第32話 あれから

 あれからあたしはどうしただろう?


 二年前に自分の子を亡くしていたルマは、あたしを養女にした。彼女は子どもを亡くしたせいで声を失った。それから聞こえる耳も(あたしはこの話を彼女のお医者さんから聞いた)。ふたたび聞こえるようになったのはあたしと暮らし始めて二年たった後だった。さらに一年後に彼女は声を取りもどした。ルマが元のように聞いたり、話したりすることができるようになって、あたしは本当によかったと思う。でも時々、彼女が窓辺で、もの思いに沈んでいるのを見かけると彼女の首に手を回して優しく抱いてあげたい衝動にかられる(あたしは時々そうしている)。


 あたしは、ルマが幸せそうに笑っているところを見るのが、好きだ。そんなとき、彼女に出会えたよろこびが、心の中いっぱいに広がっていくのを感じる。


 ルマがあたしを養女にしたいきさつは、いずれまた話す機会があるかもしれない(そのときのことを思いだす度に、あたしはどきまぎする)。


 舗道で凍えて倒れていたあたしを救いだしたのは、あたしに恥ずかしい思いをさせた、あの男の人だった。一悶着あった後、あたしはあの男の人とお友だちになった。でもやっぱりときどき許せないことがある。そんなときは、しばらく絶交状態が続く。でもいつの間にかまた仲良くなってしまっている。そんな二人を見て、ルマはおかしそうに笑う。


 ときどき、ルマはあたしをオペラハウスの上演会に連れていってくれる。バルコニー席の手すりに頬づえをつき、あたしは舞台装置やオーケストラ席や客席や天井をうっとりと眺める。演じられたオペラの内容について、後でルマに、どうだった? って、いつも聞かれるけど、あたしは答えられない。


 オペラハウスの管理人たちは今、監獄にいる。経理の不正が発覚したからだ。新しい管理人たちがやってきてオペラハウスを運営している。風の便りでは、善良な人たちのようだ。


 フロレンは、まだ行方不明だ。あたしはフロレンはどこか遠いところを旅していると思うことにしている。フロレンが残していった黒い長方形のもの(口座暗号浄化用具、別名デコントというのだそうだ)を、あの時あたしはカードと一緒に盗られてしまった。あたしが失くしたデコントは今もこの街のどこかにあるのかもしれない。


 あたしは、あのおじさんに二度と会うことはなかった。おじさんの横でうす笑いを浮かべていた悪魔にも。


 でも、あたしは、あのとき受けた傷をまだ引きずっていると思う。時々、夢にうなされることがある。そんなときは、ルマがあたしを優しく抱きしめてくれる。そんなルマにあたしはいつも感謝している。あの苦しかった巡る日々に終止符を打ってくれた、ライラックの花のように微笑む女性に、言葉では決して言いつくせないほどに。ルマがあたしにしてくれたことを思うと、今でも涙はあふれて止まらない。


 あれから、地下に眠る女の人には会っていない。いつだったか、あの教会のような建物に、ランタンと、ターコイズのタベストリー柄のビニールシートと着替えの入ったリュックを、こっそり取りに戻ったとき、あたしはもういちどあの大きな箱に乗って地下の女の人に会いに行こうかと思った。でもなんだかそうしない方がいいような気がして、あたしは引きかえした。今では、あそこは一種の保養施設のようなものだったのかもしれないと思うことにしている。


 それから、オペラハウスの怪物のことを人に話したが、みんな信じてくれない。でもときどき、オペラハウスに勤めるひとが行方不明になって世間を騒がせている。


 あたしは次の言葉でこの物語を終わりにしたい。


 青く輝く空からふってきた光が揺れる木陰をとおして射しこみ、大きく開いた窓に腰を降ろすと、あたしの心をくすぐる。凍てつく冬の木枯らしが去ったあと、訪れる季節の変わり目にとまどい気味に上げた瞳に、そのまぶしさは繰り返しやってくる。

 

 フロレン、あたしはあなたのことを一生忘れはしない。


                                                               ナルテ

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