1-6―物思う季節―
翌朝、教室に入るや否や珠樹の目線はにわかに笙の机の方へと向った。まだ空っぽの席に、昨日ふたりで向かい合ったまま目線が重なり合った瞬間の心象が交差し、心臓が音をたてた。
―とその瞬間―。
「やぁ」
背後から珠樹の肩に一瞬手をかけ、笙が走り込んできた。
「おはよう」
咄嗟のことに儀礼的に挨拶した珠樹に微笑みかけるような一瞥を送ると笙は何食わぬ顔で席について鞄をしまい込み、よく窓際で一緒にたむろっている
「珠樹、どうしたの?」
屈託のない笑顔を浮かべて優理が珠樹の顔を横から覗き込んだ。優理は以前から珠樹に対し少し羨望の眼差しを抱いていたこともあってか、その言動に少々大袈裟気味なところがあった。
「夏木と何かあった?」
「何もないわ」
そうひと言呟くと、珠樹は自分の複雑な思いを優理に読みとられることを恐れてさっと目を伏せた。グループの間で思い人について打ち明けていなかったのは珠樹ひとりだけだった。また、珠樹自身はまだ芽生えはじめたばかりの思いに対して戸惑いの念の方が大きかった。
「夏木ってやっぱり、かっこいいよねぇ。今は誰とも付き合っていないみたいだよ。珠樹とだったら、お似合いみたい」
優理は珠樹の顔色を伺うように呟いた。
「珠樹だけだものね。好きな人のことについて、教えてくれないの。まあ、珠樹はもてそうだから、引く手あまたって感じかしら?迷いの小羊ちゃん、さっさと的を絞らないと狼さんに狙われちゃうぞ!ま、いつだって私たちが守ってあげるけどさ」
「はぁ、何言ってんだか。私は忙しくて恋愛どころじゃないの」
珠樹はできるだけ涼しい顔をして答えると席についた。ふと笙がいた窓際の方に目を向ければ、相変わらず楽しそうに談笑している。
―何を話しているのかしら―?
珠樹の思考はまたとりとめもなく、昨日の風景へと遡った。
—わたしは、だるまさんか……。そんなにまるくないぞ!
そう、思った拍子に一瞬、笙と目が合ったような気がして、慌てて机の方に向って目を伏せた。心臓の高鳴りとともに思考回路がどんどんと朧になり、強い緊張感に包まれるように、赤面していく自分自身を感じながら珠樹は慌てた。
―これじゃ、本当にだるまさんだわ―。
白と黒のコントラストのあるぼんやりとしたラビリンスに吸い込まれるように少し朦朧とした心の渦中を彷徨っているうちにいつの間にか授業がはじまっていた。教科書も開かないでうつむいている珠樹に優理が囁いた。
「どうしたの?珠樹ったら。教科書も開かないで」
「あ、うん。ちょっと考えごとしてて」
「なに、考えているのかしら?」
優理はいたずらっぽく、くすりと笑った。
休み時間になるといつものグループの仲間たちが集まってきていつものように女子トイレへと向った。その途中で優理は相も変わらず、しつこいと思うほどに珠樹の顔色を伺いながら話しかけてくる。
「珠樹にもやっと物思う季節が訪れたかしら?」
「なになに?どうしたの?優理だけぬけがけして。わたしたちも仲間に入れて」
美都子と睦が興味津々に珠樹の顔を覗き込んできた。
「何も……ないわ」
「何もないって、まあ、何もないんだろうけどさ。なんだかあやしげなんだもの。珠樹と夏木」
優理は躊躇なく本題に触れてきた。
「夏木君と何かあったの?いいなぁ。わたしだって憧れちゃうよ、夏木君。話しかけられただけでドキドキしちゃう。まあ、貴文には負けるけどさ」
「何言ってんだか……」
おっとりと呟く美都子に対し、睦がさらりと返した。
「それより、本当に何かあったの?」
睦は珠樹の両腕を抑えてぐさっと食い込んできた。
「白状しなさいよ。珠樹だけよ。秘密、教えてくれないの」
「うん……。自分でもまだよく、わからないの」
「そっか。いいよ。今日のところはそれで簡便しておくわ。
睦はさっと身を翻すと女子トイレの扉の方へ小走りに走った。
「いいこ、いいこ」
優理の髪をさっと撫でると美都子も睦のあとに続いた。
呆気にとられている珠樹に腕を絡めると優理は言った。
「私はもちろん、応援してるよ!愛しの珠樹ちゃん。私のことも忘れちゃだめよ!」
「もう、何言ってんだか……」
そんな風に呟きながら、珠樹は内心、皆と共有の秘密をもったようで嬉しかった。―とその瞬間、美咲がそっと心の奥に話しかけてきたような気がした。
―私にも珠樹の心の秘密を教えてくれるかな―。
―あ、そうだね。美咲に先ず、報告しなきゃね―。
「ね、その表情、とても物憂気で綺麗……。恋をすると美しさにも磨きがかかるのかしら?」
咄嗟に珠樹の心の内を探るように話しかけてきた優理の視線にまどろこしいような戸惑いを感じながら珠樹は再びうつむき加減に赤面した。
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