/4 聖堂(九月八日)

 夜を待って、三度みたび聖堂を訪れた。


 時刻は零時目前。今回は刻限が遅いことがかえって幸いした。最大の障害である寮監の在室確認も終わっていたから、悠々と寮から抜け出すことができた。夜半に寮を抜け出すのもいい加減慣れたものだ。ルームメイトに何も告げずに部屋を出たことだけは、少しだけ心残りだったけど。


 ――碓氷ミナは、己が身に宿る胎児の正体を知るために、かの怪談に縋ったという。


 しかし、マリアはミナに何ひとつ与えなかった。ミナは一方的に身上を打ち明けただけで、それで何が変わるでもなかった。

 

 だが、ミナは眉唾とは断じなかった。どころかその晩、告解室には間違いなく誰か来ていたと言うのだ。


 あの箱部屋の仕切り一枚で隔てた向こう側に、何者かが座っていた。碓氷ミナが噂を信じる根拠としては十分だ。


 しかし本来なら、ミナは願いの成就とともに、学院を去るはずだったのではないか。


「果たして、鬼が出るか蛇が出るか」


 聖堂の威容を睨む。肝心の仕込みは、夕の祈りの前に再訪して済ませておいた。あとはあの箱部屋で、マリアが現れるのを待てば良い。


 尤も、本当にマリアが来るとも限らないが。神代がマリアと繋がっている以上、わたしの動きが伝わっていると考えるのが自然だろう。


 だとしても、ほかに道がないことも確かだ。それに、神代はおそらく懺悔室のマリア本人ではない。いや、そもそも本人と言える誰かがいるのも怪しいが、少なくとも、マリアの動きは、神代の思惑とまったく一致しているわけではないのだろう。


 古い両扉に手をかけ、力を込める。この時間なら本来、聖堂は施錠されているだろう。それこそ中でにやけ面の司祭が待ち構えてでもいない限りは。


 ゆっくりと、扉に体重をかけていく。


 ――開いている。


 聖堂の前室は、以前来たときと違って真っ暗だった。あのときは鈴白と待ち合わせていたから、完全には灯りも消されてはいなかったのだが。


(一応、準備しておいて良かった)


 扉を少し開けたまま、外灯の仄かな光を頼りにして、まずは小脇に抱えていた燭台を、入ってすぐのところにあった、聖堂関係の案内のチラシが置かれている机に下ろした。ポケットからマッチの箱を取り出して火を灯し、燭台の蝋燭に灯りを移す。使い終えたマッチは、仕舞って持ち帰るわけにも行かないので、そのまま床に打ち棄てて、革靴の踵で踏みにじった。


 再び燭台を手に取る。金属でできた小ぶりなそれは、食堂の机から拝借してきたものだ。正直なところ心許ない光量だが、最低限の視界は確保できた。


 前室から聖堂へ移動する。当然ながら、聖堂も真っ暗だった。正面の祭壇に聖体ランプの赤い光が見えているが、実にささやかなもので、聖堂どころか内陣すら照らせはしない。


 燭台を掲げながら、ゆっくりと身廊を進む。秋口とは言え、夜は少し冷える。上着を持ってくるべきだっただろうか。それとも、肌を撫でるこの寒さは、果たして外気に因るものではないのか。


(今更、何に怯えると言うんだ)


 我がことながら、肝の小ささを嘲りたくもなる。会集席や柱の暗がりから得体の知れぬ何者かが現れようと、すべては覚悟の上だったはずだ。


 幸いなことに、かの亡霊もすっかり寝入ってしまったのか、今のところ姿を見せる者は誰一人としてなかった。ただ自分の足音だけが、深い闇の中に響いていた。


 交差部を左手に折れ、箱部屋の前に到着する。暗闇の中に横たわる木の幕屋は、日中より一層威圧的に見えた。


 そして聖堂の入り口と同じく、箱部屋の前に張られていたロープパーテーションも、箱部屋の扉を鎖していた錠前も見当たらない。


 緊張からか、つい息を呑む。今のところ、周囲に気配は感じられない。箱部屋の中にも、恐らくは誰もいはしないだろう。


 左側――知恵の実を持つイブが刻まれた扉を、中の様子を伺いながら慎重に開いていく。予想していた通り、中には誰の姿もなかった。念のため、右のミカエルの扉も開いてみる。こちらもやはり誰もいなかった。少なくとも今のところは。


