終章・双剣の拓く路

 崩れ落ちた天井の隙間から、晩夏の明るい陽光が、柔らかに降り注いでいる。その眩さは、まるで、兄を抱えて去っていく青年の道行きを、祝福するかのようだった。


 アルノーは、銀髪の青年の姿が見えなくなるまで、じっとその背を見つめていた。


 かつて御前試合で見た、彼の剣戟の煌めきは、次代を照らす光芒であったのだ。


 アルノーは、彼の剣に馳せた己の夢の形が歪なものであったことに、ようやく気付かされた。


 竜の末裔は、黙示の竜でも、血に飢えた悪鬼でもない。


 彼らもまた、我々と等しく、心を持つ者なのだ。国を想い、家族を愛し、他者を慈しむ。種族の違いなど、そこに、なんの意味があるというのだろう。


 自分は、ただ、理解しえぬ力を持つ存在に怯え、知ろうとさえしなかった愚か者なのだ。


 アルノーは、己の蒙昧さを恥じた。六十余年を生きてきて、今まで一度も、竜の末裔と共に歩む道があるなどと、考えたこともなかった。


 自分の曇った目は、なにも見てなどいなかったのだろう。


 セイン・クロスは、今まさに、アルノーの目を啓いてくれたのだ。


 人にすべてを奪われ、それでも人を知ったからこそ、自分に憎しみしか向けないような者さえ守り抜こうと戦った青年の背に、なんと答えるべきなのだろうか。


 彼こそが、人と竜の末裔が、いがみ合うことなく共存する未来への階なのだ。


 その階を齎した王は、いったい、十八年前のあの日、なにを思ったのだろうか。


「……陛下。御身は、彼が人ではないと知って、尚、手を差し伸べられたのですか?」


 アルノーは、威儀を正して王の前へ進み出ると、若き主君に問いかけた。


「……そうだ。」


 紅蓮の王は、表情を動かさぬまま、厳然と頷いた。


「理由を、お伺いしても宜しいでしょうか。」


 臣として、これだけは、どうしても問わねばならぬ。


「目の前に、傷付いた子供がいたのだ。親を亡くし、兵士に追い立てられ、唯一残ったその命さえ失おうとしていた、ちいさな子供がいたのだ。……それ以上の理由が必要か?」


 王の瞳は、澄み渡る夕焼け空のように、穏やかにアルノーを見据えている。


「御身は、神皇七国を負って立つべきお方です。竜の末裔の子を手元に置いたことが知れれば、いったいどうなるのか。お考えには、なられませんでしたか?」


 アルノーは、王の真意を探るように、問いを重ねた。王の答えによっては、この国は、いずれ未曾有の危機を迎えるだろう。


「人民を統べる者として、考えた末の結論だ。たとえ相手が何者であれ、救いを求める弱者の手を払うような者に、王を名乗る資格はなかろう。」


 王は、獅子のごとく力強い眼差しで、はっきりと答えた。


「……左様でございますか。」


 アルノーは、雷に打たれたように姿勢を正すと、恭しく頭を垂れた。


 この若き王は、自身の立場を理解した上で、幼子の手を取ったのだ。確乎たる意志で、己が正しいと信じた道を選び、燃え盛る炎の中を、進む覚悟を決めておられたのだ。


 たとえこの先に、どれほどの困難が待ち受けていようとも、このお方ならば、未来を切り拓いていけるだろう。


 ――この王に比べて、己のなんと狭隘なことか。


 アルノーは、震えあがるほどの畏敬とともに、再び顔を上げた。


 慈愛に満ちた若き王を、支えねばならない。青年の覚悟に、報いなければならない。


 アルノーは、王に背を向けると、縮こまったままの首脳陣の気を引くように、大仰に手を打ち鳴らしてみせた。


「貴兄らも、先の戦いを見たであろう。我らもまた、新たなる道を進むべき時なのだ。」


 群臣は、狐につままれたような顔で、アルノーの言葉に茫然と耳を傾けている。


「グィノット卿、それはいったい……?」


 唯一声を上げたギルバートも、アルノーの言わんとすることが飲み込めずにいるらしい。


「人と竜の末裔がいがみ合う時代は、もう終わったのだ。すべてを我ら人間に奪われたはずの竜騎士長は、憎しみに囚われず、我らを救ってくれた。心ある人たる我らが、それに報いずしてなんとする。」


 アルノーは、彼らの目にかかった霧を払うように手を振りかざし、煽るように群臣に語りかけた。


 人は、誰もが時に過ちを犯す。問題は、過ちに気付いたとき、どう動くかだ。


「我らが王は、先見の明をもって彼を迎え入れ、次代への道を示されたのだ。これは、真の平和に祝福されし千年紀への道程となろう。我ら臣民は、陛下の盾となり、一丸となってこのハーネストを平和の旗手とすべきである!」


