第7話 柏木恭子 1

「しおちゃん、もっと自分に自信もちなよ。」


夏休みの初日、新体操部の二年生が、壁際で腕を組んで練習を見ている詩織に話しかけてきたのは、基礎練習が終わって秋季大会に向けた団体種目の練習に移るところだった。


県大会予選で敗退し、みづきたち三年生が新体操部を引退したのは六月だった。彼女たちが良い笑顔で終われたのは、間違いなくあの一件がきっかけだった。つまり、瑠菜たちが詩織を囲んで泣いたあの日からだった。さすがの新体操部員たちも、それまでと同じようにしていたら自分たちが学校中の悪者になる、そういう意識が働いたのかどうかはわからないが、詩織を、少なくとも一人の先生として認めてくれるようになった。その矢先に、彼女たちの夏が終わった形になった。結局、先生らしいことは何一つしてやれなかったが、最後には三年生全員から感謝をされた。


「ありがとう。でもあなたたちも変わらなければ駄目。今は私のことより、フープと鹿ジャンプでしょ。時間を無駄にしないで。」


「はーい。」


新体操部は本当に変わった。鹿ジャンプの後ろ脚の角度が甘いと詩織が指摘すると、それを揃えることに百パーセントの力を注いだ。一、二年生は、足が揃っていないとか、そういうレベルではない。五月の連休に、一緒に合宿を行った学校と比べて、技術も中途半端だし体力も筋力もまるでない。先輩達から受け継いだ演舞を、一曲まともに演技することすらままならない。一からのスタートだった。それでも、彼女たちが一生懸命に取り組めるのであれば詩織はそれを応援するつもりだ。


みづきの顔にも笑顔が戻り、引退後には、「しおちゃんで良かった。」と言われた。みづきの母親からも、直接感謝を言われた。担任の柏木からは特に何もなかったが、以前のように部活のことを心配されることはなくなった。それだけで詩織は踊り出しそうなくらい嬉しかった。授業の方は相変わらずだが、詩織は教師としてのステップを、着実に踏みしめて前に進もうとしていた。


詩織は、二学期から、今まで副担任をしていたクラスの担任も任されることになっていた。既に六月の頭から、学級の実務は詩織が担当していた。そのため、特に気を張る必要もないのだが、やはり正式に任命されたときには喜んだ。ストレスと忙しさに追いやられ、心が荒んで自暴自棄になってもいたが、段々詩織は人間らしさを取り戻しつつあった。そのきっかけをくれたのは、やはり瑠菜だったと、何度も考えた。


思えば、ここに来るまでは長かった。周りの友だちが皆就職し、自分一人だけアルバイトをしていた時期もあり、私立の進学校で教壇に立たせてもらったこと、初めて味わった授業崩壊、ブラック部活、そしてそこから立て直したこと。全てが大事な経験だった。教職がようやく軌道に乗ったのだという実感と、目の前の子供たちをどうやって鍛えようかと考えるのが楽しみになってきたこと、詩織は自分自身の成長に手応えを感じていた。今なら、採用試験など勉強なしでも受かるのではないか、根拠はないが、そういう自信が詩織の中に湧いていた。






「ねえ、しおちゃん、ゆっこのこと知ってる?学校やめたの?」


休憩時間でもないのに、突然詩織に話しかけてきたのは、新しい部長の鴻上梨子だ。梨子は、三年生の引退試合でも、唯一団体戦のメンバーに入っていた。幼少期より新体操を習っていた数少ない部員の一人で、実力では三年生の誰よりも上だった。個人では、県内でもベストファイブには入る実力を持っている。三年生は、この梨子の存在があったからこそ、あんなに荒れていたのかもしれない。


「梨子、あなたがこんなことしていたら一年生に示しがつかないわ。練習に戻って。」


「ごめんしおちゃん。でも、気になる。」


そう言って梨子は、部員の中に戻っていった。


二年生の鈴木友香は、望まない妊娠をした。帰宅部だったが、おそらく全校生徒から好かれる存在だっただけに、そのニュースにショックを受けた生徒の数は計り知れないだろう。堕胎のショックで精神が不安定になり、先日東京の専門病院に転院したと教職員には情報が入ってきた。だが、そうしたことは口が裂けても外部には洩らせない。かなりデリケートなものだからだ。ゆっこが、そういうことをするなどとは、生徒はおろか、教職員も誰一人として信じられる者はいなかった。明るく真面目で、人を立てるということをちゃんとわかっているような賢い子だった。少なくても、自分の将来をそんなふうに無下にできるような子ではなかった。いや、ゆっこだからこそ、相手の誘いを断りきれなかったのかもしれない。どちらにしても、詩織にはゆっこの気持ちなど知り得るはずもなかった。何しろ、挨拶以外ではろくに話をしたこともなかったのだから。


