えんだろ、早くこっちへ来て加勢しろ!」



 古川は放り投げられた村田銃を取り落としそうになりながら抱きとめ、囚人たちの元へ走った。



 気を抜くと風圧だけで押し潰されそうになる猛攻を掻い潜りながら、囚人の指示に従い、弾をこめる。


 ひとの胴ほどもある太さの触腕に狙いを定め、古川は引き金を引いた。



 爆発とともに触腕がわずかに震えたが、すぐに攻撃が開始される。


「あの、二発目を撃つにはどうやって––––」


 先の囚人がいた方に問いかけると、苛ついたように古川を見た男の姿を、叩き降ろされた触腕が搔き消した。


 ずるりと粘ついた音を立てて浜辺を擦った触手が、筆のように赤い線を引き、腰から上が消失した男の下半身が崩れた。



 叫ぶ間も無く眼前に血で染まった氷惨の腕が迫ったかと思うと、衝撃が全身に走り、古川は弾き飛ばされた。



 一瞬、気を失っていた古川は、砕けた氷の砂が混じった波が頬を洗う感覚に意識を取り戻した。


 鼻と口に海水が侵入してくるのを感じる。

 立ち上がろうとしたが、身体に力が入らなかった。



 身動きが取れないまま浅瀬で溺れかけながら、古川は来なければよかったと思う。刀すら打てずに死ぬのなら、老いた父に寄り添って江戸に残ればよかった、と。



 波打ち際で、保持していた囚人の誰が落としたのか凍刃≪ライキリ≫が浮き沈みを繰り返している。


 刀匠として、せめて今ある凍刃を波に攫わせたくはない。

 手を伸ばしたとき、波間で揺れる刀を細い指が拾い上げた。



 指の持ち主が顔を上げようともがく古川を見下ろす。



 真っ直ぐに切り揃えられた長い黒髪と、大きな目に、小柄な体躯は少年か女のようにも見える。

 島原の住民かと思ったが、首元では囚人であることを示す縄紐と札が揺れていた。


 白い面差しに、灰色の影が落ちる。

 氷惨の触腕が、彼を叩き潰そうと迫っていた。



 危険を知らせようと喉を鳴らした古川の視界から、囚人の姿が消えた。



 素早く飛び退いた囚人が、片膝を浜辺に擦りそうなほど低く構え、凍刃に手をかける。


 銀の光が虚空を一閃し、切り裂かれた氷惨の腕の腕から溢れた血が空中に散った。



 血潮が海面に触れて湯気を上げる。


 古川の身体が宙に浮いた。



 細腕にそぐわない力で浜辺に古川を引き戻した囚人は、刀を手にしたまま喉を鳴らして笑った。


「西の海より氷海の中、落ちた氷惨は厄落とし。拾い物が稀代の刀匠とは、こいつは春から縁起がいいね」



 少女のような笑顔に反して、声は大人の男のものだった。


「あなたは……」


 古川の問いを遮るように襲いかかった触腕を、囚人は振り向きもせず片手で薙ぎ払う。



 返す刀でそれを叩き斬ると、男は歌舞伎役者のようによく通る声で言った。


「知らざあ言って聞かせやしょう! 僕は河上玄明彦斎。京じゃ鳴らした、ひと斬り彦斎さ」



 島原の白い海は、血の赤と混じって、長らく失われている桜の色に染まった。

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