 このままここで突っ立っていても時間が過ぎるばかりだ。わたしは意を決して、イブの扉から箱部屋に入った。


 告解室の中は、入ってみると思っていたたよりは広く感じられた。壁と椅子が一体化しているから、立ったままでいられるほど幅はなかったが、高さは随分余裕がある。わたしの背丈では椅子の上に立ったとしても、頭がつかえることはなかった。


 扉を締めてから座席に腰を下ろす。すぐ目の前を薄い壁が遮っていた。信徒はこの仕切り越しに司祭へ告白を行うわけだ。ちょうど顔の高さに丈の短いカーテンが引かれていたので、何の気なしに捲ってみると、仕切りには声を通すための小さな穴がいくつか開いているだけで、向こう側を見通すことはできなかった。


 正面からカウンターよろしくせり出した僅かなスペースに燭台を置く。腕時計で時刻を確かめると、あと一、二分で日付が変わるというところだった。


(逃げられたかも知れない)


 聖堂と箱部屋は鍵は開いていたものの、わたしを待つ者はなかった。マリアとやらがどのくらい時間に正確かは分からないが、こうして耳を澄ませていれば、聖堂の重い扉の開く音や、近づいてくる足音くらい聞こえてくるはずだ。


 にも関わらず、周囲の様子は一向に変化がない。少しだけ箱部屋の扉を開けて覗いて見ようかとか、いっそ司祭側の部屋に入ってしまおうかとか、あれこれ考えを巡らせてるうちに、時計の針が零時を刺した。


「――――――」


 そのまま十秒、二十秒と秒針を見送って、結局五分は待っただろうか。その間息を潜め、耳を澄ませていたものの、やはり何の物音も聞こえては来ない。


 気取られたか、それとも手順を間違えたか。よもや碓氷ミナの虚言ということはないだろうが――


 いずれにせよ、これはもう来ないだろうと、諦めて席を立とうとした、そのときだった。




「――え?」


 ひやりとした冷気が、首筋をなぞる。


 おかしい。だって、そんなはずはない。


 箱部屋の周囲は、入る前に照らして確かめた。箱部屋に入ってからも、聖堂入口の大きな両扉が開く音は勿論、硬い床を踏み叩く音だってしなかった。


 なのに――何故仕切り板の向こうから、蝶番の軋む音がしたのか。誰かの気配を、すぐそこに感じているのか。


 動悸が速まる。自分の息を呑む音が、いやに大きく聞こえる。あたりの空気が、一気に冷え込んだようにも感じられる。


 いるはずがない。向こう側に、何者かか潜んでいるのだとしたら、それは――




「――硝子。

 そこに、いるのか――?」


 咄嗟に、彼女の名を呼ぶ。そこにいるのが見知った亡霊なら良いと、心底そう思った。


 ――もし、仮にだ。誰かが聖堂の扉も開けずに、足音すら立てずにこの箱部屋に現れたのだとしたら、は――きっとずっと見ていた。わたしが聖堂にやって来て、箱部屋に入って行くのを、は息を殺しながら、暗闇の中でじつと見守っていたのではないか。


 ひゅうひゅうと、隙間風が耳に障る。この石の聖堂で、果たしてそんなものが聞こえるだろうか。


 ともすれば、そう。まるで、誰かが笑いを堪えているようだと思い至って、


 ――わたしはようやく、薄い壁の向こうにいる何者かの正体を悟った。



「――――くっ――は――――――アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!!」


 おぞましいほどの悪意が、わたしを磔にする。

 

 ――これは、違う。


 そこにいるのは――わたしの亡霊なんかじゃない!


 飛び上がるように席を立ったその刹那、カチリ、と小さな金属音が扉から響いた。


「――――!」


 すぐにその意味に気づいて、手をかけたがもう遅い。たかが木の板一枚だというのに、わたしの力では押しても引いてもビクともしなかった。


巫山ふざっ――!

