第3話 苹果好きの魔物

「じゃあコルシュカ、行ってきます」

「おう。足元、気をつけてな、坊」

「先生のことよろしくね!」

「おう。転ぶなよ、お嬢」


 薬箱を背負うのはリディアだ。アデルは脚を引いてしまうので、割れ物、特に商品となる魔法薬を持ってはいけないとイルザークに言いつけられている。


 イルザークの家は、オクの町の南西部を広く覆うベルトリカの森の奥深くにある。

 彼は長くこの土地に住んでいるようだが、唯一その手で管理している薬草園以外にはほとんど手を入れていない。そのため動植物は自然のままに生活している。かつてアデルのふくらはぎを咬み千切ったような魔物も数多く生息しているが、いまはもうイルザークの家族である二人に手出しすることはない。


 もといた場所と較べて、多くのものごとの仕組みが異なるこの世界でも、季節の巡りは似ていた。

 麗らかな春があり、夏はそこまで際立っていないが、少しずつ気温の下がりゆく秋から、長く重い冬が訪れる。

 天海が凍り、くじらが眠りにつくと雪が降り、世界は白く閉ざされ、ただじっと目覚めの春を待つのだ。


「あ、つくし」

「天ぷらにする?」

「する! 帰りに頂こう」


 海面を通して降りそそぐやさしい陽射し、胸いっぱいに薫る緑のにおい、二人以外に誰もいない森のなかの、静寂をわずかに震わせる動物の気配。

 踏みしめる土の感じも、空気が目に見えないことも、世界の上下も左右も同じなのに、丸ごと全てがもといた日本とは違う。

 リディアにはそれが、眠っている間に自分が呼吸していることと同じくらい、ひどく不思議だった。


 しばらく歩き進めたところで、くっくるー、とおひるを告げる日鳴き鳥の声が聴こえてきた。

 こちらには正確に時を刻む時計はないけれど、朝陽が昇って沈むまでの間に日鳴き鳥が八回鳴く。人々はそれを大体の目安にしてご飯を食べたり、お店を閉めたりするのだ。

 リディアたちも一旦休憩にして、アデルのつくったお弁当を広げることにした。

 アデルお手製のパンに、庭の畑でとれた葉ものと赤桃、朝採り卵の目玉焼き、先日シュリカが持ってきてくれた燻製肉のスライスを挟んだサンドイッチだ。

 アデルが顎を上げて天海を仰ぐ。


「天海のくじらの、今日も変わらぬ恵みに感謝し、明日も変わらぬ幸いに祈りを」


 今日は見えるところを泳いでいないけれど、どこかの空から人々を見守っているはずのくじらに。

 リディアもなんとなく、手と手を合わせて続けた。「祈りを」


 二人一緒にかぷっとサンドイッチにかぶりついたとき、リディアの背後で枝を踏む音がした。

 咥えたまま振り返ると、鼻先が触れるほども近くで、おおきなおおきな魔物がリディアを見つめている。

 朝焼けと同じ色の双眸。ぴんと伸びた耳に、少し湿った鼻、鋭い牙。両耳の近くから生えた獰猛なツノ以外は、オオカミに酷似したその姿。

 迫力はすごいが、顔見知りだ。


「びっ……くりしたぁ。気配消して近づくのやめてよ、オルガ」


 金色の双眸が面白そうにきらめいた。くつくつと喉の奥で笑いながら、しろがねの毛をこすりつけてくる。


「此処まで近づいても気づかぬリディアが間抜けなだけだ」

「あっ、言ったな。間抜けって言ったな」

「本当のことだろ」

「アデルまで!」


 このオルガはベルトリカの森一帯の生態系を統べるヌシで、およそ神格に近い魔力を持つ魔物である。

 もちろんイルザークとも知り合いで、シュリカやコルシュカと同じく、弟子二人は拾われた頃からのつきあいだ。


「お弁当、食べる?」


 アデルが目元をやわらかくして、サンドイッチとフルーツの入ったバスケットを差し出すと、オルガは「苹果りんごのにおいがする」と小首を傾げた。図体はでかいが、仕草は可愛い。


「苹果はココおばぁちゃんのパイだから、ごめんね。残りはコルシュカが食べちゃったし」

「チッ……あの蜥蜴風情が」


 凶悪な唸り声を上げてオルガが毛を逆立てた。

 魔物たちはなぜか苹果が好きだ。リディアの作ったおやつはどれも美味しい美味しいと食べてくれるが、そのなかでもいっとう苹果の人気が高い。味覚の問題か、それとも苹果自体が魔力を宿す果物だからか。


「また今度ね」


 リディアは笑いながらオルガの背中を撫でた。彼はふぅと溜め息のような息を洩らして、アデルの手の中からサンドイッチをぱくりと咥える。


「町へ下りるのか」


 ろくに噛みもせずごっくんと喉を鳴らしたオルガに、リディアは咀嚼しながらうなずいた。


「うん。町で薬を納品して、いろいろ買い物をして、ココおばぁちゃんのところまで薬を届けてまた帰ってくる」

「ふむ。冬は明けたがまだ日は短い、気をつけろ」

「ありがとう、オルガ」


 お弁当を平らげてからオルガの毛並みに顔を埋める。

 少し硬い毛はちくちくするが、耳を澄ますと血の巡る音が聴こえてくる、どうしようもなく生きているこの温もりが気持ちいい。


「夜遅くなるようであれば呼べ、乗せてやる」

「わーい、オルガ大好き!」

「あ、ぼくも」

「苦しい」


 ひとしきりアデルと一緒にモフモフしてからオルガと別れて、残りわずかな町への道のりを辿った。

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