第4話 オクタヴィア、人妻になる

 ローマ政界においてガイウスの評価が高まるにつれ、同じように市民の間で噂に登るようになったのがオクタヴィアだった。


 決して派手ではないが、清楚な美貌と控えめな言動。そんな貞淑な雰囲気を持ちながら、カエサルの葬儀でみせた行動力がローマ女性の鑑と称賛されたのだ。


「姉さんは、外面そとづらだけは良いからね」

 納得して頷くガイウスの頭をオクタヴィアは小突く。姉弟はアグリッパを交え、お茶を飲んでいるところだった。

 

「失礼な。こんなバカな弟をちゃんと支えているのだから、もっと褒められてもいい位なのに。アグリッパもそう思うでしょ」

 ええ、まあ。とアグリッパは言葉を濁す。


「ねえ、アグリッパ。そこの窓から叫んでくれないかな。『みなさんはこの女に騙されているんですよー。こいつはそんな優しい人じゃありませんよー』ってね」


「ふーん。テヴェレ川で魚の餌になりたいのね、ガイウスは」

「姉さん。魚の餌やりは禁止されてるよ」


「……でも、奥さんにしたい女性ナンバーワンというのは分かります」

 苦笑いしながらアグリッパは呟いた。そう、できるなら俺だって……。


「ん、何か言った?」

 ガイウスが怪訝な顔で問い返す。さいわい聞こえなかったらしい。


「い、いや。何でも。なんでもない」

 アグリッパは少し赤い顔で手を振った。


 ☆


 みずからを北イタリア方面総督に任じたアントニウスは、前任者から軍隊指揮権を継承した。いや、有体に言えば強奪したという方が近い。


 そのまま矛先を転じガイウスを討とうとしたアントニウスだったが、いくつかの問題が生じた。まずはカエサル暗殺の実行犯、ブルータスが軍勢を集め蜂起したのだ。放置しては執政官としての資質を疑われるだろう。

 だがこの叛乱は、急造したアントニウス軍単独で対応できる規模を越えていた。


 更に、この北イタリア方面軍もまた、アントニウスに従う事を渋っていた。彼らもカエサルの後継者に指名されたガイウスに仕えたいと考えているのだ。こんな軍を率いてでは、戦う前から結果が見えていた。


 もはやアントニウスに出来るのは、カエサルの遺産を盛大にばら撒き、叛乱に加わりそうな他の地方軍を引留める事だけだった。

「忌々しいが、あの小僧を引き入れるしかない」

 あんな無能でも、利用できるなら徹底的に利用してやる。アントニウスは片頬に引き攣った笑みをうかべた。

 