 おい! ここを開けろ!」


 強かに、扉に拳を打ちつける。箱部屋全体が僅かに振動したが、ただそれだけだ。足蹴だろうと当て身だろうと、古い木がギシギシと身を揺らす音が虚しく響くだけで、結局は同じことだった。


「畜生!」


 無駄と分かっていても、戸をたたく手を止められない。

 

 そこにいた誰かの気配さえ、うに消え失せていたというのに。




   ◇




 カラカラ、カラカラ。


 空転する映写機の音。無意味に続く罪の螺旋。


 ――私はまた、夢を見ている。


 古い木と、土の匂い。蒸し暑さに、吹き込む爽やかな風。どこか懐かしい藺草と線香の香り。風鈴の音と、うるさいくらいの蝉の声。


 ――これは一体、いつの記憶ことだっただろう? そう考えてすぐに、私の意識は深く、より深く、夢の中へと沈んでいった。


 所属している修道会から、教育使徒として、母校である鈴懸女学院に派遣されて約四ヶ月。派遣前は長らく修道生活を続けていたから、私にとっては随分久しぶりの遠出だった。


「――ご連絡をいただいたときは、正直驚きました。

 こう言ってはなんですが――有栖川先生に旦那様がいたとは、思わなかったので」


 隣に座っていた旧友――胙咲耶がそう口火を切る。卓袱台の向こうから、濁すような苦笑が低く響いた。


「いえ、こちらこそ突然申し訳なかった。

 わざわざご足労いただけたこと、感謝しております。特にシェーファーさんには、その、ご負担だったかと思います。

 あいつも、きっと喜んでいるでしょう」


 どうやら、先方がその場で頭を下げたらしい。畳をる音が聞こえたあと、咲耶が慌てた様子でやめてくださいと言った。それで安心したのか、男性は姿勢を正したようで、またすぐにわざとらしい愛想笑いを返した。


 それから男は、辺鄙なところでしょうとか、学院での生活とはどのようなものですかとか、社交辞令じみたどうでもいい質問を並べ立てた。はじめのうちこそ律儀に付き合ってみたが、次第に私は相槌すら億劫になって、最後のほうはほとんど咲耶に任せきりにしてしまった。


 線香の煙が、何故だか矢鱈と鼻につく。私は先生に線香など上げてはいない。目が不自由なことを理由に遠慮させてもらった。当然、多少の手助けがあれば造作もないことだ


 けれど、キリスト者であったはずの先生が、学院を辞め、教会からも離れて結婚し、死後は遂に仏として祀られていることが、私にはどうしても受け容れがたかった。


「――それで、お話というのは一体何でしょうか?」


 白々さに堪え切れなくなった私は、いよいよふたりを会話を遮った。


 一言、口を開いただけで、空気がじっとりと重くなっていくのを感じた。


 それからほんの少しだけ、躊躇うような間があって、結局男性はおどおどと口を開いた。


「家内は――調しらべは気丈な人でした。つらかっただろうに、私の前で弱音を吐いたことなんてなかった」


 独白するかのごとく、男性がそう吐き出した。汚らしく洟を啜る様が、また同情を誘っている風に聞こえて、私にはそれが酷く不愉だった。


「そんな彼女が――悪くなってから唯一、繰り返し言っていたんです。

 ――シェーファーさん。貴女にただ一度、会って謝りたいと」




 頭の中で、何かが弾ける音がした。




「―――――――、」




 一瞬、思考が完全に断絶する。自分が何をしていたのか、自分がどこにいるのかさえわからなくなる。


 頭の中がゆらゆら揺れて、平衡感覚を失った私は、すんでのところで畳の縁を掴み、傾きかけた自身を支えた。


 私の向かいに座るこの男は。


 


 


 今――一体ナニヲイッタ?


「勝手な話であることは重々承知しています。私も、あいつから詳しい事情まで聞くことはできませんでした。

 それでも、家内が貴女に謝りたがっていたことだけは、どうしてもお伝えしたかった」


 私の様子など気にも留めていないのか、滔々と語る男の声が、酷く遠くから聞こえてくる。


 どうしてだろう。音は――言葉は認識できているはずなのに、言っている意味は少しも理解できなかった。


 ――厭な子だなぁ、お嬢ちゃんは。


 嗄れた声が、脳裏に響く。大鼠がベタベタと体を這い回る感触を思い出して、胃の中身を戻しそうになる。


「だからこの子の――ズザンネ・シェーファーの居場所を調べたのですか?」


 咲耶の声が、心なしか震えていた。


 私が鈴懸に戻っていることを、学院側がこの男に教えるはずがない。学院にとって、あの事件は汚点だ。そして事件の責任を取る形で退職したのが、ほかならぬ有栖川先生だった。彼女の夫を名乗る人物であれば、一層警戒されたに違いない。


