第6話 三浦詩織 3

その日の昼休み、全職員が職員室に集められた。基本的に昼は休憩時間だが、緊急の打ち合わせ等が入った場合には、こうして召集されることがこれまでにもあった。内容は、鈴木友香の件だった。家庭訪問に行っていた友香、ゆっこの担任から、先程教頭先生の携帯に連絡が入ったが、その内容は、ゆっこが昨夜から家に帰っていないというものだった。


「ゆっこが!?」


職員室は途端に騒がしくなった。職員室の入り口では、柏木が生徒に対して事情を説明して、入室制限をかけていた。もちろん、ゆっこのことは伏せている。


「ご家族の方は、既に警察に届けを出しています。警察は、一応見回りを強化してくれるということです。どこかで事件や事故に巻き込まれているかもしれません。先生方で、何か情報を知っている人はいませんか?」


詩織は、ふと昨日の生徒たちの会話を思い出した。たしか、ゆっこの彼氏を見てみたいから行ってみよう、などと話していたはずだ。詩織はそのことを言うべきかどうか悩んだ。勘違いであれば取り返しのつかないことになるし、それに、あとで教頭先生に言えばいいとも思ったからだ。


「三浦先生、どうしたの?」


向かいに座る田村が、詩織の様子を見て小声で話しかけてきた。


「あの、昨日、ゆっこのこと話してる生徒が、いたんです。」


田村は頷くと、手を上げて教頭先生を見た。教頭以下、全職員が、三年生の教師団に注目した。


「こういうときは細かな情報が大事なんだ。説明して。」


田村は、そう優しく言った。詩織は立ち上がり、昨日の顛末を話した。


「昨日、バスケ部と新体操部のあとに帰った生徒がいると思うんです。二年生だと思うんですけど、私は顔は見ていないんです。その子たちが、ゆっこのことを話してました。」


「それ、誰なんですか?」


「すいません。わかりません。声しか聞いていないので。それで、その子たちが言ってたのは、ゆっこの彼氏を見てみたい、すぐだから行ってみよう、って。」


「それ、昨日の夜のことですか?」


「はい。七時くらいです。」


詩織は確認するように時計を見た。一時を回ったところだった。


「昨日、その時間まで部活をしていたのはどこですか?」


教頭先生がそう聞くと、美術部顧問の佐藤が手を上げた。佐藤は三十代後半だが、綺麗な顔立ちをしており、生徒からは絶大な人気を誇っている。


「美術部の二年生は、鈴木さんと関係があるんですか?」


「あの子たちは、ゆっことは仲いいですよ。」


「じゃあ、二年生の先生と佐藤先生、三浦先生で打ち合わせをして、その子たちに話を聞きましょう。今すぐがいいですね。それが終わったら再び皆さんを集めます。今日は部活動は中止にしましょう。」


教頭先生の鶴の一声で、方針が決まった。詩織は、二年生の先生たちのところへ行き、昨日の声の主についての情報を提供した。しかし、学年主任の男性教諭は、詩織の対応を避難した。


「三浦先生、なんで寝ちゃったの?生徒の命に関わることだよ。」


「すいません。」


詩織はばつが悪そうにした。一瞬、職員室に静寂が訪れたが、それをけたたましく破ったのは、柏木だった。


「ちょっと、三浦先生は一番大変な部活を持っているのよ!そんなことを言うんだったら、あなたが新体操部の顧問をやれば良かったじゃない!年度当初に断っておいて、何が命に関わる、よ。やらせといて文句言ってるんじゃないわよ!」


