第31話 お部屋

 深い眠りから目覚めた。


 まぶしさで目をあけていられなかった。手をかざすと光をさえぎった。あたしは、明るいお部屋の中にいた。部屋はどこか古かった。でもなんだか、なつかしいような気がした。壁には大きな絵がかけてあった。絵の中では、男の人が椅子に座って両手を顔にあてて泣いていた。なぐさめても、なかなか泣きやんでくれないような気がした。


 あたしはベッドに寝ていた。真っ白な布の折り返しがついた毛布が、あたしの胸もとにかかっていた。あたしは子ども用のパジャマを着ていた。手をパジャマの中に入れてみると、パンツもなんだか新しいものに変わっているようだった。


 壁の横に、四角くて大きな窓が開いていた。そこから白い光が透きとおったカーテンをとおして差しこんでいた。はね上げられた窓からこっそり入ってきた風が、いたずらっ子のようにカーテンを揺らしていた。空気は澄んだ匂いがした。


 あたしは寝がえりをうった。体の下で、ネズミのように、ばねがキーキーと鳴った。あたしの片腕が、チクっとした。お腹と背中に、にぶい痛みを感じて、あたしは顔をしかめた。ベットのシーツに頬があたり、押し殺したような痛みを感じた。


 みると細長い針が腕にそって斜めに刺さっていて、絆創膏で止めてあった。針からは細長いビニールの管がのびて、スタンドにかけられた透明なプラスチックの袋まで続いていた。


 ビニールの管は、まるで鼻歌をうたいたくなる野原の散歩道のように、ゆったりと続いていた。あたしはしばらくそれを眺めていた。


 寝ている横に小さなクリーム色をした棚があった。その棚の中にあたしが着ていたものが、きちんと折りたたまれて置かれていた。パーカも、セータも、ジーンズも、アンダーシャツも、パンツも、くつ下も、みんな、そこにあった。


 だれもかれも、お風呂に入ったように、きれいさっぱりとした顔つきで並んでいた。石けんの匂いがした。


 あたしは起きあがろうとした。体がいうことをきいてくれなかった。それでもなんとか起きあがった。ベッドの背に体をあずけると、床にスニーカーが揃えて置かれているのが目に入った。こころなしか綺麗になっているような気がした。その横に子ども用の刺繍の入った部屋ばきが並んで置かれていた。


 あたしは思いだした。すべて、思いだした。


 こんな時、どういえばいいのだろう? こんにちは、ごきげんいかが? それとも、しんぱいしないで、あたしはだいじょうぶ。あるいは、ここはどこ? どうしてあたしをたすけたの?


 あたしは絵の中の男の人を見た。いつまでも、めそめそしていないで、相談にのってほしかった。でも男の人は自分の悩みで心がいっぱいで、こちらを見向きもしなかった。あたしは少し可哀想になった。禿げた頭に手をおいてよしよししてあげたくなった。


 男の人は怒るだろうか?


 でも今のあたしにはそこまでたどり着ける元気もないようだった。それに絵に描かれた男の人の頭をどうやって、撫でることができるのだろう? あたしも紙のように薄っぺらになって、絵の中へするすると入りこんだなら、できるかもしれないわ。


 あたしは、それはいい考えだと思った。


 カチッという音がして、ゆっくりとドアが開いた。あたしはびくっとした。おもわず毛布を胸のあたりにかき集めて、開いたドアを見つめた。あたしの目はぎらぎらと光っていたかもしれない。


 お盆をかかえた若い女の人が立っていた。女の人は、春の野に咲くライラックの花のように、あたしに微笑みかけた。あたしは、女の人を睨みつけていた。こんなとき、どんな顔をすればいいのか、あたしは知らなかった。


 女の人は気にせずにお盆をベッドの脇の丸いテーブルまで運ぶと、部屋のすみから椅子を持ってきて、ベッドの近くに座り込んだ。あたしは瞬きもせずに女の人を見つめた。


 お盆の中に置かれた木の器からおいしそうな匂いが漂ってきていた。


 女の人はエプロンのポケットに手をつっこむと中から何かを取り出した。紙とえんぴつだった。紙は小さな四角に切りそろえ、束ねられて、端をクリップでとめてあった。えんぴつは芯が太くて黒く、書き心地がよさそうだった。


 女の人は、えんぴつで紙に何かを書くと、あたしに見せた。


「だいじょうぶ?」


 あたしは、それでも女の人を睨んでいた。


 女の人は、もう一度、えんぴつで紙に書くと、あたしに見せた。


「おなかがすいたでしょ?」


 あたしはかぶりを振ると、聞いた。


 あなただれ?


