第5話 三浦詩織 2

 昨夜、付け焼き刃で準備した授業の内容が、生徒には全くウケなかった。いつもうるさい生徒たちが、余計にうるさくなった。一旦こうなると、もう誰にも止められなくなる。教室の所々で無駄話を始めるグループができ、真面目に授業を受けたい生徒達は机に顔を伏した。詩織が注意をしても誰も聞かなかった。用意した課題は床に投げ捨てられた。捨てたのは新体操部の生徒だった。詩織はそれを拾い、真面目にやるよう彼女に言ったが、彼女はあろうことか詩織に暴言を吐いた。周りの生徒が数名、詩織を笑った。


「ちゃんとやりなさい!あなたたち、高校生でしょ、恥ずかしくないの!」


「しおちゃん、本当の先生じゃないんでしょ?試験に受かっていない人に言われたくない。」


そこでまた笑いが起きた。教室中の生徒が詩織を見ていた。詩織は泣きだしそうになるのを堪えて彼女たちに精いっぱい声を張った。


「私が試験に受かっていようが、関係ないでしょ。なんであなたたちは人のせいにしかできないの?自分の人生なんだよ。もっと真剣にやろうよ!」


弱々しい言葉だったが、今までの詩織には見られない立ち居振る舞いだった。昨日、新体操部の子たちと約束したのだ。投げ出すわけにはいかなかった。教室のだらだらした空気が、ひりつく緊張感に変わった。教卓の下で、詩織の膝は震えていた。心臓の音が、彼女たちに聞こえないかと心配するほど高鳴った。詩織は顔をきつく引き締め、全員を見渡した。生徒たちは、一瞬静かになったが、すぐにぼそぼそと話声が聞こえ、段々とざわめきが戻ってきた。詩織は小さく肩を落とした。


 静かになることはなかった。しかし、数名の生徒はじっと詩織を見ていた。授業が終わったあと、次の時間にも授業が詰まっていればそそくさと教室を出るのだが、あとに授業がなければ休み時間の終わるギリギリまで教室にいることにしていた。しかし、この授業が終わった後は例外だった。一刻も早く職員室へと消え去りたかった。詩織は手早くノートや筆記用具をまとめた。




 いつもは教壇に立ったまま、何かをしているふりをして、生徒たちを観察した。「教師は教室のゴミになれ。」以前の勤務校で教わった言葉だ。この学校では積極的に生徒と関わろうとする教員が多いが、詩織は教室のゴミになることをいつも意識した。ここぞというときさえ外さなければそれでいい。自分の存在を極力消して、生徒同士の交流の様子を見た。一度ゴミになると決めれば、生徒もそれを了解したかのように自由に振る舞う。他の教員の前よりも、詩織の前では素直な彼女たちの姿が見られた。


「パパ活するわ」


 もちろん冗談である。女子校という、どこか安心できるがこれ以上ない窮屈な場所に閉じ込められた、彼女たちの心理は複雑だ。思春期には、異性との関わりを通して飛躍的に成長することがある。男との関わりを通して女らしさを意識したりするのだが、彼女たちには、関わる男子がいない分、周りからは個性的な発言や大人っぽい発言が求められ、それをできる生徒は好かれた。塾にでも行っていなければ男性との接触は本当になく、男子と遊んだ者がいたら翌日にはヒーローになっていた。詩織が、彼女たちを可愛いと思えるのは、唯一男性への耐性がないことだけだった。




「しおちゃんさ、部活大丈夫なの?」


 笑顔を取り繕いながら、教室を出ようとする詩織に、生徒の一人が話しかけてきた。吹奏楽部の柏木瑠菜かしわぎるなだった。吹奏楽部顧問の柏木恭子の娘で、母親の恭子は昨夜、廊下で寝ていた詩織を気遣ってくれた。おそらく、家で母親から聞いたのではないか。心配そうな顔つきで詩織を見た。


「あたし新体操部の人たち、嫌い。しおちゃんよく我慢できるよね。」


詩織は周りを見渡しながら笑顔を作った。


「私はあの子たちを信じているから。一人ひとりはいい子なのよ。」


「でも、陰で悪口言ってるよ。授業中もうるさいし。」


「私も、あまり先生らしいことしてないから。あの子たちに迷惑かけちゃってるし。しょうがないかな。」


「なんで!先生たち、うちらが悪口言ったら怒るじゃん。悪口言われた方が我慢するなんて変だよ。」


 瑠菜はいつになく真剣だった。詩織は、瑠菜の正義感がありがたいと思った反面、余計なことはしたくないという思いを強く持った。


(みづきたちは変わりたがっている。それなら彼女たちを信じて待つべきだ。)


 だが、その気持ちが本心でないことくらい詩織にもわかるし、きっと瑠菜にも見透かされている。新体操部の子たちは、指導を強めると必ず反発してくる。まだ連休明けの二日目、赴任してからまだ一か月と少ししか勤務していないが、既に詩織には、彼女たちの反発に耐える力は残っていなかった。瑠菜が一歩前に出ると、頭髪からローズグリーンの香りが詩織の鼻を掠めた。その香りを嗅いだとき、大袈裟ではなく、詩織は瑠菜を愛おしく感じた。そして軽く瑠菜を抱き寄せた。瑠菜は、たんぽぽの綿毛のように軽く、いとも簡単に詩織の腕の中に収まった。


