第4話 三浦詩織 1

「しおちゃん、またねー。」


「先生でしょ。さようなら。気を付けてね。」


 笑顔で手を振る女子高生たちを、Tシャツにジャージ姿のまま校門から見送った。見方によっては彼女たちは天使にも見えるかもしれない。白のブラウスと清潔そうなスカート、透き通るような白いうなじには、校則で定められている黒のスカーフがよく似合った。だが彼女たちは、日常的に悪魔のような顔を見せるし、アカデミー賞女優のように振る舞うこともある。どちらにしても不安定な存在であり、その意味では可愛い存在であるといえなくもない。


 三浦詩織みうらしおりが教壇に立ち始めてもう半年になる。昨年の三月に四年制の大学を卒業してから、半年間は学習塾でアルバイトをしながら過ごした。教員採用試験に落ち、どの企業からも内定がもらえずに腐っていたその時の詩織を、雇ってくれたのは母校の私立高校だった。詩織はそこで、一月から三か月間、臨時教員として働いた。


 授業のみを担当する時間講師という雇用形態で、詩織は一年生の政治経済と、お情け程度に三年生の倫理が任された。三年生は卒業間近であり、ほとんど授業がなかったが、一年生は四つのクラスに三時間ずつ、週十二時間の授業を行った。拘束時間と給料を比べると、アルバイトとさして違いはなかったが、とにかく疲れた。先輩教員は詩織に、「肩の力を抜きなさい」とアドバイスをした。子供たちは皆いい子で、詩織の話をきちんと聞いてくれた。だからこそ、詩織が緊張していると子供たちも緊張し、結果としてお互いが疲れてしまったいたのだった。家に帰ると肩が異様に凝った。女手一つで詩織を育ててくれた母は、毎晩詩織の肩を揉んでくれた。それで随分と楽になったが、翌日にはまたすぐに疲労が溜まった。それでも、土日は完全に休めるので、昼まで寝たあと、勉強をしたり家事を手伝ったりする時間も取れていた。


 四月から赴任したのは女子高であった。ここでは、時間講師ではなく、代替採用として、つまり正規職員の代わりとして勤務をすることになった。必然的に公務分掌と部活指導が詩織には割り振られた。分掌は教務部、部活は新体操部だった。詩織は中学校でも高校でも、バスケ部の部長を務めていた。高校のときには、県大会でベスト四まで勝ち進んだ実績もあった。しかし赴任先のバスケ部には、監督とコーチが二名、外部コーチまでが指導に関わっていて、詩織の入り込む隙はなかった。一方、新体操部は一昨年まで、県でも屈指の名コーチが指導していたが、定年退職した後は一切、部との関りを断っていた。昨年度は代わりに新採用の教員が顧問に就いたが、一年で退職してしまった。そこに詩織が充てられたのだった。四月当初は、部員たちは皆詩織を大歓迎した。若くてスポーツができ、他の誰にも染まっていない詩織は、新制新体操部のシンボルであった。部活は三年生が仕切って進め、詩織は見ているだけで良かった。先生らしいことは何もできなかったが、自分は素人なのだからしょうがないと自分に言い聞かせた。


 四月の終わり頃だった。夜、職員室でテストの採点をしていたときに、新体操部部長の橋本みづきが凄い勢いで職員室に入ってきた。そして、詩織のもとではなく彼女の担任の教師の席へ行き、部活の愚痴をこぼし始めた。「他の部員が真面目に練習をしてくれない。」「私のことを舐めている。」「しおちゃんに言っても何もしてくれない。」「しおちゃんが授業とかでいじられたりするのが嫌だ。」矢継ぎ早に口をついて出てくる言葉に、詩織は思わず手が止まってしまった。他の教師もただごとではない状況を察し、詩織とみづきとの間で話し合いをする場を設けてくれた。誰もいない夜の学園長室だった。みづきは、今まで言いたかったけど言えなかったこと、つまり厳しい練習をしたいのにそれができないもどかしさ、頼りにならない先生への苛立ち、部内の人間関係、そういったものの全てを詩織にぶちまけ、泣いた。それを聞いた詩織も泣いた。みずきの心労と、自らの不甲斐なさからだ。この時から、詩織は、子供のために頑張ろうと心に決めた。


