第14話 慈悲も容赦もない

 慇懃に態度を改めて一礼したエレイルの、まるで日本で語られた童話のなかの悪魔のような姿かたちに、リディアは眉を寄せた。

 一方のイルザークは、エレイルの語りかけを特に否定することなく彼の黒い翼を睥睨する。


「これは一体なんの真似か」

「賤しくも《黒き魔法使い》を名乗る不届き者を始末しにきたついでに、目障りな元勇者と旧交を温めていたところでございます」

「…………」


 イルザークが音もなく振り返ると、ザジは無言で肩を竦めた。

 黒き魔法使いに、元勇者。

 一体どういうことかとアデルに視線だけで訊ねるが、彼も詳しくはわからないらしく首を横にする。


「下手な芝居は止せ。虫唾が走る」

「芝居とは全く心外」

「《黒き魔法使い》と呼ばれた魔王の第一麾下は百年も前に魔王軍から追放されている。そんな化石のようなものを名乗る阿呆が現れた時点で貴様らの仕組んだ茶番だということは知れていた」


 エレイルは笑みを保ったまま無言でいた。


「大方新たな《黒き》と成り替われとでも甘言で惑わし魔力を与えておれを殺しておこうという算段であったか。それをこども三人に撃退されたので焦って出てきたのだとすれば心中察するぞ。エレイル」

「ふふっ、アははハははハハは!」


 甲高い哄笑が空気を震わせる。

 ぴり、と声に乗って飛んできた瘴気が肌を刺した。エレイルは額に手をやって仰け反りながら高く笑い、笑い、まだ笑って、「ははははは……」と最後は吐息を洩らすと、狂気めいた動きで顔を上げる。


「いやだなぁ! 魔力を与えたとはいえあんな虫けらがあなたを殺せるわけがないじゃないか! いやいや、百年見ないうちに冗談が巧くなったよね! 殺そうと思ってたのはそこの餓鬼二人だよ!」


 再び、ぴりりと肌を刺すものがある。

 エレイルのざらついた瘴気ではない、もっと底冷えするような魔力だった。まさかとは思ったがその主はイルザーク以外ありえない。


 リディアたちの知る師は、夜の闇から生まれ落ちたかのように静謐で、ひと気のない湖の水面のように冷淡で、それでいて不器用に優しい一介の魔法使いだ。

 こんな殺意の片鱗を覗かせるイルザークを、二人は知らない。


「陛下の復活に際して邪魔となりそうなものは切り落としておくに限ると思ってね。あなたを捜してみればなんとまぁ、森の奥で隠居しているどころか只人の餓鬼を二人も育てているときた! 三日三晩笑いが止まらなかったよ! いやほんと、死ぬかと思った!」

「そうか。ならばそのまま死ね」


 魔法を行使する予備動作すら目で追えなかった。リディアが気づいたときにはエレイルの姿は消えていて、彼が一瞬前まで立っていた場所には黒い炎が叩き込まれていた。

 三人で力を合わせて倒した自称・《黒き魔法使い》のものによく似た、しかしそれより遥かに物騒で、凶悪で、獰猛な黒炎が爆ぜる。

 容赦なく石畳を抉り、衝撃で地面が揺れ、熱風がリディアたちの頬にまで届いた。

 黒い翼を羽ばたかせて宙に逃げたエレイルの左脚が、ない。


「急患が待っているのだ。とっととそこを退け、青二才」

「老害が……! 百年の引きこもりはとっとと退場しろ!!」


 すさまじい魔法の応酬が始まった。

 本来のあるべき姿、よりよい生活のための知恵という用途の欠片もない、ただ相手を消し去るための攻撃魔法が続けざまに繰り出される。エレイルの瘴気を纏った黒い雷を、イルザークの右手がこともなげに受け流す。イルザークが放つ黒い炎は宙を逃げるエレイルの体を少しずつ削った。


 アデルが一瞬で負けを理解した、オルガでさえ歯が立たないと判断したあのエレイルに、年中引きこもり研究者であるはずのイルザークが明らかに優勢をとっている。

 イルザークは魔力にものを言わせて強引にエレイルを追い詰めた。

 最初に灼かれた左脚、次に貫かれた右の翼、抉られた左脇腹から、ぽろぽろと魔力が零れ落ちているのがリディアたちにも視認できる。


「先生……」


 そうつぶやいた自分の声すら、誰か他の人のもののように聞こえるほど、その光景はリディアの理解の範疇を超えていた。


 羽虫を潰すように贋者の《黒き魔法使い》を破裂させたエレイルが、蛾を払うようにイルザークにあしらわれている。

 冴え冴えとした殺意の刃はついに悪魔の喉元に迫った。

 普段ほとんど指や杖で指向性を定めることのなかったイルザークが、青白い人差し指でエレイルを捉える。


「ばかな……」


 炎のかたちをした魔力の刃が、エレイルの胸から下を根こそぎ焼き尽くす。

 思わず顔を逸らしたリディアの肩にアデルの手が回された。


「……百年間おれがなんのために引きこもっていたか特別に教えてやろう」


 イルザークはいつも通り、抑揚のない平坦な声で低く呻く。

 ただその黒亀石の双眸に、エレイルにしか見えなかった激情を灯して。



「魔王を、今度こそ確実に、殺すためだ……!」



 再びエレイルは高い笑い声を上げた。


「ふふ……それでも復活は止められないよ……世界はもはや破滅の下り坂の天辺にある……終結しつつある魔王軍がいまに貴様を殺しに来る!!」


 イルザークはなんの感慨も見せず、再び人差し指で照準を定める。


「――魔王陛下万歳!!」


 それが彼の、断末魔の喚声となった。

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