1-5―透明なラビリンス―

 ある日の夕方、生徒会の仕事を終えて戻ってきた珠樹は教室でたったひとりで机にうつ伏している笙を見かけた。窓からは夕陽が射し込み、赤々とした情熱の影絵をそっと笙の肩に降り注ぐように傾いている。その光景に不意に見とれて、どきどきしながら珠樹は笙の横脇にそっと忍び寄った。さらさらの髪が顔まで覆っている。表情は確認できないが、ひとりの美しい少年がぐっすりと眠り込んでいる風情にまじまじと見とれて、ぼんやりとしたとりとめない思いに珠樹はしばらく浸った。窓を叩く風の音が心の奥にまで響くような音をたてている―脳裏でぐるぐると巡るような思いが渦巻き、時計の秒針が進むにつれて、どこからか時の静かな足音が聞こえてくる―そんな錯覚がよぎる中、立ち尽くしている珠樹の耳元を撫でるように かすり、足音は消えていく―とそのときだった。笙ががばっと顔を横に向けて珠樹が仰天するような元気な声で叫んだ。


「だーるまさんがころんだ!」

一瞬、きつねにつままれたような顔をして珠樹はふいに後退りした。


「あ、動いた!君の負けだね」

いたずらっこのように笙がはしゃぐ。


「だって、突然なんだもの……」

珠樹はうつむき加減に呟きながら、耳元から足のつま先まで赤面していくような心の震えを感じていた。


「あ、やっぱり、だるまさんだな。以前から、そう思ってたんだ」

「以前から?」

「そう。いつもちょこちょこと走り回っているし、おっちょこちょいみたいだし……」

「……?」

「よく、転ぶだるまさん。七転八起なんて言葉があったなぁ、そういえば。あ、七転八倒なんて言葉もあった」

珠樹は後に続く言葉を失い、首を少し横に傾けながら、長い黒髪をひと指し指で掬った。

「うん。いい感じ。黙っていても。ね、こっちに来て」


 珠樹は吸い寄せられるように笙がうつ伏せになっている机の目前にしゃがみ込んだ。ふたりの目線が重なり合い、透明なラビリンスに迷い込んだような余韻の中で、珠樹はただ自分の心臓の鼓動が高鳴っていくのを感じることだけで精一杯だった。―とそのとき、笙のひとさし指が珠樹の髪にそっと触れた。


「柔らかな髪だね」

「……」


 静かな沈黙がふたりの間に流れるとともに珠樹の心の奥で透明な心の雫がぽつりと弾け、淡く波立つ さざなみのような波紋を浮かべ広がりはじめた。身動きができないような息苦しさの中で珠樹が不意にそっぽを向くと、笙が急に立ち上がり、幾分ぶっきらぼうに鞄を掴んだ。


「じゃ、俺、帰るから。またね」


 あっけにとられたまま、突っ立っている珠樹を残して笙はあっという間に教室から出て行ってしまった。珠樹は笙が触れた指先の感覚を心の奥でなぞるように思い出していた。よく考えてみれば、言葉を交わしたのははじめてだったのにまるで以前からの知り合いのように話しかけてくれたことが嬉しくも奇妙な感じがする一方で、女慣れした印象を捨て切れなかったのも事実だった。学内の噂では去年付き合っていたらしいという彼女のことなどを思い出し、自分はからかわれたのだと言い聞かせながらも嬉しいような複雑な思いが脳裏を過った。


 ―だるまさんか……。


 そんな風に呼ばれたのは、はじめてだった。妙な褒め言葉よりもなんだか心にしっくりとくる。珠樹は思わずくすりとひとり笑いしながら、教室の外に向かいかけた。その拍子にさっきまでの美しい夕陽の景色が嘘みたいに外は雨雲が広がり、柔らかな小雨が降り出した様子であることに気付き、珠樹ははっとして窓際に駆け寄った。吸い寄せられるように窓の下を見下ろせば、細かい糸のような小雨が降りしきる中を傘もささずに走り去って行く笙の姿が―。その後ろ姿にたとえようもない愛しさを感じはじめている自分に気付き、小さな戸惑いを感じながらも、ぽつりぽつりと染み込んでいくような柔らかな雨音に思いを静かに馴染ませるように珠樹はそっと髪を掬い上げた。

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