第6話 陥落のアレキサンドリア

 ローマの大軍がエジプトに向け進軍中だとのしらせが、王都アレキサンドリアにもたらされた。


「へえ。何しに来るのかしら。そうだ、きっとまたパルティア遠征ね」

 ローマ人って懲りないわねー、クレオパトラはのんきに笑う。


「何言ってるんですか、姉上。ローマ軍の目的は問責に決まってるじゃないですか」

 小さな体で怒っているのは彼女の弟、共同統治者のプトレマイオスだった。本当に懲りないのはあなたでしょ、と言ってやりたい。


「もんせきって何、お猿さんのことかしら?」

「それは、もん……。いえ、そんな事はどうでもいいのです。問責ですよ、我らを懲罰にやって来るんです!」


「ほうほう」

 クレオパトラは腕組みして、プトレマイオスを睨みつける。


「ぷとちゃんたら、今度は何をやらかしたの。だからあれほどお姉さんに相談しなさいって言ったでしょ。こまった子ね」

「やらかしたのも、困った子も、みんなあなたですよ。姉上!」


 うん? とクレオパトラは首をかしげた。

「なんだろう。全然心当たりがないんだけど」

「ローマの内紛に加担したでしょ。僕はあんなに反対しましたよね」


「ああ。あの、ブルータスってひとに食料とか武器とかあげた事を言ってるの?」

「他に何があるというんですっ!」

 プトレマイオス少年王は怒りの余り地団太を踏んでいる。

「そのブルータスも結局敗けてしまって。これじゃエジプトも反逆者の一味ですよ」


「大丈夫、私に考えがあります」

 えっ、とプトレマイオスは姉の顔を見た。

 クレオパトラは自信たっぷりの笑顔で頷いた。

「私のこの魅力で、そのローマの将軍を骨抜きにしてみせます!」


 プトレマイオスは手にした王杓をとり落とした。

(その手はカエサル相手に失敗してるじゃないかっ!)

 泣けるものなら、この場で号泣したいプトレマイオスだった。


 ☆


 ローマ軍の宿営地では、野営の準備が行われていた。

 すでに総司令官のアントニウスは借り上げた邸の一室で横になっていた。寝台の上でオクタヴィアに膝枕をしてもらって、彼の表情は緩みきっている。


「ああ、落ち着く。オクタヴィア、そなたは素晴らしい女性だな。あんな酷い事をした俺にこんなに優しいとは」

 オクタヴィアは無骨なアントニウスの頬を、細い指で何度も撫でている。慈愛に満ちた表情だった。

「だって昔から、出来が悪い子ほど可愛いと言うじゃないですか」


「……そうか。清楚な顔をして、意外と容赦がないな。オクタヴィアは」

 優しいようで、結構口が悪かった。


 もう人狼など、どうでもいい。アントニウスは思った。

「俺は自分の力だけで、ローマの全てを手に入れる」


「それは無理です。ガイウスがいますもの。勝てませんよ、あの子には」

 静かにオクタヴィアは断言した。

 これにはアントニウスも苦笑するしかなかった。


「そなたをアレキサンドリアまで連れて行く訳にもいかぬので、ここでしばらく待っていてくれないか」

 現在で言うと、シリア付近だろう。

 オクタヴィアを現地の総督に預けると、アントニウスはエジプトへ軍団を進めた。


 ☆


 謁見の間では、切り揃えた黒髪とオリエントの衣装が特徴的なクレオパトラだが、後宮へ戻るとその黒髪のかつらを脱ぎ、服装もゆったりとしたギリシャ風のものに変わる。


 ここエジプトのプトレマイオス王朝は、マケドニアのアレキサンダー大王の部将だったプトレマイオスが建てた王朝である。そのため王族は出身地であるギリシャの風俗を色濃く残していた。

