第10話 妖精

 羽根の音が聞こえていた。


 それは耳元で囁きつづけていた。その音で目覚めて、あたしはまだぼんやりとしていた。そして、いつかフロレンが見に連れていってくれた映画のことを、かすかに思い出していた。聞こえてくる音は、その映画に出てきた妖精フェアリィの羽根の音に似ていた。あの時、あたしは座席に座りながら、ひざに大きな紙のバケツを抱えて、そこからひとつかみのポップコーンを取りだし口に運ぼうとしたまま、銀幕スクリーンに見入っていた。キャラメル味のポップコーンは、あたしが大好きな食べ物だった。妖精フェアリィもポップコーンが大好きなのだろうか? 聞いてみたことがないので分からなかった。


 しばらくして、あたしはうっすらと目を開けた。


 妖精フェアリィの姿はなかった。羽根の音も聞こえなくなっていた。うつぶせのまま、どうにか背負っていたリュックを肩から外すと、仰向けに転がった。全身がだるく、あたまがずきずきした。口の中はまるで、ひからびたヤモリのように乾いていた。でもあたしはどうにか息をしていた。きまじめな心臓は、胸の中でコトコトと鳴っていた。あたしの時間はまだ止まってはいなかった。


 妖精フェアリィがやってきて、起こしてくれたのだろうか?


 分からなかった。もしそうだとしたら、こんな地下の奥深くまでやってきてくれるなんて、何て思いやりのある妖精フェアリィなんだろう。


 心の中でその姿を想像してみた。でも、できなかった。虫のような羽根を持った小さな女の子がこの世にいるなんてとても信じられなかった。あんなにか弱い羽根でどうやってお空を飛ぶんだろう? おまけに女の子や、せきつい動物のなかまのほにゅう類っていう生き物の骨格は、お空を飛べる構造になっていないって、いつかご本で読んだことがあったわ。映画を観終った後でその話をすると、あの女はため息をつきながらあたしのことを、かいぎしゅぎしゃ、って呼んだっけ。


 あ、だめ。フロレンのことを思い出しちゃだめ。あの女のことを考えちゃだめ。悲しいことにふたをするんだ。あたしには涙を流さずに泣くなんて耐えられなかった。もっと後で涙がじゅうぶん出るときになってから泣きたかった。


 あたしの頭はまだはっきりとしなかった。それでもけんめいに考えた。


 今はこの問題をなんとかしなくちゃ。この問題? あたしは喉が乾いていた。水がほしかった。でも水はどこにもなかった。ほんとうにどこにもないのだろうか? じゃあ、なんでおまえが信じない妖精フェアリィがやってきて、羽根の音をブンブンさせながら、おまえを起こしたんだ? あたしの耳は幻を聞いていたんだろうか? 砂漠に迷った人たちがオアシスのしんきろうをみるように。


 もしそうなら、あの妖精フェアリィは水の精だったのかもしれない。あたしのことを助けようとしてくれていたのかもしれない。まぼろしでもあたしはその妖精フェアリィがやってきてくれたことがうれしかった。


 その妖精フェアリィにお礼をいいたかった。あたしはぼんやりとした頭の中で、羽根の生えた女の子の姿を一生懸命に想像してみた。それから小さなやわらかい頰にキスをした。妖精フェアリィは、はずかしそうに笑った。


 その時あたしは気づいた。


 水の匂いがする。


 乾燥した土ぼこりと岩の匂いに混じって、湿り気のある匂いがどこからかただよってきていた。あたしのずきずきとした頭は、やっとそれに気づいた。あたしはふるえる足で立ちあがった。もうあまり体力は残っていないようだった。この闇の中でなんとか水をみつけなくちゃ。全身の痛みや疲れとたたかいながら、あたしはそう思った。


 どうすればいいだろう? とにかく早く探し出さないと。だんだんと動くのがつらくなってきていた。なんでも思いつくことをやってみるしかなさそうだった。あたしは、ふるえる手でターコイズのタペストリー柄のビニールシートをリュックから急いで引き出すと地面に敷き、動かないようにリュックをその上に置いた。ランタンを手に持つと、ビニールシートの一つの角と反対側の角の間に引いた線をまっすぐに伸ばすように、足を引きずるようにして地面に線を描きながら必死に五十歩あるいた。そしてまたビニールシートのあるところへ描いた線をたどりなんとか戻ってきた。シートの四つの角と四つの辺の合わせて八つの方向に同じように苦労してこの動作を繰りかえした。


 これが正しいやり方なのかぜんぜん分からなかったけれど、その中で一番水の匂いがしそうなところを決めてそこにもういちど、やっとの思いで動いて、ビニールシートとリュックを置くと再び同じことを繰りかえした。


 何度目かであたしは、岩の壁に突きあたった。右だろうか? 左だろうか? 目印にビニールシートとリュックを壁ぎわに置くと、震える手でランタンを持ち、左手の壁を見失わないように照らしながら、右側へけんめいに歩いた。岩の壁にはところどころで穴が開いていて、そこからさらに暗い洞穴が続いていた。あたしは挫けそうになる気持ちをむりやり奮いたたせ、そんな洞穴にも入っていった。そうしている内に水の匂いが感じられなくなったような気がした。


 こんなとき、おとなはあくたいをつくのだろうか?


 あたしもあくたいをつきたかった。でももうその元気すらなかった。しかたがない。こんどは壁を右手に照らしながらのろのろと、もと来た道をもどった。途中で何度も倒れそうになった。そのたびにあたしは荒い息をしながら体をごつごつとした壁にもたせかけ、休んだ。


 ビニールシートとリュックがあたしを待っていてくれた。あたしはようやくその前をとおりすぎると、岩の壁を右手に照らしたまま、さらにその先へとけんめいに歩いた。長かった。あたしは水のあるところまでたどり着けるのだろうか? ふと不安になった。途中で倒れてそのまま動けなくならないだろうか? 手も足もこわばっていた。頭がわれそうに痛んだ。心臓は早鐘のように打っていた。


 歩いても、歩いても、水のあるところにたどりつけそうになかった。あきらめる気持ちが頭の中をよぎった。あたしはもうだめだ。だめなんだ。水の精に教えてもらったけれど、たどりつけないんだ。あたしには幸運はやってこないんだ。


 岩の壁によりかかると、ひざの力が抜け、ずるずるとすべり落ちて、座り込んでしまった。あたしは頭を抱えてうずくまった。もうとても歩けないと思った。口と喉はもう何も感じなかった。あと少ししたら天使があたしを迎えにきてくれるのだろうか? でもこんなに地下の奥深くまで天使たちはやってこられるのだろうか? 地下はどちらかというと悪魔がいるんじゃなかったの? 悪魔にさらに深い地の底に連れて行かれるかもしれない。そいつは今、あたしの最後を待ちわびて、近くの岩に腰をおろし長いしっぽを体に巻きつけて、こちらを眺めているところかもしれない。


 そう思うとあたしの心は恐怖と絶望でいっぱいになった。悲しかった。やっぱりあたしは、悲しかった。体はなくなったとしても、そんなところに連れて行かれるのがとても怖かった。


 いやだ! あたしは体を丸めると半身を岩の壁に押しつけ、縮こまった。

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