第9話 只人は人間じゃない

「ぼくはね、昔むかしあの人に弟子にしてほしかったときがあるんだ。彼は本当にすごい魔法使いなんだよ。世間は魔法薬のスペシャリストと称しているようだがとんでもない。イルザークどのはあらゆる魔法に精通する、文字通りの大賢者だ――」


 リディアは思わず怪訝な顔になって男を見やった。

 イルザークが魔法薬のスペシャリストであることは周知の事実だが、あらゆる魔法に精通する大賢者などと称讃されるような姿を見たことはない。確かに、結界だの転移だの浮遊だのといった高位の魔法を大盤振る舞いするし、どうもかなり長く生きてはいるみたいだけれど。

 そんなリディアの様子など目にも入らぬようで、男は恍惚と天海を仰ぐ。


「彼ならばぼくの研究も認めてくれると思ったのに……、がっかりだったな。天海のくじらの三原則なんてものを律義に守るような人だったなんて。あ、天海のくじらの三原則ってきみ知っているかい? 魔法の使えない只人には関係ないだろうけど」


 莫迦にされた気がする。


「ひとつ死者を蘇らせるべからず。ひとつ時を渡るべからず。ひとつ魔力を譲渡すべからず」

「そう。只人なのに賢いね!」今度こそ盛大に莫迦にして男は続けた。「大体、天海のくじらは言葉を持たないというのに、三原則だなんて誰が決めたんだと思う? これこそ人間だよ。この世の普く流れを巡らせる全ての源、魔素、本来ただそこに在るだけの力に禁足事項などもとよりあるはずもない。言葉によって秩序を定めるのはいつだって人間だ」

「天海のくじらを騙って、誰かが世界の規則を定めたということ?」

「そう。そしてそんなことをする必要があるのは、この世の魔法使いを管理する魔法教会だけだ。解るね。解らなくてもいいよ。――イルザークどのなら解ってくれるんだと思ったのになぁ。彼もまた教会に隷属する魔法使いの一人だったというわけだ」


 ジャンが目を瞬かせた。

 男の弁舌にではなく、リディアがずっと感じている、こちらに近づいてきている、地面の振動に。


「えぇと、なんの話だったかな」

「どうしてわたしたちを殺しにきたの? っていうお話よ」

「そうそう。イルザークどのに弟子入りを断られて途方に暮れていたぼくを拾ってくれた人がいてね。ぼくは魔力の大きさはそう際立っていなかったんだけれど、彼はぼくに強い魔力を分けてくれたんだ。魔力の譲渡もまた莫迦らしい三原則に禁じられているがそれ自体はとっても簡単なんだよ。きみだって本当は魔力を分けてくれる人さえいれば人間になれるんだ」

「わたしだって人間だよ」

「只人は人間じゃないよ。人間なら魔法を使えるもの」


 心底理解できないといった口調の男が首を傾げる。

 その拍子に、フードの脇から銀髪が零れた。


「その人がねこう言ったんだ。ベルトリカの森に住むイルザークを殺してくれたら、魔王軍の第一麾下にしてやるって。魔王陛下への忠誠を示すために、手始めに目障りな只人の弟子を殺してこいって。だからきみともう一人をここで殺して、そのあとイルザークどのを殺しに行くね」


 ニコ、と男の口元が笑みを描く。

 成る程、イルザークが頑なに「自称・《黒き魔法使い》」と呼ばわるわけだ。――彼は本物の魔王軍の麾下には、まだ、なっていないのだ。

 かたかたと続いていた地面の振動が荒くなる。

 その瞬間、すぐそばの建物の影から、大きな魔物が這いずり出でた。オルガは大地と影を司る魔物。大地のなかを移動することも、影を渡ることも自在だ。


 その気配を察知した男が、リディアの肩を抱いていないほうの手を振るった。

 その拳に当たった小瓶がぱきゃっと軽い音を立てて砕ける。

 中に入っていた粉末が空気に乗ってふわっと拡がった。色は赤、目は少し粗い。即座にその成分と効能を理解したリディアは血に濡れた手でジャンの鼻と口を塞いだ。


「ぐ……」

「息、止めてね」


 地面に倒れた彼の体に覆いかぶさるその横で、ぐるんと目を回して卒倒した男を、続けざまに魔法が襲った。


「いと慈悲深き木の神、木の精、木の御子、その加護を与えたまえかし……!」


 謳うような祈詞と、地響きはほとんど同時に起こった。

 オクの町の石畳を突き割って地中から現れた木々、その根、その枝えだが、蛇のように蠢いて男を捉える。体を拘束し、何重にも巻きつき、やがて蚕の繭のような檻をなす。

 一瞬のできごとだった。

 呆然としているジャンとともに木の繭を見上げていると、その影からひょっこりと銀色のオオカミが顔を出す。

 その少し上にはアデルの顔も。


「ベルトリカの森に広く分布する春ベリーの実は、乾燥させて粉末にすることで強力な睡眠薬になる。シラカバでその効き目を仲裁しなければならないほどにね。ついでに木の精霊たちの大好物……まあ、こんな物騒な相手に使うことになるとは思っていなかったけど」

「……アデル!」


 身を低く屈めたオルガから降り立ったアデルが脚を引きつつやってきた。

 石畳に滲み込んでどす黒くなったジャンの膝から下に目をやり、痛みを思い出すように瞳をぎゅっと歪めると、肩掛けかばんから瓶を取りだす。


「これ、鎮痛剤。とりあえず飲んで」

「……なんでおまえがいる」

「オルガのおかげ。不審者とジャンの魔力がぶつかったのに気づいてくれたから。……ああ、これくらいなら大丈夫、ちゃんと先生の治療を受ければ治るよ」

「本当っ?」


 アデルに渡された小瓶を見下ろし、なんだか悔しそうに顔を歪めたジャンは一息に中身を飲み干した。

 その様子を見て安堵していたアデルの腕に縋りついたリディアは、「ほんとう」と繰り返された片割れの穏やかな声に、細く長く息を吐く。


「よ、よかっ……」

「うん。〈鳥〉はもう飛ばしたね」

「メイベルさんと、ウォール医師せんせいと、先生のところに」


 腰が抜けて動けないリディアの代わりにアデルはてきぱきと動いた。

 鞄の紐をナイフで切ってジャンの止血にかかる。薬効はそうすぐ表れるわけでもないから、すこし動かすと声にならない悲鳴を上げて悶絶していたが、元気な腕でアデルをぼかぼか殴りつけるあたりまだまだ体力はあるらしい。

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