第2話 朝の光は黄金色の柱

 すぅっと、意識が浮上した。

 いままでずっと忘れこけていたかのように、体が呼吸を思い出す。リディアはときどき、眠っている間にも自分の体が欠かさず息をしていることが、ひどく不思議になる。

 昔の夢を見ていたようだった。

 この世界に満ち満ちた魔素はたまに人びとの記憶を揺さぶり起こす。だからこちらの人たちは、昔のことを夢に見ることが多いそうだ。


 体の右側を下にしていたリディアが視線を動かすと、アデルのほっそりとした背中が目に入った。起き上がった体勢のまま静かに遠くを見つめている。

 寝間着に浮いた背骨を、ひとつ、ふたつ……と心のなかに数えてみた。

 生成のやわらかいカーテンから朝の光が差しこんでいる。

 光の柱が黄金色に輝き、ちらちらと舞う空気の粒を照らす。アデルの黒髪が弾いた金の光は、やさしくリディアの目を刺激した。


(ああ、きれいだな)


 きらきらとひかるアデルのすべらかな頬の輪郭をぼうっと見つめていると、彼はこちらに気づいて、そっと首を傾けた。


「おはよう。リディア」

「おはよう、アデル。いい天気だねぇ」


 目を細めると、彼は花のような笑みを洩らしてカーテンに手を伸ばし、隙間をなくすように端と端を整えた。どうやらリディアが眩しがっていると思ったらしい。


(べつに、よかったのにな、そのままで)


 大きく息を吸いこんで、そのまま両腕を伸ばして指先から起こしていく。


「リディアの今日の予定は?」

「んー、メイベルさんのところにお薬の納品と、ココおばぁちゃんのところに配達。アデルは?」

「ぼくは買い物。パンとお肉。帰ったら倉庫の在庫の管理」

「じゃ、一緒にお出かけだね。サンドイッチつくって、ちょっとゆっくりめに出発して、森でお昼にしよ!」


 体を起こしながら提案すると、アデルはわずかに目元を緩めた。


 一日の予定が定まったところで寝台から下り、アデルの部屋を出て自室へ戻る。

 弟子二人の部屋は、木と煉瓦とでできたこの家屋の二階に割り当てられていた。南側に書斎、アデルの部屋、調合室と並び、北側にはベランダ、倉庫、リディアの部屋。立派な寝台が自分の部屋にも置いてあるのだが、毎夜アデルの隣に潜り込んで眠る生活がずっと続いている。

 クロゼットのなかに並ぶワンピースを、右から左へ一瞥し、黒地に花柄の刺繍がされた一着を取りだした。

 寝間着を脱いで、頭からワンピースをかぶる。首のうしろに手を差しこみ、栗色の真っ直ぐな髪の毛を引き出した。

 腰まで伸びた毛先がくるんと揺れる。

 馬の毛のブラシでくしけずり、今日このあとの予定を思い出して、ちゃきちゃきと三つ編みにまとめていった。


「ココおばぁちゃんに焼くケーキ、なににしようかなぁ。ベリータルトはアデルに不評だったしなぁ」

「おれは苹果りんごのパイがいい、お嬢」


 突然ぼぼっと返事をしたのはコルシュカだ。

 卓子テーブルに置かれたランプに灯る火がゆらめいて、コルシュカのぺたりとした可愛らしいシルエットをつくっている。

 精霊のくせに人間の食べ物が好きという変わり者の火蜥蜴に、リディアは笑いながらうなずいた。


「あはは、苹果ね。わかった」

「わーい」

「じゃああとで竈をよろしくね」

「おう、任せろぃ」


 着替えたリディアが一階に下りると、一足先に下りてきていたアデルが開けた窓から、朝のとうめいな風が吹きこんできていた。

 階段を下りた先には師イルザークの私室がある。ぴたりと扉に耳を当ててみたが、動く気配はない。イルザークはいつも夜遅くまで魔法の研究をしているので朝が遅いのだ。寝起きも悪い。無理に起こそうとして、フクロウ姿のシュリカが羽根を毟られたことがある。


「おはよう、先生」


 それでも声だけはかけておいて、リディアは台所の勝手口から家の裏に出た。

 井戸のそばにはアデルの姿がある。汲んだ水を手桶に移し、顔を洗っているところだった。

 この井戸は、二人がこの家で暮らすようになってから、イルザークが町の大工に頼んで作ってもらったものだ。イルザークなら水魔法で事足りるが、只人であるリディアたちにはそうはいかない。人力で水を調達できるようにしなければならなかった。


「コルシュカがね、苹果のパイがいいって。アデルもそれでいい?」

「ん。いいよ」


 手拭で水けを取ったアデルが頭を一振りすると、髪の毛から水滴が散ってくる。

 その横でリディアも顔を洗って、口を漱いで、それからよく晴れた天海を見上げた。六年経っても、海が晴れている、という感覚はまだしっくりこない。雲ではなくて白い波だという教えも。

 それでも天海を泳ぐくじらを見かけるたびに、ああやはりあそこは海なのだと、実感せざるをえなかった。


「朝ごはん、なににする」

「うーん、卵! ハム! パン!」


 弟子ふたりの毎日は、生きるための当たり前をこなすことで大抵は暮れてゆく。

 朝起きて、ごはんを食べる。洗濯と、掃除をする。お昼を食べている頃にイルザークがのそのそ起きてくる。畑で栽培している野菜や花壇の花々のお世話、森のなかの薬草園の管理と手入れ、イルザークによる勉強の時間、簡単な魔法薬の精製、日が沈み始めた頃に夕飯の準備を始める。明日の仕込みや湯浴みを済ませたあとは、アデルは読書、リディアは編み物や裁縫をして、眠りにつく。

 イルザークの作る魔法薬はたいへん評判がよいので、オクの町の薬屋でもよく扱われている。そのため納品に出掛けたり、あるいは患者の家に直接配達したりもしていた。今日はそういう日だ。


 朝食を済ませたあと、リディアはコルシュカのご希望である苹果のパイを焼いた。

 アデルはその隣で昼食になるサンドイッチを作っている。自分たちが食べるぶんはバスケットに入れて、起きてきたイルザークが食べられるように、一人分は皿に載せておいた。

 納品と配達用の魔法薬をそれぞれ準備して、荷造りを終えると、二人は居間の暖炉に声をかけた。

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