柏木の雰囲気に気圧され、二年生の教師たちは沈黙した。


「三浦先生、ごめん。じゃあとりあえず、美術部の生徒を集めて、情報をもらおう。佐藤先生と三浦先生、立ち会ってくれるかな?」


学年主任に言われ、詩織たちは頷いた。






「え!ゆっこがですか!?」


使われていない教室に集められた美術部の生徒たちは、口々に驚きの声を上げた。詩織は、昨日の生徒が誰だったのか、美術部員たちを細かく観察した。


「昨日、部活が終わったあとに、ゆっこのことを話していた人がいただろ?別に責めるわけじゃない。情報がほしいんだ。ゆっこがどこへ行くか心当たりある人、いないか?」


詩織は、学年主任の話を聞きながら、生徒たちをくまなく見た。すると、あることに気がついた。美術部は、ほとんどが三年生だったのだ。詩織が、一緒に生活をしている彼女たちの声を聞き間違えるはずはなかった。


「二年生って何人いるんですか?」


詩織が佐藤に小さく聞くと、「三人ですよ。」と佐藤は言った。そして何人目と何人目という風に指を指して教えてくれた。


詩織が改めてその子たちを見ると、彼女たちはその意図に気づいたのか、サッと視線を反らした。


その瞬間、詩織は奇妙な感覚を覚えた。教室全体が濃い藍色に染まるように薄暗くなり、まるで水中にいるかのような透明感の中に包まれた。言葉を発する学年主任の口元からは、言葉の代わりに数粒の気泡が出てきて、ゆっくりと天井に向かって昇っていった。生徒たちの髪の毛は、水に揺らいで美しい珊瑚のようになびいた。水の中だというのに、彼女たちは顔色一つ変えず、両膝を合わせ、その上に行儀よく両手を乗せている。そして、全ての人や物が段々と動きを緩め始めたかと思うと、遂に全く動かなくなった。学年主任は、一点を見つめて立ち尽くしていた。詩織の隣にいる佐藤も、端正な顔立ちのまま、まるでマネキンのように息を止めた。少し気味悪くもあったが、しかし、やはり佐藤は綺麗だった。


詩織は、その光景にしばらく見とれていた。動きを止めた少女たちは皆、美しかった。詩織はふと、自分がもし男であれば、今すぐ彼女たちの髪を撫で、頬にキスをしていたかもしれないということを思った。詩織はそして、自分は動けるということにも、すぐに気が付いた。詩織が手を上げると、空気が揺れた。何か言おうと口を開けると、学年主任のように、開いた口からは気泡が漏れた。その気泡を目で追っているうちに、詩織は、生徒たちの席の方に奇妙なものを見つけた。黒い、インクの染みのような塊だった。一瞬、見間違いかと思い、目を強く瞑ったが、瞼の裏側にも黒い塊は見えた。


詩織は幼児期にかかった、飛蚊症を思い出した。誰にでもかかる病気で、自然に治ると医師には言われたが、詩織の場合は他の子供よりも長引いた。治ったと思えばまたすぐに現れては、糸屑のような黒い線が、詩織の視界の中を縦横無尽に飛び交った。症状が出る度に、詩織は母親に大袈裟に訴えた。母親は何度も病院に連れていったが、結局これといった治療もしないまま、いつの間にか症状が出なくなったのだった。


今、詩織の目の前には、幼少期に見えていた飛蚊とは全く別の黒色の塊がある。塊は徐々に大きくなり、やがて詩織の視界一面を多い尽くすほどになった。本来なら目を背けたくなるような事象が目の前で展開されていたが、詩織は目を閉じることができなかった。なぜなら、塊の奥に、詩織の目にはゆっこの顔が見えていたからだ。


詩織にはなんとなく、そこにあるゆっこの顔が映像のようなものだとわかった。笑顔のゆっこ、制服を着ている。隣には、おそらく男だろう。顔は見えないがゆっこに寄り添っている。背後には陽射しが差し込む緑地が見えた。空き地には黄色で統一された遊具がある。そうした遊具や水道が、映像の中で浮かんでは消えていった。公園の背後には大きなアパートを中心に、閑静な住宅街があった。そして最後に、公園の入り口によくあるような、石のプレートが出現した。「あい公園」と辛うじて読めた。