 朗々と謳うようなアルノーの熱弁に、群臣たちは、ひとり、またひとりと、目に光を宿していった。


 アルノーが高らかに手を掲げて演説を終えた時、議場は、万雷の喝采で満ちていた。


 その中でただひとり、ギルバートだけが、呆気にとられたように目を瞬かせている。


「……彼に報いずして、正義は語れまいよ、ギルバート。」


 アルノーは、ギルバートに歩み寄ると、声を低めてそっと耳打ちした。


 鋭く研ぎ澄まされたアルノーの囁きに、ギルバートは、ぎくりと身を強張らせた。


「諸兄! 我らが今なすべきは、ひとつであろう。」


 アルノーは、居竦むギルバートに背を向けて、再び手を打ち鳴らした。


 国務大臣の号令に、群臣たちは立ち上がり、思い思いに散っていく。瓦礫の撤去に取り掛かる者、人を集めてなにやら協議を始める者、それぞれだ。


「ギルバートや、まだ受け止めきれぬか?」


 皆を見送った後、アルノーは、傍らで震えている男の方を顧みた。


「……いえ。私は、彼が恐ろしい。歴然と、違いを見せつけられたのですから。ですが、認めざるを得ない。彼の為したことは……まさしく、正義と呼べましょう。」


「ならば、正義の代行者は、なんとするべきか、分かろうな。」


「……はい。」


 アルノーは、ようやく頷いたギルバートの肩に、優しく手を置いた。


「我らも、新たな地平に立つべきなのだろう。」


 ちいさく零したアルノーの言葉は、吹き抜ける風にさらわれた。


 きっと、慎み深いあの男は、兄を連れてハーネストを去るつもりなのだろう。


 そんなことを、させてはいけない。この先の未来に、きっと彼らは必要なのだから。





 茜色の空に、ゆっくりと、夜の青が滲み始めた。先程の戦いが、まるで嘘のように、穏やかな夕暮れだった。


 ガイルは、セインのベッドに身を横たえたまま、安らかな寝息を立てている。


 セインは、枕元から離れることなく、じっと、兄の目覚めを待ち続けた。


 いつの間にか、壊れた眼鏡の修理さえ終わってしまったというのに、ガイルが目を覚ます気配は、一向にない。


「兄さん、早く起きてください。僕ね、話したいことが、たくさんあるんですよ。」


 セインは、兄の顔を覗き込むと、祈るように囁いた。


 こうして眠っているガイルの顔は、幼い日の面影を残している。あの頃のガイルは、寝相が悪くて、セインはよく蹴り飛ばされたものだ。


 懐かしさと共に、互いに離れて暮らした十八年の歳月が、セインの肩に重くのしかかってきた。


 ガイルは、十八年の時を、ずっと、復讐の旅の中で過ごしていたのだ。


 わずかに触れた兄の記憶は、その十八年が、セインがハーネストで重ねた時とは比べようのないほどに、苦しく、辛いものであったことを示していた。


 優しく、真っ直ぐだった兄は、復讐の血で、何度となくその手を汚してきたのだ。

 それが何者かの呪縛によるものであったことは、セインに幾ばくかの安堵を与えた。それでも、事実を消し去ることは出来ない。


 兄に修羅の道を歩ませてしまったのは、他でもない自分なのだ。


 ――もしもあの日、自分がもっと、強くガイルの手を握っていたならば。


 ――レオンの手を取ったのが、自分ではなく、ガイルであったならば。


 兄に、罪を重ねさせるようなことは、きっとなかった筈だ。


「……運命は、分からないものですね。」


 セインは、起きえなかった奇跡を噛みしめるように、深い嘆息を零した。


 流れてしまった時間を、覆せはしない。どうすることも出来ないのだと解っていても、胸が軋むように痛んだ。


 三年前の叙任式で、竜騎士長となった自分の姿を見たガイルは、いったい、なにを想ったのだろうか。


