エピローグ ふたりの幸い

 六年前の雪の日、世界から逃げてきたふたりのこどもがいた。

 夜の闇から生まれ落ちたような黒き魔法使いに拾われた二人は、ベルトリカの森に生きる魔物やオクの町の人々に育てられ、すくすく成長し――いまや立派なイルザークの弟子である。




 ココの葬儀はしめやかに、そして穏やかに営まれた。

 生まれてからをずっとオクで過ごした彼女だったから、葬儀には町のみんなが参列した。すでに他界した身内に代わって、イルザークの指示を受けながらリディアとアデルが手配した。


 町の男衆が手ずから作製した白い棺のなか、横たわるココは安らかな表情をしている。

 まだちょっぴり実感が湧かないリディアには、ただお昼寝をしているだけのように見えた。

 けれど、触れれば冷たい。人間が死んで、心臓が動くのをやめて、血が巡らなくなって、体が冷たくなる、当たり前に知っている気でいたことも、改めてこの肌に感じてみると未知だった。


 ザジが実は英雄だったとか、イルザークが魔王の配下だったとか、そういうことを教えられたときの不安に似ている。

 ココの遺体に触れてその冷たい熱を知ったリディアは、知るより以前の彼女には戻れない。


「こっちのひとは、死んだらどこへ行くの?」


 代わる代わる町のみんなが訪れて、ココに最後のお別れをしていく。

 その様子を、リディアたちは家の庭にあるベンチに座って眺めていた。イルザークの両脇に弟子ふたりでちょこんと収まり、あいさつにくるみんなとお話をする、それだけのお仕事である。

 先程までは家のなかで参列者にお茶を出したりあいさつをしたりしていたが、ジャンの両親がやってきて「交代するから休憩しておいで」と外に出されたのだ。

 足の治療が終わったジャンも、訓練がてらゆっくり歩いてきて、いまはココの棺の傍にいる。


 そこまでを振り返ることのできる、ゆったりとした沈黙ののち、イルザークは口を開いた。


「天海のくじらのもとへ召されると言う者もある。あるいは、悪人罪人の類は冥界へ落とされて裁判にかけられる、とも」

「ふぅん……。天国と地獄みたいな感じなんだね。日本と一緒かなぁ?」


 アデルは渋い顔になった。


「よく憶えてないけど、天国と地獄はキリスト教じゃなかったっけ。うちは仏教だったはずだからなぁ……」

「ええ、そんなややこしかった?」

「お線香が立ってたから仏教だと思う、うん」


 なにせ八歳のときである。

 こちらで拾われたときにはまだ記憶に残っていたことも、新しい常識や魔法のことを学ぶたびに、容量の少ない脳みそからころころ転がり落ちてしまっていた。いつかこうして日本を思い出すことも少なくなっていくのだろう。

 弟子たちの大雑把な宗教観をひとしきり聞き流すと、イルザークは人差し指を立てた。

 なんだ、と注目したリディアたちの鼻先に、指先から生まれた黒い蝶がひらり翻る。


「だが、人の心は蝶となり、いつでも傍で見守っているという」


 夜の闇を切り取ったような黒い翅を羽ばたかせながら、蝶はひらひらと飛んでいった。屋根の上に上がり、煙突の周りをぐるりと廻ったあと、ベルトリカの森のほうへ向けて消えていく。


