第24話 男の人

 あたしはしばらくぼんやりとしていた。


 あたしはまだまだお腹がすいていた。あたしはもっと栄養のあるものを食べなくちゃ。今までどれほどあたしは、取らなければいけない食事を取れずに過ごしてきたのだろう? あたしはそんなに痩せても太ってもいる方じゃなかったけれど、それでも少し腕や足や腰まわりが細くなったような気がした。履いているジーンズが少しぶかぶかになったような気がした。


 栄養のあるものをとらなくちゃ。十分な食事をしなくちゃ。でもあたしみたいに小さな子どもが一人でレストランに入るわけにはいかなかった。きっと、あやしまれてしまう。食料品を売っているお店で子どもがカードを使うことはできるのだろうか? お会計でお店の人に聞かれたら何と答えればいいのだろう?


 あたしはやはり途方にくれていた。あたしには誰かおとなの人が必要だった。誰かあたしを見守り、手助けしてくれる人が必要だった。


 日差しは高かった。向こうの路上では車が行き交っていた。あたしのそばを人々がとおり過ぎていった。あたしは建物の壁に背中を押しつけて、歩道に座り込んでいた。


 ここはどこだろう? あたしは目印を捜した。通りの角に緑色の標識があった。標識には白い文字が綴られていた。あたしの知らない街角の名前だった。


 どちらの方角へ歩いていけば、オペラハウスへ帰れるのだろう? オペラハウス。その言葉はあたしになつかしい気持ちを呼び起こした。でも帰りついたとしても、もうフロレンとあたしの部屋は取り払われているかもしれなかった。フロレンがこっそりと部屋に運び込んだストーブは、もう物置に打ち捨てられているかもしれなかった。あるいは捨て去るものとして外にだされて、回収車が運びだしてしまっているかもしれなかった。


 あたしはぼんやりと歩道に伸びる石畳を見つめていた。


 やあ。


 その男の人はあたしに、馴れ馴れしく、声をかけてきた。


 見上げると、歩道の脇に立ってあたしを見下ろしている。


 きみ、どうかしたの? 顔色、悪いよ。それから、ネズミみたいに薄汚れている。


 あたしは、袖口で目をこするといった。

 べつに、どうもしてやしないわよ。うるさいわね。あっちいってよ。


 男の人はあたしの顔をのぞき込むと、こうつけ加えた。

 おまけに泣きはらして目が赤い。今にも、その可愛いお目目から、もっと涙があふれそうだ。


 あたしは顔を背けた。

 お願いだから、あたしにかまわないで。向こうへいって。

 あたしはそういうと、両手で耳をふさぎ、唇をかんで石畳をみつめた。


 同情なんか、いらなかった。

 れんびんなんか、いらなかった。

 あざけりなんか、いらなかった。

 あたしはたすけが、ほしかった。


 あたしを救ってくれるのは目の前に広がるこの石畳だけだという気がした。


 男の人はなおもあたしになにか話しかけてきた。あたしはその言葉が耳に入ってこないように、いっしょうけんめいに石畳を数えた。石畳は多くの足に踏みつけられるうちに、角がとれ丸くなっていた。そのひとつひとつの表面はみがかれて暗闇の中の月のように鈍く光っていた。


 あたしは石畳を数えるのをやめなかった。七百個まで数え上げてから、目をあげると、もう男の人はいなかった。通りを見渡したが、影も形もなかった。


 あたしは息をついた。


 あたしのいる通りは、車の行きかう表の通りから離れていて、車道の両側にはたくさんの車が止まり、持ち主の帰りを言葉なく待ちわびていた。


 道の両側には、背の高い石造りの建物がすすけた色をして、すきまなく並んでいた。通りの向こう側には、お空に向かって高い塔のような建物がそびえているのがみえた。駆けあがるようにまっすぐ伸びた灰色の壁に、たくさんの窓があって日の光にきらめいていた。まるで、ここにおいでよ、って、あたしを誘ってるみたいだった。


 片方の建物の列にさえぎられてあたしのいる通りは日陰になりつつあった。あたりの空気が少しずつ冷たくなってきていた。あたしは、膝においていたパーカを着こんだ。深呼吸をすると、体をそらせて上を見あげた。


 並んだ建物の屋根で両側を切りとられた空があった。空は、青々としていた。そのどこかに、あたしを見守っているお星さまがいるんだ。あたしはそう思った。


 とつぜん、あたしの目の前に誰かの手がのびてきた。


 見上げると、さっき近くで残飯をあさっていた、髭だらけの汚い格好をしたおじさんだった。おじさんはひくつな笑みを浮かべて、あたしを見おろしていた。おじさんの目は、あたしのジーンズの前ポケットを見ていた。あたしはそこに機械から貰ったカードと黒い長方形をしたものを入れていた。


 あたしはかぶりを振った。


 おじさんは、親指と中指二本で何かをつまんでこするような仕草をしてみせた。お金? あたしは激しくかぶりを振った。それでもおじさんは、その仕草と、いやな笑いを止めなかった。おじさんはだんだんとあたしに顔を近づけてきた。


 吐く息の匂いが漂って、あたしは気持ちが悪くなった。


 呼吸を止めると、肘と腕をつかって、やっとおじさんを押しのけた。震える脚で立ち上がり、あたしは走った。しばらくたって後ろを振り返るとおじさんはついてこなかった。あたしは走る速度をゆるめて、歩道にへたりこんだ。もう走るのは限界だった。


 おじさんがまた近づいてきはしないかと、あたりを見回しながら、あたしは体力が少しでも回復するのを待った。


 しばらくして、あたしは息を吸いこむと吐きだした。そして膝と片手を石畳につくと、痙攣しそうになる脚をよしよししながら、ゆっくりと立ち上がった。


 のろのろと歩いているうちにあたしの気分はよくなった。でもまたいつあのおじさんが現れるかと思うと、どきどきした。あたしは、できるだけあたりに気を配りながら歩いた。

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