 騎士に憧れた兄は復讐のために剣を振るい、騎士になどなれないと諦めていた自分が、形は違えど、国のために剣を振るっていた。こんな皮肉が、あるだろうか。


「あの日救われたのが兄さんなら、どんなに良かったか……。」


 セインは、悔しさを砕くように、ぎゅっと拳を握りしめた。皮手袋が、ぎしぎしと悲鳴を上げる。


 せめて三年前のあの日、群衆に紛れたガイルに気付いていれば、もっと他の道があったのかも知れない。


「……俺は」


 弱々しい声音が、静まり返った部屋の空気に、ちいさな波紋を描く。


 セインは、弾かれたように顔を上げた。


 ガイルは、ゆっくりと瞼を開くと、握りしめたセインの拳に、そっと手を添えた。


「俺は、お前がここにいて良かったと……。今は、そう思える。」


 こちらを見上げる柘榴石の瞳は、セインがよく知る、優しい光を燈していた。


「兄さん……。」


「心配だったんだ、ずっと。他者の裏側が視えてしまうお前が……。ひとりで、泣いてはいないかと。人間に囚われて、ひどい目に合わされてはいないかと……。だが、そんなことは、なかったな。」


 ガイルは、身体を起こすと、短くなったセインの髪をくしゃくしゃと撫でた。


「ずいぶんと、立派になった。」


 ガイルの双眸が、柔らかな弧を描いた。


 微笑むガイルの表情は、子供の頃に二人で見た、夕焼け空を思い出させた。


 初めて木に登れた自分を、ガイルはこうやって褒めてくれた。茜に溶けた街並みは、どんなものよりも輝いていて、吸い込まれてしまいそうなほどに美しかった――。


「兄さん、僕は……」


 セインの頬を、一筋の涙が伝っていく。これまでずっと抱え込んでいた想いが、堰を切ったように、ぽろぽろと零れ落ちていった。


 溢れ出る涙は、どうやって止めるのだったろうか。伝えたいことはたくさんあるはずなのに、言葉は、すべて涙に流されてしまった。


「なんだ、泣き虫は、変わらないんだな。」


 まるで子供のように泣きじゃくるセインに、ガイルは、からかうように頬を緩めた。


 あやすように背を優しく擦ってくれる兄の掌の温もりが、セインの心を、ゆっくりと落ち着かせてくれる。


「兄さんに会ったら話したいこと、たくさんあったはずなんですけどね……。まあ、これから時間は、たっぷりありますね。」


 大人になったというのに、こんなにも涙が止まらないとは、思ってもみなかった。


 セインは、涙を拭うと、恥ずかしさをごまかすように頬を掻いた。


「……いや。俺が、ここに留まる訳にはいかない。」


 暢気に笑うセインの言葉に、ガイルは苦しげに眉根を寄せた。


「なに言ってるんですか? 僕も、一緒に行きますよ。兄弟ふたりで気ままな旅暮らしも、悪くはないでしょう?」


 セインは、兄の眉間の皺を指で突くと、冗談めかした調子で答えた。


「お前の居場所は、ここだろう。命を賭してまで守ろうとするほどに愛した国だ。どうして、お前まで出ていく必要がある?」


 ガイルは、のらりくらりと笑っているセインを諭すように、固い声を上げた。柘榴石のような双眸は、セインの真意を問うように、真っ直ぐにこちらを見据えている。


「もう、人間ではいられませんからね。……僕ひとりのために、誰かに恐怖を与え続けるなんて、出来ませんよ。」


 やはり、兄には敵わない。長年離れていたとしても、セインのわずかな変化を見逃さないところは、変わってはいないようだ。


 セインは、深い溜息と共に、ちいさく本音を零した。


 自分が何者であるかを知ったとき、皆の顔が、怯えの色に塗りつぶされていった。


 彼らに憎まれようとも、守りたいと願った人々に、もう二度と、あんな顔をさせたくはない。自分の存在が脅威であるならば、傍にいては、彼らを守るどころか、傷付けてしまうだけだろう。


