117

はまりー

第1話



 因果な商売を選んだもんだと、後悔するときがある。

 たとえば、こんな朝がそうだ。

「北庄のオヤジが倒れた」

 仮眠室のベッドで寝ていた俺を叩きおこし、耳元でそう叫んだ馬鹿がいる。

 西新宿の国際電信電話庁ビル、地下七階。地上じゃ陽が沈むころのはずだが、

陽のあたらない場所にいる俺たちには関係ない。

「勘弁してくれよ、おい……俺様ってば眠りかけたばっかで……」

 答える俺の声はずいぶんと情けない。十二時間連続勤務を終わらせたばかり

だった。しゃべりすぎて喉はからから。背中と腰が痛い。誰だってこんなとき

は恋人の胸より寝床の方が恋しくなる。

「どっかで他の”時計屋”をさがしてこいよぉ」

 俺の泣き言にも、目の前の男は動じない。新宮、俺の上司だ。アルマーニの

スーツを着こなしたその姿は、公務員というよりヤクザに見えるのだが。

「甘えるなよ。いま庁舎内にいる時報職員は二人しかいないんだ。そのうち一

人は放送室の中でゲロ吐いてぶっ倒れてる。おまえがやるしかないだろう」

 酔っぱらった北庄の姿が目に浮かんだ。あのアル中オヤジ、いつかはやるだ

ろうと思ってた。勤務時間外であろうと、”時計屋”には酒と炭酸飲料は禁じ

られてるってのに。

「交代要員が来るまでもう12時間。おまえしかいないんだ。頼んだぞ」

 新宮はそう言うと、俺の返事も聞かず仮眠室のドアを開ける。逃げ場はない。

自分の職業選択を呪うだけだ。俺はため息をついて、しぶしぶ立ちあがった。

 ”時計屋”の仕事場は、このビルの地下二十五階にある。

 薄暗い、湿った階段をおりていくと、地下十五階のあたりでタンカに乗せら

れた北庄のオヤジとすれ違った。寝そべったまま、俺の顔を見てニヤリと笑う。

殴ったろか、こら。

 座敷牢のようにも見える、分厚いコンクリートに覆われた「放送室」。ドア

は開けっ放しで、壁にならんだインジケーターがちかちか光っているのが見え

た。俺は新宮には目もくれずに、「放送室」の中に入り、防音ドアを閉めた。

 北庄のオヤジの”不始末”のあとを避けて、シートに座る。床に転がったヘ

ッドギアをかぶると、目の前でLEDが点滅した。


             PM 6:59:55


 耳元で軽やかにおなじみのメロディが転がる。ぴっ、ぴっ、ぴっ、ぽーん。

 「ごご、しちじ、ちょうどをおしらせします」――俺はそうつぶやいた。


 ”時計屋”――この仕事をはじめてもうすぐ三年になる。

 面接試験でいままでの職業を聞かれて、俺は無愛想に「水商売」と答えた。

それが新宮にウケたんだと思う。俺の過去を知ったら、あいつはもっと大笑い

しただろう。渋谷でケチなレイヴパーティーのアガリをもってトンズラしよう

とした俺は、捕まって右手の筋を切られた。それでDJ稼業とはオサラバだ。

 低賃金、過酷な勤務条件、なんで”時計屋”なんて選んだのかと不思議がる

連中もいた。きっと飽きたんだと思う。皿を回して他人を盛り上げることにさ。

 いまも、ほら、目の前のインジケーターがちかちかして、俺のリスナーたち

の存在を知らせてくれる。でも、どいつも愛想なしだ。『ごご、はちじ、じゅ

ういっぷん、にじゅう』ガチャン。俺のシャベリを最後まで聞きもせず、奴ら

は電話を切る。奴らは俺の声がテープに録音した声だと信じて疑わない。もち

ろん俺もむかしはそう思ってたさ。この椅子に座るまでは。

 ごご、はちじ、さんじゅっぷん、ちょうどをおしらせします。

 電話をかけてくる奴は、当然のことながら誰もしゃべらない。「テープ音声」

相手にしゃべる奴がいるもんか。咳払い、鼻歌、舌打ち、そのあたりがせいぜ

いだ。コミュニケーションが目的でつくられた電話の中枢。会話のない奇妙な