「…公園」


詩織がそう口に出した途端に、視界を覆っていた黒い塊はスッと消え失せた。そして教室中を覆っていた水中に、プランクトンだろうか、白く輝く粒が大量に現れた。粒は教室中に広がり、床から天井まで等間隔に撒き散らされた。まるで加工されたダイアモンドの煌めきであり、教室が見たこともないほど輝き、幻想的な空間を創り出した。一つひとつの粒が意思を持っているかのように輝きを増していき、自由に水中を泳ぎ始めた。ほどなく、粒が大きくなり始め、そうかと思うと、なんと粒は鳩に形を変えた。千羽の光り輝く鳩が、水面に向かって一斉に飛び立った。詩織は、一瞬顔を反らし、目を瞑ってしまったが、次に目を開けたときには、皆が詩織を見ていた。


「三浦先生、大丈夫ですか?」


佐藤が、気を遣った。何もないところでいきなり、何かにビックリして顔を反らしたのだから、無理もない。


詩織は、大丈夫です、という代わりに、今見たことを口に出していた。


「公園…」


詩織の視線に射すくめられた二年生は、下を向いた。


「公園?三浦先生、公園ですか?おい、公園ってどこの公園だ。」


強面の学年主任が、語気を強めて彼女に迫った。他の生徒は静まり返っている。


「どこの公園なの?」


佐藤も大きな声を出した。生徒は観念したのか、顔を上げて話し始めた。






「昨日、ゆっこが彼氏と会うから先に帰るって、いつもはうちらを待っていてくれるんですけど、先に帰ったんです。彼氏がいたなんて知らなかったから、茶化したんですけど、すごい真面目な顔して帰っていったんで。」


他の生徒、特に三年生は驚きの表情を見せた。学年主任の判断で、事情を知らなかった生徒は教室に戻され、その場には二年生の三名が残った。教師たちは難しい顔をした。


「なんか、ふれあい公園で待ち合わせしているんだって言ってました。」


「男の人と一緒にいたってことなの?どんな人?」


佐藤が顔をしかめながら聞いた。


「詳しくはわかんないですけど、ゆっこは全然変なことはされないって言ってました。絶対に安心できる人だからって。」


「それ、いつから付き合っているの?」


「わかりません。」






そこから更に細かな聞き取りが行われ、午後の授業が終わった後に、再び職員が集められた。聞き取りの結果が報告され、教頭先生から方針が出た。


「今日はもう生徒を帰しましょう。寄り道をせずにしっかり帰ることを指導してください。警察には連絡してあります。先生方は、下校時のパトロールをお願いします。」


三人ずつ組んで、パトロールが割り当てられた。詩織は、田村と柏木の三人で回ることになった。田村が車を出し、詩織たちはそれに乗り込んだ。


「ゆっこ、心配ですね。」


田村が助手席の柏木に話しかけた。柏木は小さく頷きながら、車窓に目をやった。気が気でないのが伝わってくるようだった。詩織ももちろん心配だったが、少なくてもゆっこは生きているという確信のようなものはあった 。三十分ほど、車は指定された地区を回り、周囲に生徒の姿がなくなった頃、柏木が学校に電話を入れ、パトロールの様子を報告した。学校からは、引き続き辺りを見回って、何もなければ帰ってくるよう指示が出た。


「田村先生、ちょっと回りましょう。」


柏木の指示に、田村は従った。極力、今まで行っていない土地を中心に車を走らせた。詩織は、後部座席から目を凝らした。田村も柏木も、一言も発せずに辺りを窺った。車は大通りから小路に入り、住宅街の真ん中を走った。車がすれ違えないような細い路地では、スピードを落として奥まで見るようにした。そうしてしばらくパトロールを続けていたが、ある角を曲がったときに、詩織は思わず「あ!」と声を出した。


