春煙 ①-2


命に別状はなかったものの、以来、春。特に雷雲が近づいて来ると、パラフィン紙を透かしたみたいに目の前が霞んで、頭がぼーっとする。


霞んだ視界に波紋状の模様が広がるようになったのも、この頃からだ。


細かい波紋の時もあれば、その中に中くらいの小石を落としたみたいに、大きめの波紋が出来る時もある。


中学生になるまで、てっきりみんな見えているものだと思っていた。


目を閉じたときに、幾何学模様が万華鏡みたいに見えるあの現象─飛蚊症という説がある─と似たものだと思っていたのだ。

そもそも、万華鏡見たいな模様が見える現象も、見える人と見えない人がいるようで、この話を教室でしたときには、見えるか見えないかの話の方が盛り上がって、波紋の話は静かに消えた。


もしかしたら、飛雷したときに、網膜が焼けた影響なのかもしれないと、僕自身も深くは考えていなかった。


雷が通り抜けた跡が、焼けて枝のように模様が広がる、リヒテンベルク図形のようなものだろうと思っていた。


(そう言えば、さっきの波紋は変な感じだった)


今もはっきりとした波紋を見ながら、2限目の終わり際に見たあの小さな輪を思い出す。

途中で煙のように消えてしまった、どの波紋とも重ならなかった小さな輪。


今まであんな消え方をした輪があったか。ボーっと見ているせいで、覚えていないだけかもしれない。


「白いシャツとスプーン どっちがスキ?」

「え」


声が出た。

それが返事と受け取られてしまった。

しまった、と思った時には、もうそれは目の前に座っていて。


「真鍮の指輪とポピー どっちがスキ?」


僕のことを、連れていくつもりのようだった。


男か女かわからない、中間くらいの太さの体に白いシャツ。

声も中性的だった、男にしては高く、女にしては低い。

ただ、声はずっと上から降って来る。

ずっと、ずっと、もしかしたらこの食堂の天井よりも、ずっと、高い。


目が動かせる視界の範囲ではどこまでが胸部か、どこからが首なのか見えない。

ひたすらに背の高いモノが目の前に座っていた。


「鈴と秋雨 どっちがスキ?」


返事をしたら、連れて行かれる。


お盆を持った女子数人が横を通り過ぎていった。

波紋を見ている時みたいに、周囲がぼんやりしていて、彼女たちからも、こちらが良く見えていないようだ。


目は覚めている。意識もはっきりしているはずなのに、周りは霞んでいて、誰が誰だか見分けもつかないくらいだ。


波紋はいつの間にか無くなっている。

心臓の音と、空から降ってくる声以外、水の中にいるみたいに音がこもっている。


「春と古い聖書 どっちがスキ?」


声が真上に覆いかぶさった。つむじのすぐ近くに顔を寄せている気配がする。

頭皮がぞわぞわと泡立った。


息遣いが髪に触れそうなのに、何も感じない。呼吸が感じられない。


「鱗と雷 どっちがオマエノ隙だ」


うなじから背中に、激しいしびれが走った。


「春田」


くぐもった音を払うような、通った声が耳を衝いた。

耳抜きしたみたいに、周囲に音が戻ってくる。

白いシャツがゆっくりと動いた。


「……おにィ……めずる……」


頭上の気配が、遠くなっていく。


「じゃまァだなァ……」


問いかけの時よりも低く太くなった声が、恨めしそうにつぶやいて、すうっと消えた。

「随分と変なのに絡まれたな」

机から目を上げると、もう向かいには誰も座っていなかった。

「つかれた……」

そばの丼が目の前に出されて、体の力が抜ける。

「初めて見るやつだ。最近来たのか、隠れてただけか」

そう言って、士郎は自分のお盆をスライドさせながら、さっきまで白シャツが座っていた席に躊躇なくどっかり座った。

「しばらく様子見だな」

士郎のお盆には紅ショウガがたっぷり入った油そばと、さらに追加の紅ショウガが盛られた皿が乗っている。

僕のお盆には、湯気の立つお揚げ入りそばのどんぶりが一つ。

「ちゃんと食えよ。ああいうのにからまれると、体力以外にもいろいろ持っていかれる」

暖を取ろうと手で覆った器が、思っていたよりもひどく熱い。

