第3話 狼の血を継ぐもの
「誰だ、このガイウスとかいう奴は」
カエサル麾下の軍団長として赫々たる武勲を積み上げ、現在は執政官にまで昇りつめたアントニウスにとって、これは屈辱でしかない。血走った目で左右に問いかけた。
自分こそがカエサルの後継者と信じていた彼には、この遺言状の内容はとても認められるものではなかった。
「カエサルの妹の、孫だと?」
言われてもすぐには関係性を理解できない程、遠い血縁ではないか。
アントニウスはやっと、数年前にカエサル邸で見た少年の顔を思い出した。年齢の割には長身だが、どこか頼りない風情の少年だったような気がする。
「なぜカエサルは、あんな小僧に……」
アントニウスは当代随一の文筆家と言われるキケロを呼び寄せた。
キケロはカエサルの親友でありながら、ブルータスら暗殺者を称える文章を発表した程、強硬な共和政支持者である。
だが彼にとって意外な事に、ローマ市民は独裁者を葬った者たちを支持せず、逆に非難が巻き起こっている。
身の危険を感じたキケロは、カエサル派の領袖であるアントニウスに再び接近していたのだった。
遺言状を読み終えたキケロは、溜息をつき視線をあげた。名文家という点ではカエサルはキケロと双璧と云われる。だが華麗で装飾過多なキケロの文章に対し、カエサルの書いたものは研ぎ澄まされた刃のような美しさがあった。
「このような短い遺言ですら、それは変わらない……」
キケロは敗北感に打ちのめされた。
「どう思う、キケロ」
アントニウスは焦れたように促す。
キケロは舌打ちしたくなった。アントニウスという野蛮人はこの文章の美しさを理解できないのか、と。
『頭は空っぽで、剣を振り回すしか能がない、剣闘士並みの男』とは、キケロが評したアントニウス像である。
「ユリウスの名は継がせれば良い。だが、遺言にある通り財産の管理はあなたに任されているのだ。あのような少年、金が無ければ何もできまい」
吐き捨てるようにキケロは言った。
「なるほど、そうか。遺産は俺が自由にしていいと云うことだからな」
キケロはそのアントニウスを嫌悪の表情で見た。遺産を管理するというのは、勝手に使っていいという意味ではない。
やはりこの男に接近しすぎるのは危険だ。キケロは早々に退出しようとした。
「なあ、キケロ。こんな噂があるのを知っているか」
呼び掛けられ、彼は足を止めた。
「狼の血を引く者こそが、このローマの真の継承者になるというのだ」
「あなたは違うでしょう」
うむ、とアントニウスは鼻白んだ。
「だがその者の血を啜れば、それは血を受け継いだ事になるだろう?」
キケロは思わずアントニウスの顔を覗き込んだ。
知性の感じられないガラス玉のような瞳が、無感情にキケロを見返した。
「それは本気で言っているのか……」
全身に鳥肌がたつのを覚え、キケロは後ずさった。
「もちろんだとも。その者に心当たりはないか。もし教えてくれるなら、一生、身の安全は保障するぞ」
さもなければ……。キケロは唾を呑み込む。背中を冷たい汗が流れた。
ふと、ある情景が浮かんだ。カエサルとの雑談で、ローマの建国神話に話題が及んだとき、カエサルは身近な者にその血が流れていると仄めかしはしなかったか。
「いや、あれはまさか……」
ゆっくりと近付いてきたアントニウスの巨体がキケロを圧倒する。
「心当たりがあるようだな。キケロ」
キケロはまた親友カエサルを裏切る事になった。
☆
出迎えたその女性を見てガイウスは顔をほころばせた。久しぶりに会う、姉オクタヴィアだった。
さっそく彼女の手をとり、引き寄せた。そのまま強く抱きしめる。
「寂しかったよ、姉さん。ではさっそく、寝室へ……」
オクタヴィアは手を振りほどき、ガイウスの背中へ蹴りをいれた。
「調子にのらないで。あれは、救命処置みたいな事だって言ったでしょ!」
