第二章 苹果のパイとオクの町

第1話 ふたつめの瞼

 リディアがはじめて外の空気を吸ったのは、イルザークに拾われて、ひと月が経ってからのことだった。

 彼に拾われた直後、二人は熱を出した。回復したあとは、足の怪我のぶんリディアよりも苦しんだアデルのそばで過ごした。彼がようやく起き上がれるようになると、イルザークは片腕にアデルを抱きかかえ、リディアの手をとり、当時目も当てられないほど汚かったこの家の扉を開けて外に連れ出してくれたのだ。


 雪融けの風は、まだ少し冷たかった。


 頬を撫でた空気は、濃い緑のにおいをしている。いつも通り呼吸をしただけなのに、体のなかにはもっとぎゅっと詰まった何かが取りこまれたような心地がする。──その感覚の正体が魔素マナであるとリディアが理解するのはもう少しあとのことだ。

 天海の水面を通して降りそそぐ陽射しは日本のそれより柔らかい。世界の輪郭はなにもかもがはっきりしているように見えた。


「あれはなに……?」


 アデルが指さした先を見上げて、イルザークはああ、と目を細める。

 とうめいな空に、軌跡を残しながら泳ぐものがある。

 まるで飛行機のようだとリディアは思ったが、それは飛行機よりも自由気ままだった。三人の視線に気づいたかのように、その身を悠然と旋回させると、不思議な響きの咆哮を降らせてきた。

 高くもなく、低くもなく、けれど確かにお腹の底に響いて胸に残る、祈りの歌のような旋律。


「あれは〈天海のくじら〉」

「でも、空を飛んでる。クジラは海の生き物だよ」

「そら? 天海のことを異邦とつくにではそう称するか」

「てんかい……?」


 噛み合わない知識や常識を、イルザークは億劫がることなく、一つずつ擦り合せてくれた。


「天の海。神々の住まう天上世界だ」

「神さまがいるの?」

「いる。天海に浮かぶ諸島にそれぞれ宮殿を構えて、世界を滞りなく巡らせる。天海のくじらはそれよりも旧い存在で、世界の起源を知るとされている」

「きげん、ってなぁに……」

「はじまりのことだ」


 世界のはじまりを知るくじら。

 姿かたちは見たことがあるクジラと同じなのに、全く違う生き物であるらしい。

 呆然として空を――否、天海を見上げるリディアたちに応えるように、今度はどこからか、おびただしい数の白い鳥が集まってきた。

 ちちち、ちちち、と囀りながら何千何万もの鳥が飛来し、白いかたまりになってゆく。


「あれは鳥?」アデルが訊ねた。

「鳥ではない。あれは神だ」

「あれが神さま?」リディアは胡乱に眉を寄せる。

「天海を支配する神、ラフラー。ああして降臨することは滅多にないが、世界の〈穴〉から迷いこんだお前たちの様子でも見にきたのだろう」


 はじめはたくさんの白い鳥だったラフラーは、やがてひとつのおおきな白い鳥に姿を変えた。

 イルザークの言葉通り、少しの間リディアたちのほうに顔を向けていたが、やがておおきな翼を一度羽ばたかせて飛翔していく。


「……空は海なんだよね?」


 さっぱりわけがわからない、といった風にアデルが首を傾げた。

 つまりいまのは、海を鳥が飛んだということか?


「天の海の底を抜けると、人間と精霊と魔物の棲家である地上へと降りる。天海の上に住まう神々が底を抜けてこちら側に姿を現すことを降臨という」

「だめだ……覚えられない……」


 空は海。

 海の下が地上。

 でも地上にも海がある。イルザークの曰くでは、その海の下にはさらに冥海めいかいという海があり、そこには冥界の神がいて、天界から零れ落ちたものの受け皿となっている……。イルザークは陶器のような声音で淡々とそう語り聴かせたが、子どもたちには半分も理解できはしなかった。


 きっと人には瞼がふたつあったのだ。

 日本に生きていたリディアは瞼をひとつしか開いていなかった。この世界に来て初めて、本当の目でものを見たのだ、と思った。

 そして残酷にも理解した。

 ここは日本ではない。世界が丸ごと違う。きっともう二度と戻ることはない。

 イルザークの腕に抱かれているアデルも戻れない。


 現実から逃げだしたかった少女は、少年の手を引いて、本当に世界ごと超えてしまったのだ。

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