「瑠菜ちゃん…」


 瑠菜は嫌がると思ったが、詩織の抱擁を受け入れた。そして、詩織の腕の中に顔を埋めた。他の生徒が珍しいものを見るような目で二人を見たが、その中に嫌な視線はなかった。


「先生、頑張りすぎだよ。」


 瑠菜は、詩織の腕の中で泣いていた。気付けば、瑠菜以外の数名の生徒たちも詩織の許へと集まっていた。遠巻きに見ている生徒たちも皆、詩織のことを心配していた。


 詩織が傷つくのと同じだけ、彼女たちも傷ついていたのだ。思わず身震いをした。この子たちは健気に生きている。詩織は心から自分を恥じた。自分だけが辛い想いをしたし、誰にも頼れないでいた。しかしそれは錯覚で、思い上がりだったし、そのことでは同僚にも生徒にも迷惑をかけている。迷惑をかけていることにすら気がつかなかった。大人が人を頼らないで、なんで子供にそれを教えられるのか。大人がしっかりしないで、そんなんで子供が育つというのか。大人が諦めたら、誰が子供たちの人生を導けるのか。


 この子たちは蕾だと思った。少し背伸びをしているリンゴの蕾だ。まだ発育途上だが、リンゴの花は蕾の方が美しいと詩織は思っている。彼女たちは、薄紅色の蕾の中に黄色の雌蕊も花びらも隠している。この子はどんな花になるのだろう。詩織は、自分がリンゴの木になったような気がした。枝の一つで、この子たちが花を咲かせる。瑠菜ちゃん、みづき、ゆっこ。この子たちはどんな花になるのだろう。詩織は一つひとつの花の蕾たちを心から守りたいと思った。そしてふと、この感覚は一生忘れないとも思った。


 いつの間にか溢れていた涙が一筋、すっと流れ落ちた。新体操部の練習中にも、前の学校の卒業式でも、同僚から厳しい指摘を受けたときも、深夜まで働いているときでも、詩織は泣いたことはなかった。自分は強く、人前では決して泣かないと思っていた。それがコンプレックスでもあったのだが、詩織はちゃんと泣けていた。


 教室にいた生徒たち二十名ほどは、皆いつの間にか詩織の側に集まっていた。「しおちゃん泣かないで」と、泣きながら言う生徒もいた。詩織は、今は無理だが、花びらの話をいつかこの子たちにしてあげたいと思った。一人ひとりが本当に愛おしい。それはもちろん、教室に入れず廊下から様子を伺っている、新体操部の部員たちも同じだった。詩織は、今なら自分が望む教師に変われると思った。






「三浦先生、なんかいいことあったの?」


詩織が副担任を務めるクラスの担任である、田村が話しかけてきた。田村はまだ二十九と若いが、指導力があり多くの生徒から慕われている。妻子を持っていて、しっかりしているが、詩織にはいつもからかうように接してくる。


「ちょっといいことがあって泣いちゃったんです。」


「本当?なにがあったの?」


田村は興味津々といった感じで聞いてきた。職員室には他の教員も数名いたため、あまり大声では言えなかった。それに、どういうふうに説明したらいいのかも咄嗟には思いつかなかった。なので、詩織はさっきの比喩で表現することにした。


「あの、ちょっとうまく言えないんですけど、りんごの木に蕾を見つけたようなことがあったんです。それで、さっき感動して泣いちゃって。」


詩織がそう言った途端に、通路を二つ挟んだデスクにいる初老の国語教師が笑った。田村も窓の外を見ながら、白い歯を見せた。確かに変な例えだったが、他に言いようがなかった。指導がうまくいかなかったこと、子供に慰められたこと、子供たちが花の蕾のように思えたこと、どれも言いたくはなかったのだ。二人に笑われて、詩織も思わず笑ってしまった。


「三浦先生、そんなふうに笑ったの初めて見た。良かった。」


田村は笑いながら目の端を拭った。田村はずっと、何も言わずに詩織を見守ってくれた。この人も温かい人なのだ。田村もまた、リンゴの花に見えたような気がして、苦笑いをしてしまった。詩織は、田村の足を引っ張らないようにと、あまり頼らないようにしていたが、かえって心配をかけていたのかもしれない。この一か月、田村や柏木、他の教員とも、詩織はろくに話をしていなかった。田村はなんで教師になったんだろう。授業中に生徒がうるさくなったらどうしてきたのだろう。田村に色々と聞いてみたくなった。沈んだ灰のような色だった職員室に、木漏れ日が差し込み一気に華やかになった、詩織の目にはそういうふうに見えていた。詩織は、しばらく見慣れたはずの職員室内を見回した。給湯室、印刷室、書籍棚、そして職員室の入口付近には出欠を記入する黒板があった。それすら、変な感じに見えた。


詩織は何気なく出欠を見たが、田村も詩織の視線を追って、同じものを見ていた。2年C組の欄にあった、鈴木友香の名前だ。


「ゆっこ、休みなの珍しいね。」


詩織も同じことを思った。そういえば、昨日の話は一体なんだったのか。ゆっこの彼氏の話をしていた気がする。明日、学校に来たらゆっこに直接聞いてみようか、詩織はそう思いながら、世界史の教科書を開いた。今日の授業では、ローマ帝国について調べるという課題だったが、ローマ帝国と日本を比較させるとか、そういう課題のほうがアクティブラーニングになるかもしれない。なんだか、止まっていた思考が動き始めたような感じがした。詩織はパソコンを開き、授業で使うレポート用紙を作成した。

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