第8話 柏木恭子 2

「お母さん、まだ寝ないの?」


リビングのソファーに座り、ロイヤルコペンハーゲンのスタイルカップで安物のスパークリングワインを飲む恭子に、娘の瑠菜は呆れた顔をして見せた。恭子はチラリと時計を見て、「これで最後にするわ。」と悪びれずに答えた。


高校三年生になる娘は、今年国立大学を受験する。この十八年間、子育てで苦労したのは最初の数年のみで、瑠菜が物心ついてからは、全く手がかかった記憶がない。一度だけ、反抗期のようなものがあったが、ものの数日で終わってしまった。後から聞いたら、友達がみんな反抗期を迎えていて、自分もやってみたくなったからだとさらりと言った。高校に入ってからは、部活が終わって帰宅すると、必ず食事の準備をして待っていてくれる。


母一人子一人で力を合わせてやってきたという自負がないわけでもないが、娘には本当に頭が上がらない。仕事に没頭できるのは全て瑠菜のお陰だが、それでも人よりも努力をしてしまうこの子に負担をかけているこの状況を、なんとかしようという気は起きない。今さら父親がいてほしかったなどとは思わないが、積極的に娘のサポートに回れない自分自身を、恭子は弱い人間だと自覚していた。


自分なんかに比べて、同僚の三浦は強い。鋼の意思を持っている。なぜあれほどボロボロになりながらも、めげずに頑張れるのか不思議だ。自分も見習わなければと思うが、どうしてもあと一足が出ないのだ。踏ん張りが利かなくなってきた。特に、四十を過ぎてからは。最近では、なんでも無難に終わらせてしまうことが多い。上手くサボる癖がついてしまっているのだ。






瑠菜はローテーブルを挟んだ向かい側に胡座をかいて座った。そしてカステヘルミのプレートに残っていたナッツを、口に放り込んだ。


「しおちゃん、まただって?」


瑠菜が恭子の勤める女子高に入学してからというもの、夜な夜な学校のことを語らうようになった。それは愚痴や悩みといったものではなく、単なる親子に共通の話題であり、またお互いの行動を決定する大事な会議でもあった。瑠菜も恭子も思ったことを言う。率直な意見だからこそ、お互いに指摘されたことは気を付けるようにしていた。それで、この三年間、瑠菜は模範的な優等生を演じられていたし、恭子は誰からも尊敬される存在にまで昇華しようとしていた。もっとも、二人ともそういう素質があったことに間違いない。それが花開いた要因が、この親子会議に他ならなかった。


「これで三回目。本当、大丈夫かしら。」


「新しい部長、梨子でしょ?あの子嫌い。みんな言ってるよ。」


「そう?いい子よ。真面目だし。」


「先生の前だけだよ。ねえお母さん、知ってる?」


「なによ。」


「梨子たち、しおちゃんがパニックになるの見て楽しんでるんだよ。」


「なんでそんなこと言うのよ。」


恭子が聞くと、瑠菜は無言で携帯の画面を見せてくれた。


「これは?」


「梨子の裏アカ。」


「え?」


瑠菜が開いていたのは、可愛らしい女の子のイラストがトップにあるページだった。女の子は獣のコスプレをしているか、または獣が擬人化したものだと思われた。


「アニムスってアプリだよ。配信もできるしブログもできる。」


「ちょっと瑠菜、配信って……」


「私はやってないよお母さん。ねえ、梨子は信用しちゃ駄目だよ。あの子本当に何を考えてるかわかんないから。」


瑠菜は、眉根を寄せて今にも泣き出しそうな目をした。時折りこういう目をするが、この目をしたときの瑠菜は決まって本気だった。赤ん坊の頃から全く変わっていない。恭子はかつて、その度合いを見抜けなくて、痛い目を見たことがある。だからよく分かる。