 だからこの男は、学院以外から私たちの居所を掴んだのだ。恐らくは至極真っ当な方法で――先生のかつての同僚や生徒を頼って突き止めたのだろう。


 男の行動は、ひとえに亡き妻を想っての、善意に基づくものに違いない。


 ぐらり、と。再び大きく揺らいだ私の体を、隣にいた咲耶が受け止めた。

 

「――ごめん、咲耶。

 もう――大丈夫だ」


「ズーゼ」


「良いから」


 嘘だった。本当はまだ吐き気が治まらない。こみ上げた胃液の臭いが、既に鼻腔に感じられた。


 それでも、寄り添おうとする彼女を押しのけてまで、私は男に向き直った。


「貴方は――ご存知なのですか?」


 そこまでして、何故男にそれを問うたのか、自分でもよくわからない。


 ただ――悪心の向こうには、ふつふつと薄暗い感情が煮え立っていた。


「何を、でしょうか?」


 男が問い返す。その間の抜けた声音が、どうにも可笑しくて、それ以上に腹立たしくて仕方がなかった。


 だから、私は男を精々嘲笑ってやることにした。


「――勿論、理由ですよ。

 先生が学院を離れ、信仰まで捨ててしまった、その理由です」


 僅かな逡巡のあと、男は「いえ」とだけ答えた。

 

 ――本当に、可笑しいったらない。


 先生は、こんな男なんかと一緒になったのか。私は、こんな男にすら劣っているというのか。

 

「そう。それはそうでしょうね。

 だって、貴方は、」


 カラカラ、カラカラ、カラカラ。


 車輪は虚しく歌い続ける。


 ――これは、やはり悪い夢だ。


 傍らの白杖を手に取り、立ち上がる。友人と男の戸惑いの眼差しを、うっすらと肌に感じる。


 それでも――構わないと思った。どうせここは夢なのだから。だって、


 ――だから、握り込んだ白杖が、次第に不思議と重く、硬くなっていくことを、むしろ有り難いとさえ思っていた。


 白杖を高く、より高く掲げる。生温い液体がポタポタと滴り、私の顔を濡らした。


 あの人が――先生が愛していたのは、絶対に、


 ありったけの侮蔑を込めて、男へ向けて得物を振り抜いた。



 ――そのときの私は、教育者でもなければ、きっと神のしもべですらなくて。


 卑しくも嫉妬に狂う、ひとりの女に過ぎなかった。




   *




 篠突く雨の音と肌寒さで、自分が意識を失っていたことに、ようやく気がついた。


 どうやら、蝋燭が少し目減りしているくらいで、状況に変わりはないらしい。腕時計を見ると、午前二時を回っていた。座ったまま、再び扉に手を伸ばしてみるものの、こちらも相変わらず、少しだって動きはしなかった。

 

 寒さに震えながら、膝を抱えて縮こまる。石造りの聖堂は、思った以上に冷え込んでいた。それもこの雨のせいだろうか。箱部屋の中まで、窓を叩く音が聞こえてくる。やはり上着の一枚でも羽織ってくるべきだった。


(でも、まさかこんなことになるなんて)


 腫れ上がった右の拳を、左手で触れてみる。すっかり感覚が鋭敏になっていて、指先が掠めるだけで痺れにも似た痛みが走った。


 実際、わたしの立ち回りは軽率だった。懺悔室のマリアには、神代やまひろを通じてこちらの動きも伝わっていると知っていたのに、こうも無警戒に相手の懐に飛び込んだのだ。頼みの綱がほかにないから、今はそうするしかなかったのだが――敵が罠を張っていることくらいは予想しておくべきだった。


 それでも今の状況は、やはり不可解極まりなかった。


 わたしは何をされるでもなく、二時間もこの箱部屋にただ閉じ込められている。いずれ風邪くらいはこじらせるかもわからないが、所詮はその程度だ。凍え死ぬわけでもなし、朝になれば聖堂には必ず司祭らがやって来るのだから、箱部屋から声を上げれば流石に気づいてもらえるだろう。