「三浦先生、どうしたの?」


詩織の目には、記憶に新しい風景が飛び込んできた。住宅街の真ん中に出現した公園、黄色い滑り台とブランコ、鉄棒、水道、全てが記憶の中にある公園と一致した。


「ちょっと止めてください。」


詩織は強引に車を止めさせた。公園の入り口には、「ふれあい公園」という石碑が立っていた。


「美術部の子、ふれあい公園って言ってました!」


車に向かって叫ぶと、田村はすぐに降りてきた。ただし、詩織のただ事ではない雰囲気に乗せられたに過ぎない。柏木は車で、誰かに電話をかけていた。詩織は、迷わず公園の中に足を踏み入れた。


手前側と奥側にベンチがあったが、詩織は真っ直ぐに奥のベンチまで進んだ。田村が、じっと詩織を見つめた。詩織がベンチの前に立った途端に、地面から大量の泡が吹き出た。泡は、空に向かって一直線に昇っていった。泡風呂のように、絶え間なく泡が浮かんでは、上空に消えた。気がつけば、辺りは深い水の中だった。遥か上の方に光が差し込んでいて、そこが水面だとわかった。泡は、地面から発して真っ直ぐに空へと昇ったが、次第に泡に代わって、赤と青の飛蚊が螺旋を描くようにして上昇を見せるようになった。飛蚊は、一つひとつがそれ自体光り輝いており、詩織の視界の中に無数に飛び交っている。辺りが、まるで夜のブロードウェイのように明るくなった。糸屑のように小さいものもあれば、トラックのタイヤより大きい飛蚊も見ることができた。目の前の一組の飛蚊をじっと眺めていた詩織は、赤と青のビー玉のような玉が、光を発しながら二重螺旋を描きつつ、上昇しているのを知った。そして、教室で見たのと同じように、映像が、詩織の脳内に次々に溢れ始めた。ゆっこの顔、ベンチ、四角い空、男の顔。


詩織は、映像のその男の顔を見た途端に、激しい動機に襲われた。そして、次の瞬間、透き通っていた海中が、淀んだ黒色に変わった。全ての人や物が動きを止めていく中で、詩織以外にも歩みを止めない者が一人いた。詩織は、振り替えることができずにいた。


「三浦先生?」


詩織は目を固く閉じ、先刻と同じように鳩が現れるのを待ったが、皮肉にも瞼の裏側には黒い塊が現れ、遠慮なく笑う男の顔を映した。男は、笑いながらこちらに近づいてきていた。


「三浦先生は本当に、しょうがないな。」


そう聞こえたかと思うと、男の手が詩織に伸びた。詩織は後ろから力任せに髪を引っ張られ、無理矢理振り向かせられた。田村の顔が目と鼻の先にあった。恐怖のあまり、詩織の身体は動かなくなっていた。


「どうする?ゆっこと一緒にいるか、死ぬか。」


田村は左手を振り上げたかと思うと、たちまちその空間に黒い塊が現れた。それは冷蔵庫ほどの大きさになり、辺りの淀んだ黒と見分けがつかなくなった。次の瞬間、田村は左手をその中に突っ込むと、ゆっくりと引き出した。手には頭髪が絡み付いるように見えたが、引き出されるにつれ頭部そのものだとわかった。血の気の引いた鈴木友香だった。


詩織は思わず叫んだ。


「ゆっこ!」


詩織の声は気泡となって上空へと押しやられた。たまらずゆっこに手を伸ばすと、ゆっこも小さく反応し、詩織に向かって弱々しく手を伸ばしてきた。


「ゆっこと一緒にいたいんだね。わかった。三浦先生は年齢オーバーだけど、頑張っているから、あとで特別に可愛がってあげるからね。」


田村はおぞましいほどに目を見開き、微笑んだ。詩織は、必死で手を伸ばし、ゆっこの手を握った。しかし、その手はすぐに引き剥がされた。ゆっこは田村によって、再び冷蔵庫の中に押し戻された。詩織は全力で叫んだ。


「ゆっこ!」


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