 ☆


「アントニウスが同盟を求めてきたって?」

 部屋に飛び込むなり、アグリッパはガイウスに問いかけた。ガイウスはベッドに入ったままで半身を起こした。


「そうなんだよ。お前に仇討ちのチャンスを与えてやるから、軍を率いて出てこいってさ。本当にいつも高圧的だよね」


 そう言いながらガイウスはまだベッドの中にもぐり込んだ。

「だからあのひと嫌いなんだよ。ねー」

 ベッドの中で、なにかクスクス声がする。アグリッパは眉をひそめた。

「それは俺も同じだが。で、お前は何をやっている」


「え、いや、まあ。ちょっとお腹が痛くてさ、えへへ」

 ガイウスはシーツから顔だけ出して、弱々しく笑う。


 ふーむ。アグリッパはベッドに歩み寄り、勢いよくシーツを剥いだ。

「きゃっ」

 悲鳴とともに、裸の娘が脱いだ服を抱えて飛び出していった。


 アグリッパは、すっと目を細めた。

「おいガイウス。あれは何だ。いや確か、前にも同じことを訊いた気がするが」

「えーと。迷子の仔猫ちゃんさ。だってほら、今度は服を着てなかっただろ」


「いいから、とっとと軍勢を集めろ。これは神の与えたもうた好機だ。ブルータス軍を撃破して、あわよくばアントニウスも……」


「それは無理だ、アグリッパ」

 ガイウスの端正だがどこか茫洋として締まりのない顔が、急に鋭くなった。

「いまの僕たちの力ではアントニウスは倒せない。それだけ奴の軍団長としての経験は傑出している。今はまだ雌伏しふくときだ。いいな」


 射抜くような眼光にアグリッパは言葉を失い、ただ頷いた。軍事的な才能はからっきしの癖に、時折こんな冷徹な分析をみせる。

 カエサルが見込んだのは、こういうところなのか。アグリッパは今更ながら、カエサルの慧眼に服するしかなかった。


 ☆


 宿敵ブルータスを前に、ガイウスとアントニウスの同盟は成立した。

 彼ら二人の他、カエサルの配下だったレピドゥスを加え、「第二次三頭政治」と呼ばれる政治体制が出来上がった。


 三頭とは云え、レピドゥスは平地に乱を起こす性格ではない。ふたりの仲を取り持つ緩衝材といった程度の役割だった。また、いかにガイウスの評判が高まったと言っても未だ18歳である。実質はアントニウスが第一人者であることは動かない。


 協議の結果、叛乱を制圧した暁には、広大なローマ共和国を三分し、最も遠いアフリカはレピドゥス。ギリシャ、エジプトなどの東部はアントニウス。そしてローマ本国を含む西部はガイウスが統治を担当することになった。

 このような重大事を個人間の話し合いで決めてしまうのである。もはや元老院は統治者としての権威も能力も失っていたと言っていい。

 


「同盟者となった以上、我らは仲を深めねばならん」

 アントニウスはガイウスを呼びつけた。

「古来、こういった場合は縁戚となるのが最も手早い。そうだろう?」

 確かにそういう事例には事欠かない。ガイウスは曖昧に頷いた。まだアントニウスの意図が分からなかった。


「そこでだ、ガイウス・オクタヴィアヌス」

 アントニウスは、にやりと笑った。


「お前の姉、オクタヴィアを俺の妻に貰い受けようと思う。異存はあるまいな?」


 ☆


 長椅子に座ったオクタヴィアは身じろぎもしなかった。全くの無表情で、床の一点を見詰めている。


「断るんだガイウス。むざむざ人質に出すようなものだぞ」

 アグリッパが怒りをあらわに、ガイウスに詰め寄る。だが、彼は苦い顔で横を向いた。


「断ればこのまま戦になる。そして、僕たちは敗れる」

「必ず負けるとは限らないだろう。だとしても、ここは一戦交えるべきだ!」

「だから無理だと言っている!」

 ガイウスとアグリッパは睨みあった。


「その話、受けましょう」

 オクタヴィアが顔をあげた。かすかに笑みを浮かべている。

「先方に望まれて嫁ぐのは女の本懐ですもの」


「だけど完全に政略結婚ですよ。これ」

 呻くようにアグリッパが言う。アントニウスには別れた前妻との子供までいるのだ。

「構いません。一度、結婚というものをしてみたかったんです」


「アントニウスは、変態性癖の持ち主だとも聞くよ」

 下世話な噂ではあるが、姉の耳に入れないと云う訳にはいかない。

 これには、さすがのオクタヴィアもたじろいだようだった。少し弱気な表情になる。

「うう……そ、それも滅多にできない経験と思えば……」


「駄目だ、オクタヴィアさん。そういうのが好きなら、俺がもっと勉強して、あんな事や、こんな事までしてさしあげますからっ!」

「落ち着けアグリッパ。姉さんにそんな趣味は無い。え、と。無いですよね」

「ありません、もちろん」


 オクタヴィアはアグリッパの肩を抱き寄せた。

「ありがとう、アグリッパ。心配してくれて。これからもガイウスの事をお願いね」

 ぐうう、とアグリッパは嗚咽し、言葉にならなかった。

 

 ☆


 露骨な政略結婚によって、オクタヴィアはアントニウスの許に去った。


「アントニウスといえど、別に姉さんを獲って食おうとしている訳じゃないよ。会いたくなったらいつでも会えるさ」


 そう言ってアグリッパを慰めるガイウスの首筋の毛がピリピリと逆立った。自分の言葉なのに、何かが引っ掛かった。

「くそっ、嫌な予感がする」


 アントニウスとは早期に決着をつけた方がいい、ガイウスは決意した。


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