詩織の頭には、目が見えなくなるほどしわくちゃの笑顔で笑うゆっこの顔が浮かんだ。辛い思いをした分、あの子にはこれから幸せになってほしいと詩織は思う。今は無理かもしれないが、私だって変われたんだから、あなただって大丈夫よ、と詩織はゆっこに心の中でメッセージを送った。


「辛かったね、ゆっこ。」


詩織は、思わず涙を流した。詩織の頭には、ゆっこの色々な顔が浮かんできた。笑顔で職員室に入ってくるゆっこ、階段から手を振るゆっこ、彼氏の肩にもたれかかるゆっこ、どのゆっこも幸せそうだったが、最後に頭に浮かんだのは、げっそりとした、血の気の引いたゆっこの顔だった。ゆっこの背後には夜の森のようにどこまでも続く暗闇が広がっている。闇の中からゆっこが顔だけを覗かせ、焦点の合わない目で虚空を見つめている。まるで、深い森に魂を捕らわれ、閉じ込められているような、そんな顔をしている。そして、背後から誰かに押さえつけられている。詩織は思わず、ゆっこの名前を呼んだが、その声は泡となって消えた。その瞬間に、詩織は声を出して泣き出した。


詩織の、ただ事ではない様子を見て、新体操部員たちが詩織に駆け寄った。詩織は崩れ落ち、その場に座り込むような形になった。


「しおちゃん!」


体育館の半面を使っていたバスケ部の教員と三年生も、詩織の異変に気づきやって来た。


「三浦先生!」


「しおちゃん!」


年配の男性教員が詩織を後ろから抱きしめ、引退していないバスケ部の三年生たちが、新体操部の一、二年生を押し退けて詩織の周りに集った。押し退けられた新体操部員も、素直にその後ろから顔を出した。詩織はなおも、声を張り上げて泣いた。そのうちに過呼吸を起こしたが、鴻上梨子がすぐにビニール袋を頭から被せ、男性教員が身体を押さえつけると、徐々に詩織は落ち着いていった。


「三浦先生、大丈夫だ。」


「しおちゃん大丈夫だよ。」


部員たちは口々に詩織に声をかけ、手を握った。バスケ部の教員は、詩織の首筋や肩甲骨を軽く揉んだ。詩織は、軽い呼吸を何度も繰り返しながら、少しずつ肩から力を抜くように意識をした。「三浦先生!」体育館の入り口に柏木が現れた。柏木は、生徒の間をすり抜けて詩織の口元に耳をやった。


「呼吸は安定しているわ。震えも治まっている。大丈夫よ。立てる?」


柏木が、普段は見せないような猫なで声でそう言った。袋を自力で外した詩織は、そのままフラフラと立ち上がり、柏木の肩に捕まった。


「大丈夫ね。一旦、職員室に行くわよ。あなたたちは今日はもうおしまい。片付け。」


「はい!」


新体操部員は、キリッと揃えた声を出した。柏木はそのまま詩織を保健室へと運んだ。保健室は、長期休業中だというのに鍵が開いており、柏木はそこで待っていた養護教諭に詩織を任せた。養護教諭は、汗をかいているシャツを脱がせて新しい肌着を渡し、準備しておいたベッドに詩織を寝かせて、詩織の化粧っ毛のない顔をタオルで拭いた。詩織は養護教諭の問いに答えながら、細かな指示に従い、ベッドに入ると途端に眠ってしまった。一方、養護教諭へバトンタッチした柏木は、すぐに体育館へと戻った。柏木が戻ると、床のマットは全て片付けられており、最後のモップがけもちょうど終わった。


「集合!」


鴻上梨子が、部員を集めた。柏木は、軽く手を叩いて部員を迎えた。


「ご苦労さま。今日はしっかり動けていたわね。ありがとう。バスケ部の子にも感謝しなきゃならないわね。明日の練習は、特に連絡がない限り予定通りやるわ。今日の様子だと三浦先生も大丈夫でしょう。遅刻、忘れ物しないようにね。」


「はい!」


「解散よ」


「気をつけ、ありがとうございました。」


「ありがとうございました!」


清々しいほどに爽やかな礼が、体育館に響き渡った。それに被さるように、体育館を走り回るバスケットシューズの音がバタバタと響く。割り当てられた時間よりも早く活動を終えた新体操部員たちは、無駄口をきくことなく体育館を後にした。柏木は梨子を呼び止めた。


