第五楽章 お人形の踊り


 分 散 和 音


 全音階


 半

   音

    階


 初雪は少女たちの上に、希望の音のように降りそそいだ。


 天国に舞う雪。それは、地上に舞う雪と同じ柔らかさ。まわたのような雪は、天使の羽とエプロンドレスを、あたたかく彩っていた。


 ♪♪♪


 櫻貝さくらがいみたいな爪が血を流すまで、かつてない熱を込めたピアノを、まわたは弾いた。音楽大学の受験レベルには、とうてい及ばない。しかし、心を熱く頑張ることのできた自分が誇らしい。


 どう生きればいいのか分からない女子高生だった。

 ピアノに向き合って考えた末に、まわたは哲学を専攻する女子大生に、なった。


 入学式が済んだ日、澄みわたったそらに、春の雪が舞っている。


「ありがとう。一度きりの巡り逢いだったけれど、あなたは私の親友よ」


 メロディードール。

 あの日、見た少女の幻影が、天の上から、あたたかい雪を降らせる。


「誰かの力に、なりたいって、

 ずっと夢見ていた。

 ありがとう」


 鈴の音のような少女の声を聴く。

 ありがとう。互いの心に交響した。


 ♪♪♪


 天に、ありがとう、とつぶやく少女を、見詰める少年の瞳があった。色素の淡い榛色はしばみいろの瞳と、同じ色合いの髪を伸ばした、スポーツには縁の無さそうな少年だ。彼は、物怖じする心を鼓舞して、話し掛ける。


「遠野さんだよね?」


 振り返った少女の瞳は、きょとんと見開かれていた。


「誰だっけ? そんな顔だね。もしかして、短髪のイメージしかない?」


 少女は思い出す。十七歳の頃、おままごとのような、お付き合いをしていた男の子だ。ひじの故障で療養していた彼の、放課後の時間を少しだけ、一緒に過ごしたにすぎない。


 当時の彼は、テニス部に所属していた。

 小麦色の肌に短い髪の、彼しか知らない。


「一年も経てば髪も伸びるよ。

 きみは変わらないね……指、痛めたのかな、大丈夫?」


 少年は、まわたの薬指に巻かれた包帯を注視していた。彼の、ほっそりとした白い首に揺れるほそい髪は、春の陽光ひかりを受けて、いっそう淡い。


「お母さんも、元気してる?」


 きみの、お母さんのれてくれる紅茶は、あたたかくて美味しくて、きみが弾く題名タイトルの分からないピアノ曲を聴きながら、音を消したアプリゲームに夢中だった、あのころ。きみのかたわらに居ると、気持ちがラクになったものだ。少年は懐かしむ。


「分かっているよ。どう言うか、お互いに若かったよね」

「今も若いわ。お母さんも、お父さんも、元気よ。

 雪彦ゆきひこくんも、この学校を選んだのね」


 雪彦くん。当時と同じ呼び方をされて、少年は恥ずかしそうだった。


「まだ、アプリゲームしているの?」

 少女の他愛のない質問が、離れていた時間の気まずさを、ないがしろにする。


「それがさ、あんなにまっていたゲームが、サービス終了したんだ。信じられる? ゲームロスに陥ったよ。ひじの故障も治らないし、人生が虚しくなった」


「やっぱり若いのね。虚しくなるなんて」

「何? その達観した発言。

 まわたちゃんは、少女の皮を被った、おばあちゃんみたいだ」


 少年が、すらりと呼んだ。まわたちゃん。


 おばあちゃんみたいだとか、ぼくと話すときよりピアノを弾いているときのほうが楽しそうだとか、変なことしか言わない人。

 だけど、心の奥深いところを、くすぐる人。


「まわたちゃんは、何を専攻するの?」

「哲学よ」

「わぁ、一緒だよ。必修の時間に会えるね」


 雪彦は、この瞬間、虚しいなどという感情を忘れていた。

 ふたりは、無邪気にLINEを交換する。


「きみの指、治るんだろう?」

「治るに決まっているじゃない」


「きみの指が治ったら、放課後、ピアノを聴きに行っていい?」

「積極的なのね」


「迷惑?」

「全然。雪彦くんが、私のかたわらに居てラクなら、それでいいの」


「わぁ、ぼくも同じこと思っていたよ。

 きみと居ると気持ちが楽になるんだ。

 不思議だね」



    終

    止

    和

    音

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お人形の夢と目覚め 宵澤ひいな @yoizawa28-15

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