 しかし、そう決めた途端、それまで友達のように接していた女子高生たちは、揃って詩織に牙を剥き始めた。授業中に、詩織の許可なく発言し始める生徒が出るようになり、しばしば教室が騒がしくなるようになった。詩織は、思い切って指導をしたが、詩織が注意をする度に、彼女たちは暴言を吐くようになった。他の先生と比べて、詩織の授業だけ、落ち着きがなくなった。部活では、みづきの人柄のおかげで幾分もってはいたが、三年生を中心に、詩織に対する態度は露骨になっていた。詩織が話しかけても無視をしたり、わざと詩織に技術的なことを聞いたり、詩織の指示に従わないことなど当たり前のような空気になっていた。それでも詩織は、自分に悩みを相談してくれたみづきのために、部員たちに笑顔で接し、指導し続けた。


 ゴールデンウィークには他校と合同で合宿を張ったが、散々だった。生徒たちは、まるで口裏を合わせたかのように、他校の先生がいる前ではそれなりに振る舞った。しかし、その先生がいなくなった途端に、部員たちは詩織を蔑ろにした。わざと、相手校の生徒に聞こえるように詩織の不手際を罵り、新体操ができないことを嘲笑った。合宿の終わりには、相手校の生徒が詩織に、「先生、大変ですね。」と声をかけてきた。このあと、明日からの授業の準備をしなければならない詩織にとって、その言葉は大きなダメージとなって突き刺さった。それでも詩織は笑った。笑顔で「ありがとう。あなたたち、良いチームね。」と返した。「あなたたちは」とは言わず、「あなたたちも」とも言わなかった。それは詩織の精いっぱいの抵抗だった。


 そしてこの日、連休明けの最初の練習で、みづきは部員に対して泣いて訴えた。


「このままでいいの?」


さすがに誰も茶化すようなことは言わなかった。しかし代わりに、詩織に対する不満が部員たちから出てきたのだ。「自分たちも変わるから先生も変わってほしい」「技術的なことはいいから、悪いことをした人をちゃんと怒ってほしい。」「堂々と振る舞ってほしい。」「媚びを売るような視線を止めてほしい。」「優柔不断なのが嫌だ」詩織は、その一つひとつを丁寧に聞き、いちいち頷いてみせた。そもそもが、彼女たちが問題を起こさずにしっかりやっていれば済む性質のものばかりだった。現に、四月には、先生はいるだけでいいですと口を揃えて言っていたし、顧問がどう振る舞おうが、結局自分たちが真面目に練習に励めばいいだけの話だ。部員たちからの不満の中には、詩織の人生を否定するようなものもあった。詩織としては完全に裏切られた気持ちだった。自分が、ダシに使われているということだ。それでも詩織は耐えた。みづきのためだと自分に言い聞かせて。彼女たちは、「これからはちゃんとやっていこう」という目標のようなものを立てて解散したが、高校三年生にもなってこのレベルなのかと、詩織は内心で彼女たちを憐れんだ。


 自分のときはまるで違った。自分たちは皆、一つの目標に向かっていた。いじめなんてなかったし、顧問の先生を立てながら、お互いに厳しく指摘し合うことができていた。みづきのように先生が動いてくれないと何もできないなんてことはなかったし、他の部員たちのように陰湿な人間なんて一人もいなかった。皆、それより上のレベルにいたのだ。部長だった詩織は、いつも皆の期待に応えた。絶対に無理だという状況から、詩織の活躍によって何度も試合をひっくり返してきた。礼儀正しく、しっかり挨拶をして、大会のときには一番最後まで会場のごみ拾いをしていた。誰からも褒められる部活だった。