空間。まぁ、コソ泥みたいなDJ廃業野郎にはちょうどいい職場さ。は、は。

 おっと。そんなこと言ってたら声が聞こえてきやがった。

「しもしっ! 火事だっ! わたしの家が燃えてる! 早く消防車をっ!」

 ごご、はちじ、よんじゅうごふん、じゅうびょう(阿呆、番号違いだよ)。

「誰が時間なんか教えてくれって頼んだ! ふざけるな!」

 ガチャン。だったら深呼吸して、掛けなおすんだな、ベイビィ。


 ごぜん、さんじ、にじゅういっぷん……あら、誰も聞いてねぇや。通話状態

を示すインジケーターはどれも黙り込んでいる。カタギの連中はみんな寝てや

がんだな。俺様ときたら喉は腫れ上がって、股のあいだの小便袋も満杯。くそ、

寝ちまうか、もう。どうせ誰も聞いて……。

 ……まてよ、おい。いっこだけ、明かりがついてるじゃないか。

 ごぜん、さんじ、にじゅうごふん……まだ、電話は切れない。ただ一人の俺

のリスナー。反射的に、むかしのことを思い出す。ある音楽専門局で、深夜放

送のDJをやってた頃の思い出。熱い記憶が、いまの枯れた体を燃やしそうに

なる。俺はあわてて、その思い出を払いのける。

 ふいに腕にトリハダがたった。かすかに聞こえる泣き声……こいつ、泣いて

やがる。声からすると若い女だ。

「……ねぇ、なんか言ってよ……」

 すすり泣きのあいだから声が囁いた。ごぜん、さんじ、にじゅう……。

「馬鹿みたい。あたしなにやってんのかな、こんな夜中に……」

 ごぜん、さんじ、さんじゅういっぷん……。

「うるさいわねっ! あんたの声なんか聞きたくないわよ。あたしにだって他

に電話するところぐらいあるんだから。ほんとはこんな女じゃないんだから。

あたしべたべたした女だって思われるのいやで。無理して突っ張って」

 ごぜん、さんじ、さんじゅうにふん……。

「ほかに電話するところだって……あったんだから。きのうまで」

 泣き声がとつぜん途切れた。俺は音をたてないように唾を飲み込む。電話の

むこうに生身の人間がいる。それを気づかれたら俺はクビだ。

 さっきよりもはげしく、女は泣き始めた。

「ねぇ、何か答えてよ。どこかに誰かいるんでしょ? あたしどこに電話すれ

ばいいのか……どうすればいいのか……もうわからない!」


 午前、三時、三十三分、二十秒をお知らせします。

 午前、三時、三十三分、三十秒をお知らせします。

 午前、三時、三十三分、四十秒をお知らせします。

 午前、三時、三十、ああ、ここに俺がいるよ。心配するな。

 午前、三時、三十四分、ちょうどを、お知らせします。


 クビになった次の週、俺は近くの喫茶店で、ぼんやり茶をすすってた。

 さぁて職安に辿り着くまでのアシ代、どうやってひねりだそう。そんなこと

を考えながら、新宮の呆れ顔を思い出して、ケタケタ笑ってたってわけ。

 そのとき。喫茶店のドアがあいて、女がひとり入ってきた。

 なんとなく白けた気分で、俺は視線をそらせる。上物のスーツを着た、若い

女。唇をひきむすんで、真っ直ぐ前をむいて歩いてくる。鋼鉄の女みたいに、

背筋を伸ばして。俺のすぐ近くの席に座ると、彼女は手をあげてウェイトレス

を呼んだ。カモミールティー。短い言葉だったがそれで充分だった。

 彼女は自信に満ちあふれた微笑を、誰にむけるでもなく宙に投げた。

「午後、三時、四十一分、三十秒をお知らせします」

 かたわらで振り向く気配。俺は微笑んで、静かにカップを置いた。


                               (了)

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117 はまりー @hamari_sugino

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