 わたしがこんなところに閉じ込められていたとなれば、流石に教師らも見てみぬふりはできないはすだ。わたしが事に至るまでを仔細に話してしまえば、マリアの存在も学院側に露見する。無論、学院側がわたしの言うことを鵜呑みにするとも思えないし、教師らに打ち明けることはわたしにとって決して望ましい展開ではないが、しかしマリアにとっても、少なからず不都合に働くのではないか。


 だからこの罠は、きっとまだ終わっていない。既に二時間が経過していたが、マリアは再び何かを仕掛けてくるはずだ。あるいは、かつてこの場所を訪れたという彼女たち――見城澪らのように、わたしも「退学」させられてしまうのかもしれない。


(――いや。

 そんなことをする意味があるのか?)


 厳しくなる寒さに堪えようと、かじかむ手を蝋燭の灯りにかざす。手のひらがうっすらと透けて、皮膚の向こうに鮮やかな血色が浮かび上がった。


 現時点で、マリアについてはほとんど何もわかっていない。確かに嗅ぎ回ってはいたが、手がかりを掴めなかったからこそ、こうして直接接触を図ったのだ。


 去年からの退学者たちは皆、心臓痕硝子の呪いによってか、あるいはサマリア会を介した売春が露見したために退学したのだと噂されている。退学者たちが懺悔室のマリアに会っていたことも、一部の生徒には知られているものの、彼女を原因と考える者は少ない。鹿毛に曰く、一連の退学は十五年前の退学との関連が囁かれており、その一方でマリアの噂はここ数年で生じたらしい。


 それでも、わたしはマリアが退学に関係していることを知っている。あるいは、この確信こそが退学者らの共通点なのだろうか。しかし、それならば碓氷ミナが未だに学院に留まっていることに説明がつかない。マリアの元を訪れた者すべてが退学になっているわけではないのなら、退学者とそうでない者の違いとは、一体何なのだろうか。


 ぼう、と風もないのに蝋燭の灯りが揺らぐ。こめかみのあたりがグツグツと痛みだして、すぐに揺らいでいるのはわたしの意識だと気づいた。


「こんなときに限って、出て来やしないんだから」


 曖昧な景色の中にさえ、彼女の姿は見つからない。


 抱えた膝に顔をうずめて、ただ時が過ぎるのを、頭痛が引くのを待った。


 果たしてどれくらいが経ったのか、経っていないのか。それすらわからなくなった頃合いに、大扉が軋みを上げる音が、遂ぞ聖堂に響き渡った。


 胡乱だったはずの意識が、瞬時に覚醒する。聞き間違いなどあり得ない。続く足音が、聖堂へと踏み入ってくる。


 腕時計に視線を落として、思わず声を上げそうになる。はじめは朝が来たのだと思った。だが違った。


 時刻は未だ三時過ぎ。このような夜半に聖堂に来る者が、尋常な目的であるはずがない。


 敵が仕掛けて来たとわかったところで、今のわたしにはどうすることもできない。ただ箱部屋の中で息と震えを殺しながら、気配が消えるのを待つほかなかった。そんな私の胸中とは裏腹に、足音はゆっくりと、しかし確実に近づいていた。


 その音が迫るにつれ、どこか違和感を覚える。小さな――ほんの小さな引っかかりだが、確かに覚えがあった。。踵が床を踏み叩く以外に、何か硬いものをぶつけたような、耳触りな音が、何度も、何度も聞こえて来る。


 その音の正体に思い至り、わたしはようやく事態を理解した。


 いや、本当はうに気づいていた。ただ、信じたくなかった。きっと、ひたすやに目を背けていただけなのだ。

 

 かつて善きサマリア人の会に属し、その終焉さえ知る彼女が、


 笛吹男の手から逃れ、町へ戻っためしいの子を思わせる彼女が、


 聖母と同じ名を持つ、罪深き聖女を讃える日に生まれた彼女が、


 ――無関係であるわけがないと、分かっていたはずなのに。


 足音が、箱部屋の前でピタリと止んだ。


 それからすぐに、今度は金具の擦れ合う音が聞こえてくる。一際硬い音が鳴ると、鎖されていたはずの扉が、ひとりでに開いていく。


「――貴家、無事か?」


 罪の女イブの扉の向こうで、杖を携えた修道女――ズザンネ・シェーファーが、安堵の表情を浮かべていた。

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死がふたりを別つから かがわ @likealily

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