手の甲を頬に当てると、冷水に浸けたみたいに冷たくなっていた。

指先でこわごわ器を持ち上げて、淵で火傷をしないように汁をすする。

冷えた胃と肺にじんわり暖かさが伝わって、深く息を吐き出した。

「幽霊に会うと寒くなるって言うけど……」

「ありゃあ幽霊じゃねぇ。妖怪だな」

そういいながらずるずるとすする油そばは、追加の紅ショウガのせいでもうそばをすすっているのか紅ショウガをすすっているのかわからない。

ツンとした酢と生姜のにおいが強すぎて、自分まで紅ショウガを食べているような気になってくる。


士郎は、いわゆる“隣人たち”についてちゃんと勉強してきた。僕は見ないふりをしてきた。その差が、こういうところで現れる。


あの落雷から、後遺症として—―後遺症と言っていいのか――意識がもうろうとすること以外に、一般に言う妖怪や幽霊、士郎に言わせると“隣人”が見えるようになった。

突然現れた“隣人たち”に、ただどうしたらいいかわからないまま、僕は小学一年生をひたすら家の奥の部屋で過ごした。


そんなよくわからないモノたちとの付き合い方を教えてくれたのが、士郎だった。


母が突然連れて来た、三つ通りむこうの家の子。

その目つきの悪い三白眼は、春田の記憶にちゃんと引っ掛かっていた。


あの落雷のあった境内に、士郎の家族も来ていた。

目つきの悪い、同い年の子。


急に何か避けるそぶりをしたから、何がいるのか聞いたら、急にむすっとした顔になって、母親のもとに走って行ってしまった。


雷に打たれたあの瞬間も、士郎はあの場に居て、きっと、それを見ていた。


すすったそばがぴしゃりと跳ねて、眼鏡に茶色の水滴がつく。

「そういえば、矢田は?」

「売店寄ってくるって。お前の小銭入れはあいつが持ってる」

「買えてもチョロイチョコ4つくらいだったはずだ」

少しして、矢田は牛丼のどんぶりを持って帰ってきた。

「春田の財布はシケてるな。チョロイチョコ4つしか買えなかった」

「人の金で買い物しといて…」

「微々たる提供をしてくれた春田には二つやるよ」

提供元に何て言い草だ。

「ほれ」

机の向こうから飛んできたチョコは、慌てて箸を置いた僕の両手の隙間を抜けて胸元に当たり、するりと床に滑り落ちていった。

「おい、投げるなよ」

「おまえほんとに今日はポンコツだな」

「曇って見えなかっただけだ」

湯気で曇った眼鏡を拭い、滑り落ちたチョコを探して机の下にかがんだ。

「いつからこんな感じなんだ?士郎は昔馴染なんだろ?」

「俺が会った時にはもうこんな感じだった」

いた。

机の下に。

「小学校からか。大変な人生送って来てんだなお前。もう一個チョロイチョコやるよ」

頭がいた。

髪の毛の無い、マネキンみたいに真っ白な、サッカーボールよりも二回り大きい巨大な頭。

マネキンなら本来白塗りにされているはずの所に、白く濁ったみずみずしい眼球がある。


『鱗と雷 どっちが隙?』


冷たい息が顔にかかった。

途端に音が遠くなっていく。

辺りが白く霞んで、体の輪郭が曖昧になっていく感覚が体を覆った。

指先一つ、眉一つ動かせない。

捕まった。

「おい、春田。大丈夫か?机の下で寝たか?」

喉はひくひくと動くばかりで、張り付いてしまったみたいに声が出ない。


士郎たちの足元すれすれに頭が動く。

左右に反動をつけて小刻みに近づいて来る。

だんだんと体に力が入らなくなってきた。

そしてとうとう、かくりと折れた膝を床に打ち付けた。


ゴツッと音が鳴った瞬間、組まれたまま動かなかった士郎の足が左に大きく降れた。

一瞬のうちにスニーカーのつま先がムギリッと首の米神にめり込み、視界から消える。

蹴り飛ばされた首は、粘土を落としたような音を立てて机の下から飛び出し、壁にぶつかるとそのまま溶けるようにすうっと消えた。

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春雷 七日 @nanokakan

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