 それはクレオパトラも同じだった。化粧を落とし、髪も褐色の巻き毛に戻ると、全くの別人と言ってもいいほどの変わりようだった。


「だったらもう一度、絨毯にくるまって登場しようかな」


「駄目ですよ、もうローマでは有名な逸話になっているみたいですから」

 すぐにプトレマイオスに駄目出しをされ、クレオパトラは少しむくれる。


「でもあれ大変だったのよ。奴隷たち、扱いが手荒でね。おかげでお尻に大きな青あざが出来ちゃって。カエサルさまに死ぬほど笑われたんだから」

「はあ、そうですか」


「それに、あれだけぐるぐる巻きにされると、ほとんど息が出来ないんだね。びっくりしたよ。どう、今度はぷとちゃんがやってみる?」


「やる訳ないでしょ。もっと真剣に考えて下さい。王国存続の危機なんですから!」

 本気で怒りだしたプトレマイオスを見て、クレオパトラはうんざりした顔になった。


「ああ、もう。ぷとちゃんは固いなぁ。男の子のアレが固いのは良い事だけど、頭が固いのは、ダ、メ、だ、ぞ♡」

「弟を相手に、下品な冗談は止めて下さい!」

「うぐっ」

 返す言葉もない。さすがに弟に対して色気は通じなかったか。


「まったく。そんな見え透いた色仕掛けに騙されるようなバカがいるなら、ぜひ顔を見てみたいものですよ!」

 その願いはすぐに叶った。

 

 アレキサンドリアに到着したアントニウスは、クレオパトラの色香に瞬時に陥落する。人目もはばからず陸みあう二人を見て、プトレマイオスは肩を落とした。


「あれが、ローマ軍の最高司令官なのか」

 これって、早々にローマとの同盟関係を見直した方がいいのではないか。彼は本気でそう思った。


 ☆


「手紙がこない……」

 オクタヴィアはエジプトからの定期便船が入港するたび、港へ出掛けていった。

 もうひと月以上になるが、アントニウスからは、一通の手紙も来る事はなかった。


 そんな彼女の許に、驚くべき報せが届いた。

「アントニウスと女王クレオパトラが結婚した」というのだ。


 オクタヴィアはシリアの総督府を訪れた。最初は彼女を丁重にもてなしていた総督だったが、その要請を聞いた途端、表情が凍り付いた。

「あ、あう、あう……」

 まったく言葉になっていない。


「もう一度言います。私に兵をお貸しください。アントニウス将軍を連れ帰ります」

 凛然とした表情でオクタヴィアは言い放った。


 さらに総督を驚かせたのは、軍団のほとんどが一緒に行きたいと申し出てきたことだ。彼女は軍団兵の心をしっかりと掴んでいたのだ。

 

 これを断れば暴動にも発展しかねない。総督は百人ほどの兵をオクタヴィアのために用意した。

 

 オクタヴィアは簡略化した鎧を身につけ、白馬に騎乗した。

 おおう、と兵達から賛嘆の声があがる。

「まるでミネルヴァだ」

 

 ローマ神話の女神、ミネルヴァは慈愛と医療の神である。しかし同時に軍神の側面も持っていた。彼らの眼に、オクタヴィアは地上に降臨した女神として映った。


 エジプトの国境警備隊ですら、彼女の威光に打たれ道を開けたとされる。

 ついにオクタヴィア率いる部隊はアレキサンドリアの城壁を目前にした。


 そこで彼女は、やっとアントニウスからの手紙を受け取った。


「……」

 オクタヴィアは手紙を見詰めたまま、長い間沈黙した。

「如何いたしましたか、オクタヴィアさま」

 隊長が心配して声をかける。


「戻りましょう」

 一言、オクタヴィアは言った。

「私は、ここでは必要とされていないようです」

 

 アントニウスからの手紙には、ほとんど懇願するような調子で、兵を引いて欲しい、そしてローマの家を守って欲しいと記されてあった。


「オクタヴィアさま、あれを」

 隊長の声に彼女は顔をあげた。エジプト軍が彼女らを包囲するように、ゆっくりと迫ってきている。アントニウスとクレオパトラが自分を追い出そうとしているのだと、オクタヴィアは悟った。


「どうします?」

 隊長は不敵に笑った。

「うちの部隊は精鋭中の精鋭です。同盟国とはいえ、他の軍に背を向けるのは気が進みませんが」


 いいでしょう、とオクタヴィアは頷いた。

「脅されたくらいで、オオカミが尻尾を巻いて逃げる訳にはいきません」


 再び馬上の人となったオクタヴィアは全軍に突撃を命じる。エジプト軍はその鋭鋒のまえに、あっけなく崩れたった。

 

 ☆


 オクタヴィアは少数の護衛と共に、船でローマへと向かう。

 順風に恵まれ、もう間もなくイタリア半島が見える頃だった。


「ん……」

 不意に胸苦しさを覚えたオクタヴィアは、舷側に走り寄り、荒い息をついた。


「まさか」

 彼女はそっとお腹に手をやる。


 新しい生命の胎動。その予感があった。



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