 詩織は、そんなことを考えながら、校舎の玄関で部員たちを見送った。他の部活の生徒や顧問も鉢合わせた。バスケ部の生徒が、「しおちゃん、今度部活に来てね。」と声をかけてきた。それを見た新体操部の生徒二人が、詩織を睨みながら何事かをささやき合った。彼女たちの視線に射すくめられ、詩織は一瞬で涙がこみ上げそうになった。ボロボロの精神状態だった。彼女たちは詩織のその様子を見て、笑顔で手を振ってきたが、詩織にはその神経が全く理解できなかった。嫌なことがあるなら、とことん嫌な顔をすればいい。おまえは嫌いだと叫べばいい。そのほうがどれほどすっきりすることか。生徒が全員玄関を出ないうちに、詩織は軽い眩暈を覚え、玄関の隅に寄って座り込んだ。他の教員は、自分の生徒を送り出すことにしか目がいっていない。もう誰も使っていない公衆電話の陰に座り込む詩織の後ろを、何人かの生徒が通り過ぎた。詩織には気づいていないようだった。


「ねえ、止めなよ。」


「だって、ゆっこの彼氏、気になるじゃん。」


「うーん」


「すぐだから、行こうよ。」


「えー、あたしやだ。」


 生徒たちが行っても、詩織の頭はフリーズしたかのように何も考えられなくなっていた。硬い床は冷えて気持ちよかった。最後の生徒が玄関を出て、ようやく「ゆっこ」と呼ばれた生徒が、鈴木友香という二年生だと思い出した。二年生とは直接関りがないが、ゆっこと呼ばれるその生徒のことはよく知っていた。いつも目が見えなくなるほどくしゃくしゃの笑顔で挨拶をしてくれる生徒だった。「ゆうか」が「ゆっこ」と呼ばれるのがなんだか珍しくて、つい名前を覚えてしまっていた。ゆっこの笑顔を思い出し、詩織は思わず自分も笑顔になってしまった。そのまま詩織は、しばらく座ったままでいた。



◇◇◇◇◇◆◇◇◇◇◇



「三浦先生、大丈夫なの?」


 いつの間にか、うとうとしてしまっていた。詩織はその声を聞くとすぐに飛び起きた。夜は、先ほどの薄暮れ時よりもさらに深まっていた。時計を見ると八時だった。一時間近くも座ったまま眠っていたようだ。


「大丈夫です。すいません、私寝ちゃってました。」


声をかけてくれたのは、みづきの担任で吹奏楽部の顧問である柏木恭子だった。既に帰り支度をしている。


「いいのよ。それよりあなた、大丈夫なの?部活のほうはその後どう?」


「大丈夫です。今日みづきを中心にミーティングをして、皆で頑張ろうって確認できたんです。いい感じです。」


「そう。あんまり無理しちゃだめよ。ただでさえ大変な部活なんだから、何かあったら遠慮なく言ってね。」


「ありがとうございます。」


「あなた、試験はいつなの?もうすぐじゃないの?勉強は進んでる?」


柏木は笑顔で尋ねてきた。昨年度は駄目だった教員採用試験の日程が、間近に迫っていた。詩織は笑顔で、「はい!」と答えた。

 本当は勉強など全くできてはいない。連休はずっと部活だった。今日もこのあと、授業の準備をしなければならない。それが終わったら、みづきに渡されたDVDを見て、帰って風呂に入って寝るだけ。明日は朝練があるので、五時には起きないと間に合わない。身体がいくつあっても足りなかった。


「じゃ、お先に。」


柏木は先に帰っていったが、詩織は頭から血の気が引いていく思いがした。柏木は言葉をかけてはくれたが、してほしいことは何一つしてくれない。みんなそうだ。ここでは、みんな神経をすり減らしながら働いている。他人の面倒を見る余裕なんてない。ましてや、詩織は担任業務を外して貰っているのだ。贅沢は言えなかった。重たい腰を起こし、詩織は職員室へと歩き出した。


「彼氏か。」


頭の中で、先ほどの生徒たちの会話がよみがえってきた。どこか背伸びをしているゆっこをイメージして、詩織は微笑まずにはいられなかった。

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