それなのに、この弟はあんな事まで。オクタヴィアは思い出して赤くなった。
「そんなぁ。遠征先では姉さんの事だけを考えて、姉さんとのアレだけを楽しみにしてたのにっ!」
床に横座りになったガイウスは涙声で訴える。
……それもどうなのだ、この弟。姉は額を押え、溜息をついた。
それに。
「嘘おっしゃい。あなた香油くさいじゃないの。どうせ、さっきまでどこかの女性と仲良くしてたんでしょ」
「はい、すみません」
オクタヴィアはしゃがみ込むと、ガイウスの頬に軽くキスした。
「遊んでいる暇はないわ。ここからは時間との闘いだからね」
手をひいて弟を立たせる。
「まずは、大伯父さまの葬儀を執り行わなくては」
☆
ガイウスがローマへ帰りついた時には、カエサルの死から1か月ほどが経過していた。
もちろんカエサルの遺体はすでに火葬されているが、ローマ人の考える葬儀とはそれで終わらない。
特にカエサルのような有力者の場合、盛大に催し物が行われ、更に市民に対して遺贈金があるのが通例だ。
カエサルの後継者を自任するアントニウスは、未だそのどちらも行ってはいなかった。これはカエサルの莫大な遺産を自らの軍団形成に流用しようとしたからだと云われる。
彼は自分がカエサルの火葬を取り仕切ったことで、ローマ市民からも後継者として認知されたと思い込んでいたのだろう。
もちろんカエサルの遺産をガイウスに渡すつもりなど微塵も無かった。
催事と遺贈金の分配。
これらは、後継者として認められ市民の人心を得るためには非常に重要な事業なのだが、彼はそれを行おうとした気配がない。
彼の側近にも、それを進言した者がいなかった処を見ると、およそアントニウス政権の質が知れた。
軍事力も経済力も持たないガイウスが付け入る隙はそこにあった。
「だけど姉さん。うちにも、そんなお金は無いのでは……」
ガイウスの実家は比較的裕福な方ではあるが、その総資産をもってしても遺贈金の支払いすら不可能だった。カエサルの遺産を返還するようアントニウスに申し入れたが、いまだ面会すらできていない。
「馬鹿ねガイウス。無ければ、借りればいいのよ」
「そうか。それで後は踏み倒すんだね」
オクタヴィアは黙って弟を張り倒した。
「じ、冗談だよぉ。だけど
「失礼な。大伯父さまはちゃんと返済されていました……、たぶん」
そこら辺はオクタヴィアにも自信はないらしい。
「まあ、金額が金額だったからね」
☆
カエサルの友人であったという富豪、マティウス達の協力を得て、ガイウスはカエサル追悼の競技会を開催することができた。楕円形の競技場で行う戦車競走がそのメインイベントである。
集まった市民は白熱した競争に歓声をあげ、カエサルに続いてガイウスの名を叫び、この競技会の成功を称えた。
そしてその後、市民に対し、カエサルからの遺贈金として金貨が配られたのは言うまでもない。
ローマ市中においてガイウスの評判が高まるのを苦々しい思いで見ていたのはアントニウスだった。
「やはり、奴ら姉弟が狼の末裔なのか」
無力な姉弟などいつでも拉致できると考えていたアントニウスだったが、カエサル子飼いの将兵たちが昼夜問わず護衛に当たるようになり、断念するしかなかった。
さらに、パルティア遠征に送られていた正規軍が帰国する。アントニウスはカエサルの遺産を使い彼らを買収しようとしたが、これも失敗した。
「我らはカエサルの遺言に従う」
軍団長はそう言ってアントニウスの誘いを一蹴したのだった。
このローマ市内では、執政官といえど軍隊を保持することは厳禁だ。アントニウスは暗殺者追討を口実にローマを離れた。
北イタリアに駐屯する軍を接収し、ガイウスに対抗するためだった。
カエサル暗殺に端を発した、ローマ内戦の始まりである。
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