 ハーネストで過ごした日々は、怖いくらいの幸せに満ちていた。ここで過ごした十八年は、自分には、過ぎた夢だったのだ。


 ガイルは押し黙ったまま、翻意を促すように、じっとセインを見つめていた。


 セインもまた、決意を示すように、口を噤んで兄と向かい合う。


 二人の間に、重たい沈黙が横たわった。


 ガイルは、やがて、諦めたように深い溜息をつくと、枕元に立てかけられていた愛剣を手に立ち上がった。


「……恐れているのは、お前の方だろう。」


 ガイルは、独り言のようにぽつりと呟くと、セインの言葉を待たずに扉に手を掛けた。





 扉を押し開いたガイルが、凍りついたように、ぴたりと動きを止めた。


 なにがあったというのだろうか。


 セインは、不思議に思いながら、硬直しているガイルの背に近付いた。


「どうしたんです? 兄さ……」


 セインは、ガイルの視線の先を見るや、信じがたい光景に、言葉を失った。


 部屋の出口を塞ぐように、レオンとリクターが、群臣を引き連れて仁王立ちで待ち構えているではないか。


「これは、いったいどういうことでしょうか?」


 セインは、咄嗟に、ガイルを庇うように自分の後ろに下がらせた。


 ガイルは、自分にとっては血を分けた兄だが、彼らにとってみれば、ハーネストに悪夢を齎した黒竜に過ぎないのだ。


「そう構えるな、竜騎士長。なに、悪い話ではない。」


 警戒するセインに、アルノーは芝居じみた動きで首を横に振ると、勿体付けるように眉を跳ね上げた。


「グィノット卿……。」


 セインは、探るように、白髪の老紳士をちらりと眺めやった。


 彼は、竜の末裔に対して、決して好意的な人物ではない。それでも、意外なことに、嘘をついている気配はなかった。


 セインは、訝しく思いながら、身構えるように背筋を伸ばした。


「セイン、お前は、この国の要だ。これからも、変わりなく。竜騎士長としての務めを放棄することは、許さない。」


 レオンは、一歩前へ進み出ると、セインの顔を見据え、厳然と言い放った。


 その語調に反して、眉宇には優しさが滲んでいる。


「それから……。ガイル、と言ったな。」


 こちらの反応を待たず、レオンは、静かにガイルに呼びかけた。


 セインの背後で、ガイルが、たじろぐように身を引いた。


 それでもレオンは、ガイルを真っ直ぐと見つめると、真摯に言葉を続けた。


「その方の事情は、あらかた承知している。しかし、犯した罪は重い。ゆえに、私は、王として、裁定を下す。……退去は許さぬ。この国に留まり、その目で、しかと我らを見るがいい。」


 セインがそっと振り返ると、ガイルは、身を固くしたまま、戸惑うように柘榴石の瞳を瞬かせていた。


「だいたいお前らなあ、水臭いじゃねえかよ。俺らになんの挨拶もなく、どっか行こうってのか?」


 理解の追い付かぬ双子の耳に、リクターの、からからとした笑い声が響く。


 リクターは、二人の顔を交互に見やると、場を和ませるかのように、にっかりと力強い笑みを浮かべた。


「その通りだ、クロス卿。我らは、共に歩む同胞である。ゆえに、お……私は、遠慮は無用、と考える。」


 朗らかに笑うリクターの横で、スライは灰青色の瞳を細めて、生真面目に頷いた。


「竜騎士長、ここにいる我ら以外に、卿らの素性を知る者はいない。そして我々は、一様に、口を閉ざすであろう。これならば、今までと、なんら変わりあるまい?」


 アルノーは、わざとらしく首を竦めてみせると、外套を優雅に翻しながら、セインに背を向けた。


「こやつな、お前さんらがいなくなってから、熱烈な演説をぶちおってなあ。ありゃあ、天地がひっくり返るほどの傑作じゃったぞ。」


 ゲイルズは、人垣からひょっこりと顔を出すと、くつくつと笑いながら、悪戯っぽく目を細めた。


「……竜騎士長。我らと竜の末裔の隔たりなど些末な事と、この老骨に示したのは、慈悲深き陛下の御心と、卿の剣に他ならぬ。この私に、再び次代への夢を見せたのだ。……これを、夢で終わらせてくれるな。」


 アルノーは、ごまかすように咳払いを一つして、背を向けたまま、つんと澄ました声を落とした。


 彼の背に、偽りの色はない。老獪な政治家の言葉は、飾り気のない、彼の真意なのだ。


 もつれた頭で、ようやくそれを理解したとき、セインは、まるで、お伽噺でも聞かされているような心地だった。


「セイン、お前の恐れるようなことは、起こりえぬ。やっと会えた兄弟を、引き離すこともせぬ。……これが、お前の献身への答えだ。二人とも、今更、去るとは言うまいな?」


 レオンは、茫然とするセインの肩に手を置くと、耳元で、優しく囁いた。


 紅蓮の瞳は、夕暮れの空のように、温かく、吸い込まれるような煌めきを放っている。


 セインは、夢を見ているようにぼんやりとした目で、集った人々の顔を視た。


 そこに、凍えるような怯えの色を滲ませている者は、誰ひとりとしていない。


 恐れていた現実は、夢幻の彼方へと、消え去っていった。


「皆さん……。ありがとうございます。本当に……。」


 セインは、今にも零れ落ちそうな涙を隠して、深く、深く頭を下げた。彼らがくれた温かな燈火を、自分は永遠に、忘れることはないだろう。


 黄昏時の茜空は、十八年前のあの日、優しい手がくれた温もりのように、柔らかな光を落としていた。

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DRAGON・KNIGHT 双極の剣 宮 仲太 @undertaker69

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