第13話 この血はすべて自分のものではない
水のなかを流されるような一瞬の感覚ののち、リディアが打ち上げられたのは森のなかだった。
イルザークと、シュリカ、そして見知らぬ魔法士の数名が行軍するその目の前だ。突如地面から溢れ出たしろがねの魔物、その口に咥えられた少女の姿を見て、討伐隊に緊張が走る。
そんな周囲の様子が全く見えていないリディアは、肩で息をしながらオルガを振り返った。
負傷したオルガは、傷口から夥しい血を流しながら、その巨躯を横たえる。
「オルガ! どうして!?」
「アデルと約束をした。あれが動けないときにはおまえを守らなければならないと」
「なんでそんな――アデルが死んじゃったら何も意味ないのに!!」
絶叫したリディアは激しく頭を振り乱しながらオルガを叩く。その手にはジャンの血がついていた。オルガが流すどす黒い血と混ざって肘の先まで濡れていく。
その手首を、病的に青白い男の手が握った。
「リディア。なにがあった」
「先生っ……」
イルザークの漆黒の髪が頬にかかる。傍らに膝をついたシュリカが「リディア、この血は!?」と慌てて怪我の有無を確認しはじめた。
この血はすべて自分のものではない。
無傷な自分が、身を灼くほど憎い。
シュリカの優しい手を振り払って、悲鳴交じりにイルザークに抱き着いた。
「先生、助けて……!」
「…………」
イルザークが黒亀石の双眸を僅かに丸くする。
ただならぬ弟子の様相からして不在の隙になにかが起きたことは明白だった。それも、最悪のたぐいの。
「わたしが言いつけを無視して外に出たから、ジャンが、わたしが怖くて動けなかったからアデルが、ごめんなさいっ、ごめんなさ……」
「わかった」
イルザークがリディアの体を抱え上げる。
狂ったように「ごめんなさい」と繰り返すちいさな少女を、痛みで正気に戻すように強く。
「わかった。助ける」
は、とリディアが顔を離した。
ふたりが初めて出会ったあの日にも、交わした言葉だった。
ぞ、と肺腑の底からあらゆる恐怖と絶望が這いあがる。足を斬られて立つこともできなかったジャン。リディアを逃がすために微笑したアデル。死の神はいつだって理不尽に誰かの大切なものを刈り取りにやってくる。あの少年の手のなかで息絶えた〈鳥〉。倒れていたココ。
一度、大きくしゃくりあげる。
――泣き崩れたい自分を叱咤するように頬を叩くと、イルザークの頭にしがみついた。
「ココおばぁちゃんが危篤で、メイベルさんを呼びに行こうとしたら《黒き魔法使い》に出くわしたの。アデルが木の檻に捕まえたけど、そのあと男の子が急に現れて、オルガの傷はその子に……」
そうだ。
こどもたちを庇って大怪我をしたオルガを、この愚かな手は責めたのだ。
ぽろぽろとリディアの眦から流れはじめた大粒の涙がイルザークの蟀谷を濡らす。
その涙の感触に気づいたイルザークの目が、冬の湖の底のように冷え冷えと冴え渡った。気配に敏い魔法士が二人、その氷の刃に触れて後退る。
「『男の子』……」
低いつぶやきが、イルザークの唇から漏れる。
その響きにシュリカでさえ口の端を引き攣らせた。ここまで怒っているイルザークは、長いつきあいの彼でさえ初めてだった。
「……そうか。おまえを泣かせたのはエレイルか……」
音もなくぞんざいに伸ばされた腕が示す先に立っていた、銀髪の魔法士が目を丸くする。
シュリカは彼を目で追った。先程まで《黒き》の目撃情報を辿って先陣を切って歩いていた年若い青年だ。位は〈魔道士〉で、同僚からの信頼も篤いらしいとシュリカは感じていたのだが、イルザークはその掌から容赦ない魔力の刃を放つ。
青年の体が木端微塵になり、銀髪がはらりと宙を舞った。
あまりにも自然な動作だったので誰も事態に追いつけていなかったが、銀髪の青年の躯が黒く腐り落ち、最後に黒い影となって空気中に溶けたところで、全員がイルザークを見つめた。
「イル……」
「こいつだ」
「それならそうと言うとかだな、もっとこう、やり方というものが」
「シュリカはオルガを」
「……ああ……わかったよ……」
「おまえたちはあとを追ってこい。オクだ」
呆気に取られた様子で眺めていた討伐隊には短く言い捨て、イルザークは弟子の一人を腕に抱いたまま、自らの影に溶けた。
「ごめんなさい、先生――」
なお繰り返すリディアの涙を拭うように蟀谷をすりあわせる。
暗い闇のなかを泳ぐように、イルザークは影のなかを渡った。影渡りの澪標となるべき魔力をアデルは持たないが、その代わりに、覚えのある魔力同士がぶつかりあっている。
ずるりと地上に身を躍らせた瞬間、左右から魔法が襲い掛かってきた。
ザジの剣から放たれた雷と、エレイルの従える黒い瘴気と。
チ、とリディアの耳もとにちいさな舌打ちが聴こえた。
まるで薄い木の板でも割るかのような軽快な音とともに、激しく衝突しようとしていたザジとエレイルの魔法が跡形もなく霧散する。
「イルザーク……!」
そう低く呻いたのは、ザジだったのか、エレイルだったのか。
リディアの認識が追いつくよりも先に、師は彼女の体を地面に下ろした。すこしふらついたが、頭をついっと押されて走りだす。ザジに庇われるかたちで座り込んでいたアデルのもとに突進していき、その華奢な体に思い切り飛び込んだ。
一度強く抱きしめて、離れる。
アデルは生きていた。ジャンも、顔色はさすがによくないが、追加で怪我をしている様子はない。いまは身を起こしてアデルに凭れかかっていた。
無言で再会を実感するこどもたちから少し離れて、因縁を抱えた三人が睨みあう。
「これはこれは……、《黒き魔法使い》どの。大将軍閣下。百年ぶりでございますな?」
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