第9話 ゼンマイじかけ

 あたしは重い足を引きずりながら歩きつづけた。


 もはや、どこに行こうというつもりもなくただ歩いていた。一度立ち止まるともう歩きだせないような気がした。だから止まらずに歩いた。交互に足を動かし、ゼンマイじかけの自動人形のように一歩ずつ前へ進んだ。いつかはあたしも巻きバネが切れて止まってしまうのかもしれなかった。


 お部屋に置いてきた卓上時計はまだ動いているだろうか? あたしが巻いてあげなくちゃ。夜ベッドに入る前にきちんと巻いてあげなくちゃ。あたしは卓上時計を置いてきたことを悔やんだ。もし一緒に持ってきていれば、いつだって巻いてあげられるのに。だれもいないさびしい部屋でちくたく時をきざみ、そのうちだれにも知られずに止まってしまうなんてことはないのに。


 あたしは、ふと思った。だれかがあたし自身の巻きバネのことを心配してくれているだろうか? だれかがあたしの巻きバネを巻こうとしてくれているだろうか? あたしの背中に大きなちょうちょのような、しんちゅうのネジをあて、やさしく巻こうとしてくれているだろうか? あたしには分からなかった。ただぼんやりと分かったのは、あたしの巻きバネがもう少ししたら切れてしまうということだった。もう少ししたら、あたしも、あたしを生んでくれたひとのところに行けるのかもしれなかった。


 あたしは今、あのけもののようなかなしい目をしているにちがいなかった。いや、血と肉をたずさえているものが、かなしみをたたえるには涙が必要だった。あたしはその涙すら出ないほど、枯れ果てていた。あたしは今きっとあの自動人形のような、うつろな目をしている。でもそんなことはもうどうでもよかった。あたしには歩くということが、残されたたったひとつの、とりでのような気がしていた。そのとりでには銃も弾薬も食料も飲み水もなかった。井戸はすでに枯れていた。壁や門は無数の矢が突き刺さり崩れかけていた。さらに敵の一撃が加えられればもろくも崩れさってしまう。


 でこぼこした地面につまずいて、あたしは膝をついてたおれてしまった。


 起き上がろうとしたが、できなかった。地面はひややかで静かだった。あたしの吐く不規則な息の音だけが聞こえるようだった。息を吐くたびに、あたしといっしょに転がったランタンの光の中に土ぼこりが舞いあがった。


 今はたとえようもなく眠かった。眠りをさそう夜の女王が音もたてずにやってきて、そっとあたしに布団をかけてくれたような気がした。女王はあたしのことを慰めてくれているのだろうか? あたしの頭をよしよししてくれているのだろうか? あたしに微笑みかけてくれているのだろうか? 女王がもし今までのことを知っているのなら、きっとあたしをやさしくいたわってくれるにちがいない。あたしはここで目をとじていよう。もうなにも聞くこともみることもしなくていいから。そのままでいいから。もうなにも考えることも思うこともしなくていいんだから。そうしていよう。


 あたしは少しずつ深い眠りの中に引きずりこまれていった。


 あたしは、なにもない世界にいた。そこには上も下もなかった。右も左もなかった。音もなかった。光もなかった。暗闇ですらなかった。あたしは、そこにいて、そこにいなかった。空腹もなかった。喉のかわきもなかった。温かくもなく、冷たくもなかった。絶望もなく、希望もなく、苦しみもなく、喜びもなかった。あたしはただそこにあった。あたしは、そうしてただそこにあった。


 あたしは、けものの半身像だった。あたしは、置きわすれられた卓上時計のながい針だった。あたしは、ターコイズのタペストリー柄のビニールシートの絵がらだった。あたしは、小さな手さげランタンから漏れる淡い光だった。あたしは、リュックのポケットに残されたチョコクッキーの小さな、小さな、破片だった。あたしは、そのすべてであり、そのすべてでなかった。そして、それがすべてのあたしだった。たったひとりのあたしだった。あたしの忘れさられた半身像だった。あたしの見すてられた形見だった。


 ひとつの点が生まれた。その点は徐々に大きくなっていった。大きくなった点は、もはや点とは呼べなかった。それは円へと変化した。円はすべてを飲み込んで、さらに大きくなりつづけた。それは断片をすべて飲み込んで、波打ち、さざなみ、拡がっていった。


 円は震えて動き続けるうちに、赤くたぎるマグマに姿を変えた。マグマは地中深くうねり、沸きあがり、地表の岩盤に達すると、それを突きやぶり、大気へと吹き上げた。真っ赤に熱せられたどろどろとしたものは地上に降りそそぎ、ゆっくりと流れ、すべてを焼きはらった。


 やがて、焼け野原となった大地の頭上に黒々とした雲が沸き立ち、そこから大量の雨が大地へ降り注いだ。雨は決して降りやまなかった。雨水は、焼け野原をうるおし、あるものは小川となって流れ、あるものは地中の奥深くへと吸いこまれ地下の水脈となった。


 だれかが遠くで、暗闇の奥深く行き倒れたもののことを呼んでいた。小さく静かな声で呼んでいた。

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