 女の人は首をかしげると、あたしに、えんぴつと紙を渡した。あたしは「あなただれ?」と書くとそれを女の人に見せた。


「しんぱいしないで」


 女の人の返事はそっけなかった。


 女の人は木のスプーンを器の中に浸すと、その中に入っていたスープ(だと思う)をすくい上げ、自分の口で少し吹いて冷ましてから、それをあたしの口元に近づけようとした。


 あたしは赤ちゃんじゃなかった。


 でも女の人の気持ちもわかるような気がした。あたしは手でそれを止めると、自分で器を持ちスプーンを使う仕草をした。女の人は、ちょっと笑ってから、あたしに器とそれからスプーンを渡してくれた。


 器は、温かかった。最初の一口が喉をとおり過ぎると、あたしはむさぼるようにスープ(だった)を口に運んだ。あまり急ぎすぎたので、口の中を少しやけどしてしまった。そんなあたしをみて、女の人は急いで部屋から出ていくと、別のお盆に冷たい水の入ったコップをのせて運んできた。


 あたしはなんだか自分が女王様になったような気がした。帝国はこのお部屋の中だった。あたしの民は壁の絵の男の人とこの優しそうに微笑む女の人だった。


 女の人はあたしの腕の絆創膏をはがし取ると針を抜いた。エプロンのポケットから軟膏のようなものを取りだすと、あたしの腕に塗った。しばらくすると腕に開いた針の穴は跡形もなく消えた。


 そして、あたしを促すように支えながら、部屋の外れにある浴室まであたしを連れていった。あたしがどうにかシャワーを浴びてお風呂に入っている間、女の人はあたしが着替える新しい下着とパジャマを用意して静かに待っていてくれた。


 あたしがお風呂から上がって着替えると、あたしを椅子に座らせて、濡れた髪をドライヤーで丁寧に乾かしてくれた。あたしを再びベッドに寝かせると、女の人は、あたしの腕を消毒液の匂いのする脱脂綿で拭いてから、新しい針を刺した。ビニールの管を辿っていくと新しいプラスチックの袋がスタンドにかけられていた。


 女の人は、ベッドにかがみ込むとあたしの髪を撫でた。その指があたしの頬に触れた。あたしはくすぐったくって、少し笑った。


 あたしは、自分の口をゆっくりと動かした。


 あ な た だ れ ?


 女の人は、あたしの胸に指をあてて、動かした。それはこんなふうに動いたようだった。


 ル マ


 あなたの名まえなの?


 女の人は、はにかむように微笑んだ。それからまた指を動かした。それはこんなふうにいっているように読めた。


 あ な た は ?


 あたしは女の人の手をとると、手のひらに指で自分の名まえをなぞった。


 あたしが、なぞり終えると、女の人はあたしの手を握った。あたしは、ちょっとびっくりした。その手は柔らかくて温かかった。


 あたしは、女の人から、紙とえんぴつを渡してもらうと、こう書いた。


「ここはどこ? どうしてあたしをたすけたの?」


 女の人は、えんぴつを握ると紙に返事を書いて、あたしに見せた。


「あなたが、たおれていたところから、そう、とおくはないところよ。たすけたのはあたしじゃないわ」


 あたしはもっと聞きたかったけれど、女の人は、紙とえんぴつを取りあげると、身振りで、もう休みなさい、といった。


 ドアが閉まると、ここにいるのは壁の絵の男の人と、あたしだけになった。男の人は、絵の中で、まだ泣いていた。あたしには、何もしてあげることがなかった。あたしは、毛布を胸のところまで引きよせて、仰向けになり上を見た。


 あたしに近い天井のすみに天使の絵が直接かかれていた。天使は、つの笛を吹きながら、泣いている男の人を、冷ややかな目で見ていた。

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