第5話 エジプトの猫女神

 アントニウスの寝室から、男の荒々しい息遣いと、女の押し殺した悲鳴のような声が漏れている。

 すでに一昼夜にわたり、アントニウスはオクタヴィアの華奢な身体を犯し続けているのだった。


「俺こそがローマを継ぐものだという証明を見せろ、オクタヴィア。人狼の紋章を俺の前に現せ!」


 やがて、オクタヴィアがまったく無反応になったのに気付いたアントニウスは、大きく息をついた。


 意識を失ったオクタヴィアを残し、アントニウスは寝台から起き上がった。結局、オクタヴィアの白い肌に紋章が浮かび上がる事はなかった。


 アントニウスは死んだように横たわるオクタヴィアの身体を眺めた。乳房を中心に指の形の痣や、噛み痕が無数に残され、下腹部には乾いた血の色も見える。

 ほとんど拷問に等しい行為の跡だった。


「やはりこいつは、ただの女なのか」

 少しふらつく足で、アントニウスは部屋を出た。

 その顔には疲労と落胆の色が濃かった。



 蒼ざめた顔のアントニウスが居間の長椅子で横になっていると、身支度を整えたオクタヴィアが奥から出て来た。

 いつもと変わらない、清楚で明るい笑顔をアントニウスに向ける。


「すみません、寝過ごしてしまいました。旦那さまは、お目覚めはいかがですか」

「あ、ああ。まあ大丈夫だ……」


「じゃあ、食事の用意をしますね」

 そういうと召使い達に指示を与え、てきぱきと料理を用意し始めた。

 そこには激しい情事の痕跡は微塵も感じられなかった。


 その姿を呆然と見つめていたアントニウスはついに悟った。


「この女は、俺がどうにか出来るような女では無いのか……」


 ☆


 煌びやかな装飾を施した柱が立ち並ぶ広間に、荘重な音楽が流れ始めた。

 居並ぶ家臣たちは頭を垂れ、王の出座を待つ。


 ひとりの女が正面に進み出た。華麗な色糸で織った布地に宝玉を飾った短衣姿の若い女だった。彼女が動くたびに、上からまとった薄衣が柔らかく揺れた。


 彼女は家臣たちを見下ろすと、軽く指を曲げた右手を、顔の横に上げた。


「にゃーーー!」

 まるで楽器か小鳥のようだと評される彼女の声が広間内に響いた。


「「「にゃーーー」」」

 家臣たちはひれ伏し、その声に和するように低く声をあげた。

 それを満足げに見渡すと、彼女は黄金でできた玉座に腰を下ろした。


 彼女がこのエジプトの女王、クレオパトラだった。


 ☆


「姉上、大変僭越ではございますが」


 彼女の後ろから声をかけてきたのは、クレオパトラの弟、プトレマイオスだった。

 この少年は姉と共にエジプトを共同統治している。

 だが、その力関係は明らかだった。黄金の玉座に座るクレオパトラに対し、彼が腰かけているのは背もたれの無い、木の椅子だったからだ。


「なに、ぷとちゃん」

 その呼び方もなぁ……少年は、ため息をついた。


「おそらく姉上は、エジプトの主神ラーの御名をお呼びになったのだと思いますが。ほら、先程の朝見の儀の事ですけど」

「ああ、そうだね。それがどうしたの?」


「実はこの愚弟の耳には、にゃー! と仰ったように聞こえたもので……」

「はあ? そんなこと言った、私?」

 クレオパトラは左右の大臣に目をやる。大臣たちも怪訝そうに顔を見合わせた。


「変なこと言わないでよ。私はネコが大嫌いなのに」

 そう言いながら膝に乗せた茶色い猫の頭を撫でている。


「いえ、その。だったらそれは」

 おそるおそる、プトレマイオスもその猫に手を伸ばしてみる。


「こら、お姉さんのスカートをめくろうとしちゃだめでしょ」

 ぺん、と手を叩かれた。


 おそらくアビシニアン種と思われるその茶色い猫は、にやにや笑いを残し、かき消すように姿を消した。



 エジプトの神話のなかで『バステト』とは太陽神『ラー』の娘と云われ、身体は人間、頭は猫の姿をしている。人に裁きを下す存在だというのだが。

「姉上はバステトの化身なのじゃないか」

 プトレマイオスは彼女の横顔を見詰めた。


「どうしたの、ぷとちゃん」

 少年の視線に気付いたクレオパトラは振り向き、笑う。

 クレオパトラの瞳孔が縦に細くなった。

 まるで、ネコのように。


 おかしい。この宮廷はどこかおかしい。

 プトレマイオス少年王の悩みは深まるばかりだった。


 ☆


 ブルータスはギリシャ北部に軍を集め、辛うじて一勢力を保っていた。

 カエサルさえ殺せばバラ色の未来が開けている、とまでは思っていなかったが、この有様は彼の想像を絶していた。

 独裁者カエサルを倒した共和政の守護者。彼はそう呼ばれる事を望んでいたのに、現実はローマを遠く離れた地で逼塞するしかない状態だった。

 

 彼の母はカエサルの愛人だった。もちろんカエサルと彼の間に血縁関係がある訳ではないが、彼には常に「カエサルの愛人の子供」という印象が付きまとっている。


 そんな彼はエジプトに目をつけた。

 クレオパトラには、亡きカエサルとの間に子供がいた。

 名をカエサリオンという。


 カエサルという男は、あちこちに愛人をつくっていたが、その誰一人として粗末な扱いをしたことがない。その子供に至るまで、手厚く保護していることで有名だった。


 だがクレオパトラとカエサリオンについては、遺言にすら全く触れられていなかった。ガイウスにはその家名まで与え、正式な養子にしたというのに。

 クレオパトラの憤懣は激しいものだった。

 これは使える。ブルータスはそう思った。


「カエサリオンをカエサルの正式な後継者として認める」

 ブルータスはクレオパトラに書き送ったのだ。



「カエサルさまの殺害犯が、何をぬけぬけと」

 クレオパトラはそれを嘲笑った。


 しかし、対抗勢力のガイウス・オクタヴィアヌスが権力を握れば、カエサリオンが日の当たる場所へ出る機会は永遠に失われる。

「利用できるものは利用するか」


 聡明であったはずのクレオパトラだったが、我が子への想いがその眼を曇らせたとしか言いようがない。

 エジプト王国はブルータスへの支援を決めたのだった。



 ローマを発したガイウスとアントニウスの連合軍は、ギリシャ北部のフィリッピの平原でブルータス軍と激突した。

 敵軍を圧倒するアントニウスに対し、ガイウスは一方的に押されまくった。壊滅の瀬戸際を、慌てて駆け付けたアグリッパの分隊に救われる始末だった。


「崩れるのが早すぎるぞ。もう少し辛抱しろ、ガイウス」

「きっと助けに来てくれると思っていたよ」

「そういう信頼はいらないからな」

 ひと時も目が離せないじゃないか。アグリッパは、へらへら笑うガイウスを見て肩を落とした。

 

 一進一退の戦況だったが、最後はアグリッパが側面から突入したことでブルータス軍は崩れ立った。


 ブルータスは捕らえられ、その場で斬られた。こうしてローマの内乱はひとまず終結したのだった。


 その後、ガイウスはローマへ戻った。

 だがもう彼の邸に、姉オクタヴィアの姿はない。

 ガイウスは東の空を見上げた。



 オクタヴィアはアントニウスと共に、エジプトへ向かっていたのだ。 

 


 

 

 

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