「練習中、何か気になることはあったかしら。」


「特にありませんでした。」


「そう。じゃあ、今回も突然?」


「はい。突然泣き出しました。」


梨子は下を向いて答えた。


「そう。あなたたちには迷惑かけるわね。特に梨子、あなたたちの学年は、去年も顧問の先生が最後までもたなかったし、今年も駄目かもしれないわ。あ、そういう意味じゃないの。三浦先生、いま、精神的に大変じゃない。」


梨子は神妙な顔をして柏木の話を聞いた。


「あんなことがあったんだもの、本当なら仕事を辞めてもおかしくないくらいよ。三浦先生は頑張っているわ。」


「はい。三浦先生は私たちのために、本当に頑張ってくれています。それなのに、私たち迷惑かけてばっかりで、今回も私たちのせいなんじゃないかって思います。」


梨子は消え入りそうな声で言った。柏木はふと、梨子の顔を見た。梨子は、下を向き、神妙な顔をしてはいるが、目はしっかりと見開いていて、決して悲しんだり気落ちしたりしている目ではなかったように思えた。


(もしかしたらこの子…、)


一瞬不安が襲ってきたが、柏木はその先を考えるのを止めた。






春から採用になった三浦詩織は、あの事件以降、目に見えて不安定になっていた。採用時から比べて、授業や部活指導では格段に良くなったが、もっと別の部分で悪い夢に悩まされていた。柏木恭子は、あの日のことを思い返した。三浦と田村と三人で、田村の車に乗ってゆっこを探しに出た日だ。






恭子たちは、三人で見回った。生徒がいれば車の窓から恭子が声をかけた。田村は運転し、三浦は後部座席でずっと何かを考えていたようだった。そんな三浦の様子がおかしいと、最初に言ったのは田村だ。公園につき、三浦が車を降りるとすぐに後を追った。そのときに田村は確かにこう言った。


「僕に任せてください。先生はここにいてください。危ないですから。」


今考えれば、何が危ないことがあろうかと一蹴すべきことだったが、そのときは田村の勢いに押されて車からは出なかった。そしてそれが唯一の正解だった。恭子は助手席に座ったまま、再び学校に電話を入れた。


「生徒から聞いたという公園に来ています。ここを見たら帰ります。」


電話に出た教頭は、わかりました、とだけ言って電話を切った。これは、あとで確認もしている。電話を切り、恭子はそのまま娘の瑠菜にメッセージを送った。


「遅くなるからご飯お願い。」


そのたった三十秒ほどの間に、田村は殺された。そして、その場にゆっこがいたのだ。


ゆっこは、すぐに救急搬送されたが、今に至るまで病状は安定していない。警察が無理に話を聞いたが、意味のある内容の話は聞けなかった。そして、そのとき既にゆっこは妊娠していたという。三浦は、警察に何度も事情聴取を受けたが、その度に取り乱した。犯人が男であるらしい、というところまではなんとか判ったが、それ以上の情報は聞けていないらしい。柏木は最も長く聴取に応じた。自分の見たことや聞いたことを、寸分の狂いもなく喋ったが、その翌週には再び聴取に駆り出された。その度に同じ事を繰り返した。お陰で、その間の記憶は完璧になっている。


三浦が不安定になったのは、それからだ。突然、意味もなく泣き出したり、ボーッとしたりした。誰が見ても不安定だったが、話しかけても大丈夫としか言わない。授業中に取り乱すことはなかったが、部活中に二度、過呼吸を起こした。今回が三度目である。最初の一回目は、とにかくその場にいた全員がパニックになったが、二回目からは、恭子が作ったマニュアル通りに生徒たちは行動した。今日は、バスケ部の三年生が予定にない動きをしたが、新体操部の一年生は、確実に柏木を呼びにきて、その足で養護教諭にも知らせに行った。とりあえず、不安定な三浦の分は、カバーする体制が整っているものの、いつ三浦が辞めるかもしれない。そのときには、自分が新体操部を掛け持つ心づもりではいたのだ。






三浦とは異なり、段々と恭子はあれを忘れつつあった。当初は、一生忘れられないだろうと思ったものだか、案外自分は強いというか、ズボラなのかもしれない。もう思い出そうにも、前後のことは完璧に言えるが、あれだけは正確には思い出せなくなった。潰れた柿のように、頭が吹き飛んだ田村の遺体のことを。

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