第5話 世界の起源を知るくじら
空気が震える気配にイルザークが視線を流すと、ココの微笑みとかちあった。
ぱたり、手元の本を閉じる。
ココはすこし眩しそうに目を細めると、布団のうえに頭を預けてくぅくぅと寝こけているこども二人に気づき、また笑った。
薄い皮膚が音を立てて皺をつくる。
死に近く、美しい表情だった。
「ずっと、ついていてくれたんですか」
こどもたちを起こさないよう、極めてささやかな声で問う。
イルザークは視線を逸らして答えなかった。
あくまで生きる世界を二人で話し合って択ぶべきだと考えたイルザークの手によって、この家からぺいっと追い出されたこどもたちは、小一時間ほどしてから二人一緒に帰ってきた。
かつて《黒き魔法使い》として名を馳せた者のもとへ。
地上を脅かす〈魔王〉再来の恐れを常に孕む、けっして無垢清浄ではない世界へ。
それでも一応リディアは〈穴〉からもとの世界へ戻ってみて、アデルは彼女をこちらに呼び戻したらしい。
世界を越えるということはそうほいほい気軽にできることではない。二人はココの様子を見にくるや否やコテンと寝入ってしまったのだった。
二人には言えなかった。
おそらく容態が好転することはないだろうと。
もしかしたら察しているかもしれないが、言葉にして突きつければきっと泣く。イルザークは昔からこの弟子たちが泣くのが苦手だった。いつもやかましいリディアが声を殺してぽろぽろと泣くさまも、その横で涙を我慢したアデルがあとでこっそりと震わせる背中も。
苦いものが肺の底に居座っている。
そんなイルザークを見上げて、ココはうふふ、と楽しそうに笑みを零した。
「……気分はどうだ」
初めて出会ったときはほんの少女だったココは、先生、先生と町に下りるたびイルザークの足にまとわりつき、徐々に大人びて、イルザークの外見の年齢を追い越し、結婚して母となり、穏やかに老いた。
それでも源の部分は変わらぬ、道の端に咲く一輪の花のような微笑み。
ココは静かにうなずく。
「悪くないですわ。ふしぎと」
「重ければ起こす」
それが弟子ふたりを指すと気づいたのか、今度は僅かに首を振った。
「いいえ、どうかこのままで」
「…………」
「なんだかわたし、いま、とっても幸せなの。先生」
イルザークはそっとまつげを伏せる。
なにも気づいていないリディアとアデルの穏やかな寝息だけが、死の神の足音を掻き消していた。
「先生……」
「ああ」
「わたしはこの子たちに会えて幸せでした……」
吐息にも似た声に耳を寄せる。肩から滑り落ちた自らの黒髪がココの額にかかったのが無性に腹立たしく、眉を寄せて掻き上げた。
「あの人と一緒になって、やっと生まれた子が魔王に殺されたとき、わたし頭がおかしくなりそうで……ほんとうに……」
「……ああ」
ココもその夫も魔力はごく少ない体質をしていて、生まれた子は只人だった。
オクを出たその子は、別の都市で大工見習いとして働いていた。只人ゆえの苦労も苦悩もあったろうが、必要に応じて器用に魔術を使う少年だった。
そして彼が住んでいた都市は魔王軍による侵攻を受けて跡形もなく消えた。
もう三十年ほど昔の話である。
そうして続くように夫も病に斃れた。イルザークが診て、最期も見届けた。
「でも、あなたが傷ついたこの子たちを連れてきてくれて、大きくなってゆくこの子たちを見守らせてくれて」
ココはそこでくたびれたように息を吐いて、吸った。
「悲しみと憎しみだけに心を委ねなくてよかった、この六年、わたしはほんとうに幸せでした」
「そうか」
世界で一番重たいものを持ち上げるかのように、ココがゆっくりと、布団のなかにおさめていた左手を差し出してくる。
迷いなくその手を取ったイルザークは、掌のなかに、ちいさな石ころがひとつ落っこちたのに気がついた。
この世の人びとの躰のなかに在る、魔素を自らの魔力として蓄えるための器官、普段は心臓の影にかくれているといわれる〈魔石〉だった。
人々の魔力の源。
持ち主の意思によって躰から取りだすことができるが、そうすると持ち主は魔力を喪って只人となり、魔石をなかに戻すことはできない。
自分のなかに戻すことができない代わりに、他者が吸収することはできる。
魔法教会からはあまり推奨されない、魔力の譲渡というものだ。
「わたしの魔石などでは、たいした力にはならないでしょうが」
「ココ……」
「もしもリディアが望むのならば、そうしてあげてください。わたしはもっと早くにこうするべきだった。息子に、あげるべきだったのです。そうすればあの子は死ななかったかも……ふふ、言っても戻らない、仕方のないことですけれどね」
明け渡されたココの魔力の源ごと、彼女のかさついた薄い手を握る。
ほんの少女だったときから見守った。
どうして愛おしく思わずにいられるだろうか、この優しく、嫋やかな魂を。
「ねえ、どうか、あの子たちが幸せに生きられるようにしてあげてくださいね」
「……ああ」
「たとえほんとうの親子でなくても、あの子たちの笑顔を見られるだけで幸せで、魔力があってもなくても、わたしたちは家族で、こんなにも愛していると、どうか……」
ココは最後まで口にせず、ただにこりと笑った。
六十年前、ベルトリカの森のなかで迷子になって転んで泣いていた八歳の少女の面差しが、あまりに眩しい。
イルザークは深く項垂れた。
彼女の永遠の安息と憩いを願い、数ある魂のうちたったひとりの彼女と出会わせてくれた、世界の起源を知るくじらの恵みに感謝を表し、深く。
──深く。
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