鴻上梨子は、押しも押されぬ学校のアイドルだった。幼少期から続けてきた新体操では、一年生のときに新人戦で優勝し、壮行会では全校生徒の前で演舞を披露した。それがきっかけとなり、全校生徒に顔と名が知れた。その年のバレンタインには、当時の三年生までもが、梨子の教室にやってきてチョコレートを渡したのだ。派手なグループには属さず礼儀も姿勢も正しい彼女に誰もが虜になり、数名の生徒が交際を申し込んだりした。梨子は部活が忙しいからという理由でそういう付き合いをことごとく断っていたが、そのくらい彼女の人気は絶大だった。新体操部の先輩からは良くは思われていなかったものの、先輩には何も言わせないほど梨子の演技は圧倒的だった。


「ちょっと見せて。」


恭子には、瑠菜の言葉がにわかに信じられなかった反面、共感できる部分もあった。昼間、三浦のことを心配していた梨子を見たとき、恭子は得も言われぬ不安を押さえつけたのだ。梨子の二面性を見た気がしたからだ。それはどこか、田村に通じる部分があった。


「駄目。いくらお母さんでも見せないよ。子供の世界に干渉し過ぎるのは良くないって言ったの、お母さんじゃない。」


「そうだけど、それ大事なことよ。」


「私のこと信じてよ。」


瑠菜は語気を強めた。感情に任せて声が大きくなることもあるが、こんなに真剣なのは久し振りだった。


「なによ、急に。」


「私はしおちゃん、好きだよ。優しいもん。私たちのために頑張ってくれてるし。それに、差別しないから好き。」


「そうね。」


恭子は、三浦の真面目な性格を思った。


「だから許せないの。あんないい人を弄んで笑ってるのが許せないの。」


「でもあんた、その証拠はあるの?」


「あるよ。でも見せないよ。」


「それじゃ話にならないじゃない。」


「私がそうだって言ってるじゃん。」


「様子は見てみるわ。私も新体操部には色々と関わることになっているから。でも瑠菜、あんたの話だけじゃ動けないのよ。証拠でもあれば別なのに。」


「親なら信じてよ。」


いつの間にか、静かに瑠菜は泣き出していた。恭子はハッとして、グラスを落としそうになった。


「瑠菜!」


「ごめん。大丈夫。」






しばらく、瑠菜はすすり泣いた。手の平や甲で、数回目を拭った。恭子は何もせずに待った。下手にフォローするよりも、こういう時間を取った方が瑠菜は素直になるからだ。しかし、恭子はその考えをすぐに否定した。(そうではないだろう。)自分が何か余計なことして、娘との関係が壊れるのが怖いのだ。


結局、自分は良い先生かもしれないが、良い親にはなれなかった。生徒は皆、恭子の言うことをよく聞く。恭子が誉めれば喜び、叱れば反省して二度とやろうとはしない。そういう接し方は、この学校では自分にしかできていない。力で押さえつけるか、仲良くなって話を聞いてもらうか、他の教員はそのどちらかだ。力で押さえつけても、彼らは尊敬を得られていないし、仲良くなって話を聞いてもらうタイプの教員は、そもそも子供を叱れない。叱って、なおかつ尊敬されているのは自分だけだ。それは一重に努力の賜物である。


他の教員が、子供の学力を高めるために授業をしているときに、恭子は子供の人格を磨くために授業をした。他の教員が、部を強くするために部活動に励んでいる時間に、恭子は子供たちを成長させるために部活動に精を出した。そうした時間の積み重ねが、他の教員との差を作ったと恭子は確信している。もっとそういう議論を仲間内でしたいのだが、そこに価値を見出だす者はおらず、そんな時間はこれまで取れなかった。どこにでもある弱小私立の運命だったが、だからこそ恭子は、自分がしっかりせねばという思いでやってきた。そこには自信を持てている。だが、娘とちゃんと向き合っているかと問われれば、自信はない。


今も、普通の親なら娘の言葉を信じている。そして娘の味方になっているだろう。家にいてもつい、教師として接してしまう自分のことを、瑠菜は疎ましくさえ思っているだろう。それでも、恭子はそういう接し方を変えるつもりはない。変える気力がどうしても湧かないのだ。