「死んだあとのことなど誰も解らぬ。誰も死んだことがない。死んだ者は蘇らないからだ」

「天海のくじらの三原則、でしょ。ひとつ死者を蘇らせるべからず。ひとつ時を渡るべからず。ひとつ魔力を譲渡すべからず」

「そうだ。魔王はひとつめを破ろうとしたため教会と対立し、この間の贋者はふたつめを犯そうとしていたので弟子入りを断った。みっつめは」


 ん、とイルザークが先程蝶を生んだ右手を広げた。

 掌の上にころんと載っているのは、若草色のちいさな石ころだ。


「なぁに、これ」

「ココの魔石だ。臨終の間際に、リディアが望むなら渡すようにと。おまえの好きにしろ。……アデルにはないぞ」


 なんの気遣いやら振り返った師に、アデルは呆れ半ばに肩を竦めた。


「わかってますよ。ぼくは魔術が使えるから必要ない」

「うむ」


 物わかりのいい弟子に満足したように――そう見えるのはアデルだけだろうが――うなずき、イルザークはもう一方の弟子に視線を戻す。

 魔石の概念はリディアも知っている。

 知っているからこそ。


「先生、これ、わたしが受け取ったらどうなるの」

「ココの魔力が引き継がれる。もともと在るのか無いのか判らない程度のものだが少なくとも魔術がましになるだろう」


「じゃなくて」慌てて首を振ったリディアの栗毛が揺れた。

 睫毛に引っかかって邪魔そうな前髪を、イルザークは指先で払ってやる。


「魔力の譲渡すべからず、に引っかかるんでしょ? おばぁちゃんは地獄に落ちたりしない?」

「地獄ではなく冥界だが」

「もう、そうだけどそうじゃなくて!」


 会話のつながらない師を一発叩くと、彼はくっと肩を揺らした。


「天海のくじらは慈悲深い。只人の子にほんの少しの魔力を分けてやった程度で、召されたココを拒みはしない……」


 世にも珍しいイルザークの笑みというものを間近に目撃してしまったリディアとアデルの頭上に、大きな影がかかった。

 吸い寄せられるように天海を仰ぐ。

 ココの家に来ていた参列者も倣って、ああ、と感嘆の吐息を洩らした。


 天海のくじらが、ゆっくりとオクの上空を旋回している。

 くるり、その巨躯を反転させると、高くもなく低くもない咆哮を世界に沁みこませながら、泰然と西の海へと向かった。

「ココばぁを迎えに来たんだなぁ」「いい人だったもんなぁ」と、涙交じりの会話が聞こえてきた。


 くじらの残した波の軌跡がきらきらとひかるのを見つめていたリディアは、やがて視線を師へ戻した。


 男は少女の選択をただ待っていた。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 その病的に青白い手のなかの石ころをつまみ上げる。若草色。ココの魔力の色だ。リディアの双眸とよく似て透き通るちいさな魔力の源を、ゆっくりと握りしめた。


「……もうちょっと、このまま持っててもいいかなぁ」

「好きにしろ」

「先生これ、放っておいたら消えたりしない? 寝てるあいだに吸い込まれちゃったりしない?」

「魔石は持ち主の意志がなければただの石だ。ココはリディアが望むならと言い残した」


 つまり、リディアがそう望まない限りは、石のままでいるということ。


「……いや、落としちゃいそうだからやっぱり先生、今日帰るまで持ってて」

「さもありなん」


 ぼそっと肯定したイルザークの手のなかに魔石を戻す。肝心なところでうっかりを発動することがあるのは自覚しているが、自分以外のひとに当然のようにうなずかれると少々腹立たしい。

 彼が黒い服の胸ポケットに石を入れた横で、リディアは膝を抱えた。


「……先生、オルガの怪我、まだ治らない?」

「あとすこしだ」


 エレイルの瘴気を孕んだ魔法で負傷したせいで、オルガの傷の治りは芳しくなかった。いまは森のなかでゆっくりと静養しているということだ。


「わたし謝らなくちゃ。オルガ、怒ったり傷ついたりしていないかな」

「……森のヌシが小娘ひとりのやることに腹を立てたり傷心したりするものか」


 イルザークは世にもおかしい話を聞いたというような、なんともいえない表情になる。そう見えるのも弟子たちだけであって、傍から見るといつもの仏頂面だったけれど。


「リディアの苹果のパイが好きみたいだし、たくさん焼いてあげたら」

「ん。そうする」


 訳知り顔のアデルが立ち上がる。パイのひと切れに交わされた約束のことなど知らないリディアは、よっしゃ、とベンチから腰を上げてスカートの裾を翻した。

 家のなかからジャンが顔を出して、いつもの刺々しさはさすがに控えた様子で手を振っている。


「ババアがメシ作ったから食えって」

「わーい! ジャン足もう治った?」

「見りゃわかんだろバカリディア。お前も教会の人に治療してもらえばよかったんじゃねえの」

「なにを? わたし二人のおかげで無傷だったのに」

「頭診てもらえ、頭。絶望的な魔術センスのなさの原因がわかったかもしんねぇ」


 ぴきっ、とリディアの笑顔が引き攣った。


「……もーいっかい言ってみろバカジャン! 心配して損したー!」

「うわっ。化け物がいる」

「はああああっ!?」


 ジャンがばたんと家のなかに立てこもる。アデルがやや荒っぽい方法で開けたあとイルザークによって修復されたばかりのドアを、リディアは蹴破らんばかりの勢いで突撃していった。

 ガタガタとドアノブを回してみるが向こう側で押さえているようだ。なんてやつだ。


「ちょっと二人とも、ドア壊さないでよ」

「アデルが言えたことじゃないけどね!」


 アデルがくつくつと笑いながらあとをついてくる。開かないドアを眺めたあと、珍しく愉快そうに口角を上げると、「ジャン」と小首を傾げた。


「言い忘れていたけど、ぼくも《バルバディア》に通うことになったからよろしくね」

「はあああああっ!?」

「開いたよ」

「ナイス、アデル」


 どこまでも素直なジャンが開けたドアの隙間を通って家のなかに潜りこむ。

 ジャンはそれどころではないらしかった。


「ふざ……ふざけんなこの陰険眼鏡! 来んな! なんでそんな話になってんだよ!!」

「まあ、色々あって……。お互い善き魔法使いを目指して頑張ろうね」

「触んな糞野郎! 偉大な魔法使いになるのはこの俺だわ燃やすぞ!!」

「はいはい」

「いやいやアデルのほうがずっとずっと優秀な魔法使いになるから!」

「魔術も使えねぇ暴力女は黙ってろ!」

「あーっ! そういうこと言う!?」




「あんたたちいい加減にしなさい!」との叱責ののち、こどもたち三人がしんとなる。

 けれどすぐにまたわいわいと言い合いがはじまり、ココの家には賑やかな笑い声がいっぱいに満ちていた。生前は静かなこの家でひっそりと暮らしていた彼女だが、きっとやかましいこの光景も、花のような笑みを浮かべて見守っているに違いなかった。


 ベンチに腰かけ脚を組み、イルザークは天海のくじらの残した軌跡を仰ぐ。

 穏やかな風が頬を撫でる。

 春のにおいがした。


 その横をひらりと泳ぎ過ぎた若草色のちいさな蝶は、こどもたちの朗笑を喜ぶかのように翅を揺らして、そっとベルトリカの森のなかに身を隠した。




おしまい

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魔法使いのナーズ 天乃律 @amanokango

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