第10話 もう要らない

「ココおばぁちゃん、風邪をこじらせたみたいなんだ。熱が高かった。すこし意識が戻ったから、とりあえずベッドに入って寝てもらってる」

「~~~っ、ココばぁ、なんかあったんかよ」

「〈鳥〉が飛んできたんだ。二人で慌てて家に向かったら倒れてた。リディアにメイベルさんとウォール医師を呼んでもらいに行ったんだけど、……失敗したな」


 アデルは《黒き魔法使い》が弟子ふたりを狙っていることに気づいていた。

 執拗な使い魔による嫌がらせ。弟子たちに視線をやって、まとわりつくように寄ってくる、あのかみそりのような引き笑い。弟子たちにちょっかいをかけることによってイルザークに警告しているようでもあった。

 だから家から出ないようにとリディアを止めたのだ。

 そうしたら彼が行動に移すかもしれない可能性があったから。


 リディアは自分の浅はかな衝動を恥じるように身をちいさくしていく。ココの体調のことをきちんとイルザークに報告しておけば、また変わったかもしれない。家を出るとき、もっとアデルの忠告を聞いて慎重に薬品を択んでおけば。もしものときのために、もっと武器になるものを備えておけば。


「ジャンが来てくれてよかった。じゃなきゃリディアは死んでた」


 ――だけれど、そのせいで彼はこんな怪我をした。

 途方もなくおおきな後悔と絶望は、六年前、はじめてこの世界の風を頬に浴びたあのときと、僅かに似ている。

 ジャンの手を握った。痛みに浮いた脂汗。

 こんな怪我をしてなお、この友人はリディアを逃がそうとしてくれた。


「ジャン……、この間のマフィン、食べたよ」

「ハ? ンだよこんなときに」

「美味しかった。わたしジャンの焼くパン、好きなの。おいしい。みんなの好みに合わせてくれるよね。またみんなでピクニックしようよ」

「お、おー」

「《バルバディア》に行っても、たまに帰ってきてね。もう会えないなんて嫌だよ……」


 これだけの窮地に、好きな女の子に手を握って泣きそうな顔で懇願されたジャンはそれでも理解していた。

 この鈍感娘は本当に、本気で、他意を含まぬ、言葉通りの意味でそう言っているのだと。

 がくり、項垂れる。


 アデルが不憫なものを見るような目でジャンを眺めた。やかましい、と言わんばかりにもう一発脇腹に拳が入る。


「……言われなくとも長期の休みには帰ってくるし入学は秋だボケ」

「秋ぃ? まだまだ先じゃん! なんだびっくりした」

「だから『なんでこんなときに』っつったろうが! 耳ついてねーのかバカリディア」

「あっ、またバカって言う……」


 過ぎ去った危機に、三人の心が緩んだ、そのときだった。



「へえ。見事なものだなぁ」



 ぺたり、《黒き魔法使い》を捕えた木の繭に掌で触れた少年が感心したような声を洩らす。

 リディアとアデルは咄嗟にジャンの体を隠すように並び立った。気配に気づかなかった。オルガでさえ警告するいとまもなかった。一拍遅れて二人の横にその巨躯を並べたオルガは、低く、低く地の底から響くような唸り声を上げる。

 銀色の毛が残らず逆立った。


「貴様は……」

「やだなぁ、そんなに威嚇しないでよ、怖い怖い」


 これっぽっちも怖いと思っていなさそうなとぼけた表情で、少年は首を傾げる。

 見れば見るほど普通の男の子だった。


 リディアたちよりはすこし年下で、雑踏に紛れれば見えなくなりそうなほど小柄だ。イルザークに似た漆黒の双眸は大きく、白目の部分が極端に少ない。どこにでもいそうな町の子然とした容貌をしている。

 だが、とアデルは心内で舌打ちを零した。

 にぃっと口角を釣り上げたその顔は、あの黒い使い魔の、刃のような笑みとそっくり同じだった。


「せっかく魔力を分けてあげたのに、こんな只人の子どもたちにあっさり敗けちゃうなんて。魔法教会の魔法士っていっても大したことがないんだな……」

「魔法士……こいつが?」

「あれ、気づいてなかったの。この人、《黒き魔法使い》討伐隊の一員としてこの辺りをうろちょろしていたはずだけど」


「あいつか……」アデルの脳裡に過ぎったのは、リディアが〈穴〉に落ちたあの日、イルザークを訪れていた魔法教会の二人。

 ――アデルの黒髪を見て僅かに侮蔑を浮かべたほうの若い男。

 顔も見ずに眠らせて檻に閉じ込めたから気づかなかった。リディアは彼と面識がない。


「弟子を殺せばあれの顔色が変わるところを拝めるかと思ったのに、とんだ見込み違いだ。もう要らないや」


 にこやかに少年が言い終わった瞬間オルガがこどもたちの上に覆いかぶさった。

 あれほど強固に作ったはずの木の檻が、卵の殻のような脆さで破裂する。ぱん、と軽い音がして、その軽さと不釣り合いなほど勢いよく鋭利な破片が飛散した。なかに混じったどす黒いものはびしゃりと音をたてて平和なオクの石畳を汚す。

 こどもたちを庇ったオオカミの肩口に一際大きな木の枝が深々と刺さっていた。


「オルガ……!」

「ああそれから、さっききみたちが飛ばしていたちゃちな〈鳥〉だけど」


 少年はこてん、と小首を傾げて右手を開く。

 ジャンの朱い魔力の通った鳥が三羽、そのなかで息絶えていた。


「どれがイルザークのところに行くのかわからなかったから、全部殺しちゃった。ココおばぁちゃんが危ないんだったっけ? 手遅れになったらごめんね」


 ――あんなに走ったのに。

 ジャンに大怪我をさせてまで飛ばした鳥が三羽とも。

 イルザークが来てくれる、その望みが根こそぎ潰えた。

 いますぐにでも怒りのまま掴みかかりたかった。それでも、魔力をちっとも感じないリディアでさえ身が竦むほどの、絶対的な彼我の差がある。

 がたがたと震えるリディアの指先を一瞥したアデルが、唇をほとんど動かさないまま囁いた。


「……オルガ。苹果の約束、いいよね」

「アデル、だが」

「お願い」


 短く、切り捨てるように言葉を投げやり、アデルは鞄のなかに潜ませていた小瓶を一つ、楽しそうにこちらを窺う少年めがけて放り投げた。

 次に取りだしたのは鉱石。「いと慈悲深き炎の神ラウラ――」オルガはその祈詞を耳にしながらリディアの体を咥える。

 はっとリディアが気づいたときには、一人と一頭の体は、影のなかに溶けこもうとしていた。


「オルガ、待っ……」

「その加護を与えたまえかし」


 紅い炎が立ち昇る。

 リディアの悲鳴はオルガの影のなかに消えた。

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