瑠菜は冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、口をつけずに飲んだ。


「とにかく、梨子のことは担任の先生とも話してみるわ。」


口に水を含みながら、瑠菜は無言で頷いた。こうして見ると、なんとも子供にしか見えない。同僚からは、瑠菜はどこに出しても恥ずかしくないとよく言われるが、そういうプレッシャーと本人は闘っている。だから常に虚勢を張って学校に通っているが、おそらく三浦の前では、素の自分でいられるのではないだろうか。ふと、そんな気がした。


「瑠菜」


「ん?」


「話してくれてありがと。」


瑠菜はニコッとして恭子を見た。


「瑠菜、明日のお弁当、コンビニでいい?」


「もう、お弁当詰めたって、さっき言った。」


「ごめん。そうだった。」






その後、瑠菜は携帯を見ながら歯を磨き、日付が変わる頃に自室に籠った。この後、一時間ほど机に向かってから寝るのが、最近のリズムになっている。恭子には勉強のサポートは何もできないが、せめて合格したあとの卒業旅行代くらいは出してあげたいと思う。


今まで、親元を離れたことは一日だってなかった。中学校の修学旅行で唯一三泊四日ほど家を空けたものの、高校では三年間毎日一緒にいた。部活の遠征も、修学旅行も全部一緒だった。気が張るだろうし、堅苦しい思いをしているであろうことは容易に想像できる。何より遊びのない人生になっているのではないか。遊びとは揺れ幅のことで、多少レールから外れるくらい恭子は何でもないと思っているのだが、瑠菜はレールの上しか歩いて来なかった。それは、親が望む人生そのものだった。大学もおそらくこのまま合格するだろう。だが、一度も大きな失敗をしていない瑠菜が社会の理不尽さに耐えられるのだろうか、また一度も男と付き合ったことのない瑠菜が、しっかりとした男性を捕まえることができるのか。そういう不安が雨後の筍のように沸き上がっては消えていった。しかし、恭子が感じる最も大きな不安は、瑠菜の中に二面性が育っているのではないかということである。


確信はなかった。しかし、あの事件があってから、恭子は何でもないことにも神経を向けてしまうようになっていた。今日は梨子の二面性を疑った。しかし、本当は梨子ではなく、扉の向こうにいる瑠菜にこそ、懐疑の目を向けている。なぜなら、梨子よりも瑠菜の方が田村に似ていたからだ。


恭子の斜め向かいが田村の席だった。恭子と田村は三年間お互いの顔を見ながら仕事をしたが、田村は本当に真面目だった。優等生がそのまま大人になったような人間だった。色目を使ってくる女子生徒にも実に誠実な対応をした。そうして、図らずも生徒を益々惹き付けていくのだ。そういう人間だった。


その田村が遺体となって発見されたとき、頭は吹き飛んでいた。それを見た恭子はショックを受けたが、それ以上におぞましかったのは、田村が性器丸出しの状態で倒れていたことであった。指名手配中の凶悪犯であればそうした行動はまだわからなくもない。しかし、あの田村がそうだったことは、恭子に救いようのない絶望を植え付けるのに十分だった。長年人を見てきた恭子が、その裏を全く見抜けなかったのだ。だから恭子には、遺体の頭がどういう状態だったかという記憶はほとんどない。あるのは、スーツとパンツを下ろし、剥き出しになった性器を風に晒す、下半身男の哀れな姿だけだった。


「瑠菜……」


一本数千円するスパークリングワインの瓶に口をつけ、残っていた量を一気に流し込んだ。ほんの数滴ほどしかなかったが、渋味が口の中に広がった。恭子はそのままソファーに倒れ込むように沈み、朝方瑠菜に起こされるまで、目を覚ますことのない深い眠りについた。そして夢を見た。


夢の中で、恭子は瑠菜に対して、執拗に携帯を見せるようせがんでいた。瑠菜は見せてくれそうにもなったが、しかしすんでのところで、黒い靄のようなものに阻まれたのだ。恭子はそれを、神の意思だと解釈した。そういう夢だった。

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公園 橋本 @hasimotoka

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