第25話 食料品

 角を曲がると大きな食料品店があった。


 店先にはいろんなくだものが台の上に積み上げられ、いくつかは歩道にこぼれ落ちていた。車道と歩道のさかい目に立って、どこかのおじさんが楽器を持って歌をうたっていた。楽器から音は聞こえなかった。おじさんは気持ちよさそうに体を揺すって、自分の歌に魂をこめようとしていた。その横では、テーブルに猫を乗せたおばさんがなにかを訴えていた。動物をしっかり、かわいがりましょうと言っているらしかった。


 あたしは店の入り口で立ちどまった。


 あたしは自分に、だいじょうぶ? ってきいた。


 心配しないで、さっき、うまくいったじゃない、ってもうひとりのあたしは答えた。でもあたしはやはり不安だった。本当にうまくいくのだろうか? うまくいかなかったらどうしよう?


 お店の中に入ると買いもの車を押して、あたしはまず野菜を売っている場所に向かった。お店の中はまだあまり混んでいなかった。コンクリートの床は凸凹しているところがあって、そこを横切るのにあたしはふるえる手と脚で、車のハンドルを力いっぱいに押さなければならなかった。


 ブロッコリーとパプリカとキュウリとトマトとアスパラといくつかの葉野菜を、買いもの車に放り込むと、ちょっと一休みした。それから肉のコーナーで、牛肉をください、とあたしはいった。肉の大きさをいうと、係りのおじさんはちょっとこちらをじろりとみたが、なにもいわず、牛肉を切りわけて包むとあたしに渡してくれた。


 くだものは、もちろんくだもの売り場にあった。りんごとバナナとオレンジをひとつずつ買いもの車の中に入れた。ぶどうを一房いれるのも忘れなかった。それから、パンのケースに近づくとあたしはベーグルとバゲットを指差した。係りのおばさんは、あたしの身なりを気にせずに紙袋に入れて丁寧に手渡してくれた。あたしはせいいっぱいの笑顔で、ありがとう、っていった。


 チーズとマーガリンとドレッシングを買いもの車につめ込んでから、あたしはお会計に並んだ。


 係りの人が少ないのか、お会計はやや混んでいた。


 やっと順番がまわってきて、あたしは、背伸びをしながら買いもの車から野菜と肉とくだものとパンとチーズとマーガリンとドレッシングを取り出すと、脇にある黒いベルトの上に乗せた。黒いベルトはうなり声を小さく上げて、係りのお姉さんの前まで品物を運んだ。


 お姉さんは、慣れた手つきで品物をひとつひとつ取りあげて機械の前にかざした。最後になにかボタンを押すと、料金が小さな窓に映しだされた。


 あたしはお姉さんにカードをそっと差し出した。


 係りのお姉さんはカードを受けとると、初めてあたしの方を見た。そしてもういちどカードを見た。さらにもういちどあたしの方を見た。それから眉と眉の間に皺を寄せた。


 あたしはジーンズの太ももに手をやると不安そうにそこを掴んだ。あたしは自分に、だから、だいじょうぶ? って聞いたのに、っていっていた。


 おかあさんはどこ?

 あたしは何も答えられなかった。

 ねえ、あなたひとりなの?

 あたしは小さくうなずいた。

 このカードはどうしたの?

 もらったの。


 あたしの声は消え入りそうに小さかった。ひろったの、っていったように聞こえたかもしれない。


 係りのお姉さんは目を細めて、あたしを見た。


 あたしは目を伏せた。頬がほてってきた。


 お姉さんは横目であたしを見たまま、片手を上げて向こう側にいる誰かを呼ぼうとした。あたしは、顔を上げた。


 遠くの壁際のカウンターにいた係りの人がお姉さんの合図に気づいて、こちらに向かって歩き始めたのが分かった。


 あたしの心臓は、とくん、とした。


 あたしはジーンズの太ももをさらに強く握りしめた。あたしは自分に、ばかっ、ばかばかばか、なんでもっと自信たっぷりにしていないのよ! っていっていた。


 あたしの大きく見開かれた目の前で、想像の扉が少しずつ開いていった。


 係りの人の大きな太い手からのびた指先があたしの二の腕に食い込んで、あたしは顔をゆがめた。あたしは一歩も動けなかった。警察の係の人がやってきて、泣き叫ぶあたしを青い車に押しこんだ。あたしは牢屋の中で冷たい長椅子に腰をかけ、うつむいていた。制服を着た人がときおり、じゃらじゃらとした音を鳴らしながら、見回りにくると、あたしをひとり残して遠ざかって行った。


 そのとき、背後の売り場でのんびりとした声がした。


 おとうさんのいいつけどおり、買い物をしたかな?


 あたしは振りかえった。


 さっき歩道で声をかけてきた、あのいやな男の人がいた。


 あたしは耳まで真っ赤になったと思う。


 あれまあ、こんなに汚しちゃって、頭もぼさぼさになって、やんちゃだね、まったく。


 男の人はあたしの頭をぽんと叩くと、肩に手をおき、係りのお姉さんに笑いかけながら、こういった。


 娘がなにか? えーと、それ、使えないの?


 係りのお姉さんは、あいまいに返事すると、あわててカードを機械のすきまに通した。機械からおなじみのかわいい音が聞こえた。お姉さんは近づいてきた係りの人に、もう用はないからと合図して、あたしにカードを返した。


 お会計のさらに先に、別の係りのお兄さんがいて、紙袋にあたしが買ったものをつめて、それをさらにビニール袋に入れると、笑顔で渡してくれた。


 あたしは荷物を両手で胸に抱え、男の人に背中を押されながらお店を出た。


 外に出ると、あたしは自分の肩を激しくねじって男の人の手をふり払った。そして、さっさっと歩きだした。後ろからついてくる足音が聞こえた。


 横に並ぶと男の人がいった。


 なにか気にさわることでもしたかな?


 あたしは答えなかった。前をみたまま、さらに歩く速さを強めた。男の人はそれでもあたしと一緒に歩いた。


 あたしは立ち止まると、男の人をにらみつけた。


 あたしの頬は炎のように熱かった。


 男の人はちょっとひるんだ顔つきをした。


 その瞬間、あたしの目から真っ赤な光線が発射されて、この男の人と、まわりの建物を焼き尽くしたとしても、ふしぎはなかった。


 ついてこないで! ありったけの想いで、あたしは叫んだ。


 そして、ふたたび歩きだした。


 もう、後ろから男の人の足音は聞こえなかった。しばらくしてから、あたしは歩く速度を緩めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る